【12-2】伽弥の危機(2)

旅亭を出た朱峩は、道の脇に佇む羅先らせんの姿を認めると、彼に近づいて事情を告げた。

そして幾つかの頼みごとをすると、足早に走り去って行く。


朱峩が向かった先は、施麻しまを攫った賊が言伝ことづての中で指定した、耀湖畔の一角にある枩林しょうりんだった。

そして疎らにそびえるまつの巨木の一本にもたれて立つ男の姿を認めた朱峩は、不敵な笑みを口元に浮かべて立ち止まる。


男も朱峩の姿を認めると、のそりと前に出て来た。

その後には、項垂うなだれて枩の根元の草叢に坐している施麻の姿が見える。

彼女に特に害された様子はなかった。


待ち構えていた男は身の丈六尺余りの巨漢で、薄墨色の長袍の上に革衣を纏っていた。

そしてその手には、見るからに兇猛そうな二振りの鉄鐗が握られている。


男は分厚い笑みを口元に浮かべながら、ゆっくりとした足取りで朱峩に近づいて来ると、おもむろに口を開いた。


「貴様が<烈風>の朱峩か。

成程、隙のない構えだな。

一応名乗っておくが、わしは<七耀>の<土>、厳竪げんしゅという者だ」


それに対して朱牙も、渋い笑みを顔に浮かべて応じる。

「<七耀>の厳竪か。

婦女をに取る遣り口は陋劣ろうれつだが、手を出さなかったことだけは褒めてやろう」


彼のその口ぶりに、厳竪の頬にさっと朱が差した。

「大口を叩くな。

お前を呼び出すために質を取っただけのこと。

あの女には元々手を出す気などないわ」


しかし朱峩は、更に厳竪を挑発する。

「ほお、これから俺とやるのに、その女を盾にしなくてもよいのか?」


その言葉に厳竪は激高した。

「ぶち殺してくれる」


そう吐き捨てた厳竪は、両手の双鐗を振りかざして、朱峩に突進してきた。

こうして朱峩と<七耀>の<土>との間で、激闘が始まったのである。


その頃伽弥一行に、重大な危機が迫っていた。

銑翆せんすい一帯を領地とする辺境伯阿宜あぎの兵が、旅亭に残った伽弥たちを襲撃したのだ。


二十の兵を従えた阿宜の近衛兵長甘誇六かんこりくは、伽弥の房の戸を無遠慮に開くと、断りもなく中に押し入った。

そして伽弥を囲んで身構える一行を傲然と見下ろしながら、「曄姫の伽弥か?」と無礼にも呼び掛けたのだった。


「突然押し入って来るとは、無礼にも程があるぞ。

貴様らは何者だ」

護衛隊長の虞兆ぐちょうが激高して叫ぶが、甘誇六は鼻で哂う。


「我らはこの一帯を支配する阿宜様の近衛だ。

曄姫を連行するように、阿宜様から命じられている」

傲然とそう言い放つ甘誇六に向かって、伽弥が冷静に応じる。


「何かの間違いではありませんか?

私はこれからように嫁ぐ者です。


耀ようの王室が発行する通行証も所持しております。

どうぞご確認下さい」


しかしその言葉にも、甘誇六は傲然として応じない。

「虚偽を申しても無駄だ。

お前が曄姫であることは、分かっておるのだ。

さっさと立たんか」


その余りに礼を失した口振りに、虞兆ら護衛士たちは激高して一斉に立ち上がると、腰の剣に手を掛けた。

房内に一色触発の空気が漲る。


「お待ちなさい」

その時従者たちを抑えて、伽弥が前に進み出た。

その顔には静かな怒りが浮かんでいる。


「そこのお方、先ずは名乗られてはいかがですか?

どこの誰とも知れぬ方が、阿宜殿の近衛を名乗っても、信じられるとお思いか?」


裂帛の気合を込めた伽弥の詰問を受け、甘誇六は思わずたじろいで彼女に応じた。

「吾は阿宜様の近衛隊長甘誇六かんこりくだ」


「ではその甘誇六とやら。

仮に私が汝の言う曄姫であるとして、こうの辺境伯がいかなる権限で、私たちを拘束しようと言うのですか」


その言葉に甘誇六がたじたじとなった時、近衛の背後から長身痩躯の男が前に進み出て来た。

それは近衛兵に随行して来た<七耀>の<木>、魯完ろかんだった。


「曄姫様を耀都に連れ戻せという王命が下っております。

それを受けて胡羅氾様が、この様に兵を出されたのです」


「王命が!」

伽弥の従者たちが、その言葉を聞いて騒然となるのを抑え、伽弥が口を開いた。

「そなたは近衛兵とは身形みなりが異なりますが、どの様な身分のお方ですか?

名乗られませい」


「私は王府より遣わされた、魯完と申す者です」

そう言って伽弥に向かって深々と腰を折った後、魯完は冷厳とした口調で彼女に告げた。


「曄姫様が王命に従わないとなると、阿宜様も手荒な手段を講じなければなりません。

そうなれば曄姫様は別にしても、従者の方々はこの場でことごとく誅殺されることになります。

それでもよろしいのですか?」


「戯言を言ってもらっては困る。

例え王命であろうと、姫様をむざむざと貴様らの手に渡すと思うか」


虞兆が怒りを抑えつつ、伽弥を庇うようにして前に進み出ようとする。

しかしそれを手で抑えながら、伽弥は悲壮な決断をした。


「分かりました。

王命とあらば従いましょう」

その言葉を聞いた従者たちは、全員が驚きの余り言葉を失った。

しかし伽弥は真っ直ぐに魯完を見据えて、言葉を続ける。


「されど私にも要望があります。

これから一刻の間、旅の支度を整える猶予を下さい。

あまりに見苦しい姿で、王都に罷り越す訳には参りませんので」


その言葉を聞いた魯完は一瞬の逡巡の後、彼女に応えた。

「では半刻だけ差し上げましょう。

その間に支度を整えて下さい。

それ以上は待てません」


彼の言葉に頷いた伽弥は、従者たちに支度を始めるよう促した。

そして魯完に冷眼を向けて言った。


「最早逃げも隠れもしませんので、どうぞ旅亭の外でお待ち下さい。

あなた方がここにいては、他の旅客の皆さまのご迷惑になりますので」

その言葉に憤然として言い返そうとした甘誇六かんこりくを、魯完は眼で抑える。


そして、

「それでは、外でお待ちします。

くれぐれも妙な真似はなさいませんように」

と伽弥に釘を刺すと、近衛たちを促して出て行った。


彼らが去って行くのを見届けた伽弥は、緊張が解けて胡床に座り込んでしまった。

そして慌てて集まって来た従者たちに言葉を掛ける。


「よく怒りを抑えてくれましたね。

礼を言います」


「我らのために朱峩殿との約束を違えることになってしまい、申し訳ありません」

そう言って項垂れる虞兆に、伽弥は首を横に振って労りの言葉を掛けた。


「虞兆たちのせいではありません。

まさかこうの辺境伯まで一味とは、朱峩殿ですら思い及ばなかったでしょうから。


しかしこれで僅かながらでも、時を稼ぐことが出来ました。

後は朱峩殿が戻られるのを祈るのみです」


伽弥はそう言って従者たちを励ましながら、自身も心の中で切実に祈っていた。

――朱峩殿、どうか一刻も早くお戻り下さい。

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