【11】大義

ちょうへと向かう街道で破落戸ごろつきどもに襲われた数日後の夕刻、伽弥一行は耀湖畔にある銑翆せんすいという街へと辿り着いた。

銑翆はこうの首府璃珪りけいに次ぐ大邑の一つで、大賈(賈は商家)が軒を並べる商いの盛んな街だった。


旅亭に落ち着き豨車きしゃを預けた後、各々の房で旅装を解いた主従は、一堂に会して夕餉の卓に付いていた。

こうして主従と客の分け隔てなく旅の食卓を共にすることが重なると、伽弥の配下たちはいつの間にか朱峩と打ち解けていたのだった。


「朱峩殿は各地の風物に詳しいが、これまで多くの国々を巡って来られたのであろうな」

虞兆ぐちょうの言葉に、朱峩は微笑を浮かべる。


「それ程でもない。

六公国とその周辺の侯国を巡ったくらいだな。

だんりくぜんのような西辺諸国や、そくらくちんといった東辺諸国には、まだ足を踏み入れておらんよ」


「やはり国によって、気候はかなり異なるのでしょうか?」

朱峩の答えを聞いて、護衛隊の副官顧寮こりょうが興味深げな表情で訊く。


「冬のれんそくの気候は、六公国に暮らす者には想像もつかん程の寒さだろうな。

特に巍嶺ぎれい(中原諸国の北部に拡がる山岳地帯)の裾野一帯は雪に埋もれ、吹きおろしの寒風に曝されて、土も水も凍りつく寒さに見舞われる」


その言葉に、一同は驚きを隠せなかった。

彼らが生まれ育ったようの温暖な気候からは、想像もつかなかったからだ。


皆が黙り込む中、護衛士の一人憮備むびが興味津々の表情で話題を変えた。

「それにしても朱峩殿の腰の剣は見事な彫ですね。

さぞかし名のある剣なのでしょう?」


その問いに朱峩は、口元に苦笑を浮かべて答えるのだった。

「これはただの飾りのようなもんだよ」


朱峩が答えてくれたことに気をよくしたのか、憮備は更に問いを重ねる。

「朱峩殿は常々棒を持って戦われているようだが、あの長刀やその剣は使わないのですか?」


その問いに、護衛士たちが一斉に興味津々の目を向けるのを見て、朱峩は思わず失笑してしまった。

そしておもむろに口を開く。


「武器というものは、相手に合わせて使えばよいのだ。

未熟者相手に利剣を振るうのは、大人げないというものだろう。


相手の力量が<中>や<上>であれば刀剣を抜くこともあろうが、<下>の輩が相手であれば棒で十分なのさ」


「では、先日のあの鬼而きじという男も、朱峩殿にとっては<下>の輩に過ぎないということですか…」


そう言いながら憮備は、呆れる思いで朱峩を見ていた。

彼の朋輩三人を手もなく屠ってしまった、あの凶悪無比な双鎌そうれんですら、彼にとっては児戯に等しいということなのだろう。


確かにあの夜、朱峩は鬼而の投じた超速の鎌を苦も無く棒で払い落とし、僅か三撃であの<死神>を葬り去ってしまったのだ。

<武絶>と呼ばれる彼の絶大なその自信にも、頷けるというものだろう。


「因みに、俺はどの程度の力量になるのでしょうか?」

一人の護衛士が恐る恐る尋ねると、朱峩はまた失笑する。


「それは言わぬが花というものだろう」

その答えに尋ねた男は顔を赤らめ、朋輩たちは思わず爆笑したのだった。


その笑いの渦の中で、伽弥だけが物思いに耽っている。

その様子を見咎めた朱峩が、「姫は随分お疲れの様子だな」と声を掛けた。


その言葉に従者たちも、一様に心配そうな色を浮かべて彼女を見る。

一同の視線を受けた伽弥は、「大丈夫です。心配には及びません」と言いながら、彼らに笑顔を向けたのだった。


その後何となく気まずい雰囲気の中で、夕餉を終えた一同が席を立った時、

「この後少しお話をさせて頂けませんか?」

と言って、伽弥が朱峩を引き留める。


その思い詰めた様子を見た朱峩は、「裏庭に出るか」と言って彼女を促した。

その言葉に頷くと、伽弥はついて来ようとする侍女の施麻しまを制して房に帰らせ、彼の後ろに従った。


旅亭の裏庭は各房の灯りで照らされて、思いの外明るかった。

辺りに人影はなく、時折響く蟲の声が秋の気配を漂わせている。


「先日渠陽きょようでお聞きした話です」

そう言って言葉を切った伽弥を、朱峩は無言で促した。


「朱峩殿はお婆様から、何をお聞きになったのでしょうか?

お婆様は私に、何をせよと仰っていたのでしょう?」


「直接何かを聞いた訳ではないから、朱莉殿があなたに何を求めておられるのか、俺には分からない。

ただあなたが未来の曄のために、なくてはならないと朱莉殿は思われたのだろう。


今の事態を予測された朱莉殿は、あなたが耀湖を渡るより前に俺を便船に乗せて、耀湖を渡らせたのだ。

その時、『必ず伽弥を生きて連れ戻して欲しい』と言われた」


朱峩の口を通して聞く祖母の言葉の重みを、伽弥は噛みしめるようにして言葉を繋ぐ。

「そのことが、私が父や弟を助けて胡羅氾こらはんを排除し、曄を建て直すことを意味していると仰るのですね?」


「恐らくな」

朱峩の短い肯定に小さく溜息をついた伽弥は、思い詰めた表情で彼を見つめた。


「以前あなたは、私には<仁が有り余る>と言われました。

<仁>とは何なのでしょうか?」


「<仁>とは、近しい者に対する情愛を指すのだと思う。

死んだ三人の配下を思うあなたの気持ちは、正にそれだろう」


その答えを聞いた伽弥は、朱峩に挑むような目を向ける。

「それでは、私に足りないものは何なのでしょうか?」


伽弥の強い視線を受けた朱峩は刹那の間沈黙した後、強い意志を込めた眼で彼女を見返し、語りかけたのだった。

「あなたに足りないものがあるとすれば、それは<義>というものだろう」


「<義>ですか」

伽弥は小首を傾げて、彼の言葉を反芻する。


「そうだ。<義>とは広く他者への情愛を意味するものだという」

「私には、他者への情愛が足りていないということでしょうか?」


その答えは、彼女にとって不本意だったのだろう。

切ない思いが伽弥の胸に込み上げてくる。

しかし朱峩は、静かな口調で彼女の問いを否定した。


「足りていない訳ではない。

寧ろあなたは、情愛に満ちているのだと思う。


路傍に倒れた者があれば、例えそれが見ず知らずの者だったとしても、あなたは手を差し伸べるだろう。


だがそれは、巷間の善人たちの誰もが持つ、小さな<義>に過ぎないのだ。

為政者であろうとすれば、<大義>を持たねばならないと思う」


「<大義>とは何なのでしょう?

私には分からない」

そう言って伽弥は俯いた。

そんな彼女を憐れむように見ながら、朱峩は語り続ける。


「俺にも明確なことは分からない。

しかし一つ言えるとすれば、為政者の<大義>とは、広く万民を憐れむ心ではないだろうか。


そして憐れむだけではなく、万民のために何かを為そうとする、強い心なのではないだろうか。


例えばあなたはこれから先の旅で、もし従者たちに命の危険が迫れば、敢えて胡羅氾の手に落ちることを肯んじるかも知れない。

それは仁愛の心として間違ってはいないだろう。


しかしその一方で、あなたが曄の国を建て直せなくなることで、億兆の民が胡羅氾によって、塗炭の苦しみを味合わされることになるとしよう。

それでもあなたは従者たちを慮って、仁愛の道を選ぶのだろうか」


朱峩の問い掛けは、伽弥の心に重く響き渡る。

例えそれが朱峩の言う<大義>に沿った正しい道だったとしても、従者たちを見捨てることなど、自分には到底出来ないと思ったからだ。


「私にはいずれも選べません」

やがて伽弥は、消え入りそうな声で呟いた。

眼には大粒の涙が浮かんでいる。


「私が為政者となって国を建て直すことなど、土台無理なことなのです。

私には民を束ねる徳もなければ、朱峩殿のような強い力もない。


世の中のことも、全くと言ってよい程分かっていません。

その様な私が国を背負うなどという大それたことが、出来る筈がありません」


「あなたが朱莉殿の期待を重荷と思うのは、当然のことだろうな」

朱峩はそう言って、憐みの眼を伽弥に向ける。

そして彼女を励ますように、語気を強めて言うのだった。


「しかし一つ言えることがあるとすれば、<大義>をわきまえ<信>を貫けば、<徳>は自然と身に付くのではないかと思う。


況して<知>や<武>など、それを持つ者から借りれば済むだけのこと。

あなたは俺のような力がないと嘆くが、俺の力など所詮は匹夫の勇に過ぎないのだ」


その言葉に伽弥は、朱峩を見つめ直す。

「<大義>を弁え、<信>を貫く」

彼女がそう繰り返すのを聞いて、朱峩は表情を緩めた。


「これからの旅の中で、そのことを繰り返し考えればいいのではないかな。

そして曄に帰った時に、やはり自分に国を支えることは無理だと思ったなら、朱莉殿にそう告げればよいのさ。


さて、そろそろ中に戻ろうか。

あなたの従者たちも心配しているだろう」


そう言って朱峩は、彼の言葉に唇を噛みしめている伽弥を促した。

そして伽弥は迷いを捨てきれない様子で、彼に従うのだった。

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