【07-3】湖陽からの脱出(3)

その日の中午ちゅうご(午後零時前後)、朱峩は伽弥一行が匿われている旅亭に、飄々と姿を現した。

その姿を認めた蒙赫もうかくが、彼に近づいて笑いかける。


「朱峩さん、于蝉うぜんの野郎の所に行ってらしたんですか?」

朱峩が「何故分かった?」と訊くと、蒙赫はさも愉快そうな表情で答える。


「ついさっき于蝉の手下が、鬼而きじの野郎に殺されなすった姫様の護衛士のもとどりと元結を届けて来たんですがね。


酷く怯えてやがって。

朱峩さんにくれぐれも宜しくと、于蝉からの言伝ことづてまで持って来やがったんですよ」


それを聞いた朱峩は思わず苦笑を浮かべる。

「随分薬が効いたようだな。

これで于蝉の介入は、あまり警戒せんでもいいだろう」


そして食堂で警護に当たっていた、憮備むびという伽弥の護衛隊士に声を掛けた。

「これから脱出の手筈を説明するから、皆を集めてくれ」


憮備はその言葉に頷くと、階上に駆け上って行く。

すると間もなく伽弥と従者たちが、ぞろぞろと階下に降りて来た。


そして一同が卓を囲んで座ったのを確認して、蒙赫がおもむろに口を開いた。

「それでは今日の手筈を説明させてもらいますが、その前に姫様」


そう言って蒙赫は、配下に目配せして盆に乗せた物を伽弥の前に置かせた。

「それは一昨夜亡くなった、護衛士さんたちの遺髪です。

朱峩さんが于蝉の野郎から手に入れてくれました」


それを聞いた伽弥と従者たちが、驚きの眼を朱峩と蒙赫に向けた。

「三人の遺体は捨てられずに、葬らせた。

弔ってはやれんが、それを曄に持ち帰るといい」


朱峩の言葉を聞いた一同は、遺髪に向かって一斉にこうべを垂れる。

中には異国の地で倒れた朋輩を思い、涙ぐむ者もいた。


そして伽弥は一同を代表して、朱峩たちに深々と頭を下げたのだった。

「朱峩殿、蒙赫殿。お礼の言葉もございません。

これは今日の出立に先立っての、何よりのはなむけです」


それを聞いた朱峩は微苦笑を浮かべると、「始めてくれ」と隣に立った蒙赫を促す。

すると蒙赫は卓上に湖陽の詳細な地図を広げて、脱出の手筈について説明し始めた。


「ここが、今皆さんがいる微右びうの街です。

東門までは丑寅ちゅういんの方向に向かって、大体五里(一里は四百米)あると思って下さい。


そこまで皆さんには、こうから来ている日雇いの傭夫ようふ連中に混じって、歩いて行って頂きます。

暉から来る傭夫の差配は、わしの所でやってますんで、皆さんが混じって頂いても問題ありません」


「見ず知らずの者が混じって、暉の方々は不審に思わないのでしょうか?」

伽弥のそう問うと、蒙赫は笑顔で答える。


「今日一緒に行く連中は、昔から随分世話をしてやってるんで、わしの言うことならよく聞くと思います。

出立前によく言い聞かせておきますんで、ご心配なく。


ただ、皆さまにはこちらで用意した布衣を着て頂かなきゃなりません。

護衛士の皆さんには、それぞれ荷を担いで頂きます。

それから姫様と侍女のお二人は、化粧を落として、顔に灰を塗らせて頂きます」


その言葉に侍女の施麻しまが何か言おうとしたが、伽弥がそれを手で遮った。

その様子を見ていた蒙赫は、申し訳なさそうな顔をする。

「姫様のそのお顔では、どうしても目立っちまいますんで…」


「よいのです。

無事にこの国を出るためですもの。

それしきのことは何の問題でもありません」

毅然とそう言って笑顔を向ける伽弥に、蒙赫はぺこりと頭を下げた。


その時護衛隊長の虞兆ぐちょうが口を開いた。

「我らの武器や軍袍はどうなるのだろうか?

担いでいく訳にもいくまいと思うのだが」


「それは農具を運ぶ豨車きしゃ(豨は車の牽引に用いられる中型四足歩行獣)の一番下に隠して持って行きましょう。


豨車はうちのもんに牽かせますんで。

国境の警備兵とは顔見知りですから、荷を調べられることもないと思います。」


「しかし荷の底に積むと、危急の際には間に合わんな」

虞兆はそう言って考え込んだが、そこに朱峩が割って入った。


「護衛は俺に任せろ。

東門で下手に大勢が暴れると、返ってこうの守備兵が警戒するかも知れん。


お前たちが東門を抜ける頃合いを見計らってひと騒ぎおこすから、その騒ぎに紛れて暉に駆け込むんだ」


その言葉に伽弥と従者たちが一斉に頷く。

たった二日間ではあるが、朱峩が示した超絶の武威と、蒙赫から聞いたその侠気に、彼らは並々ならぬ信を置くようになっていたのだ。


「では早速支度に掛かって下さい」

蒙赫食堂の隅に置かれた、布衣を詰めた木箱を指して言った。


その指図に従って、護衛士たちが思い思いに布衣を手に取る。

「傭役帰りを装いますんで、布衣は汚くて少し臭いますが、我慢して下さい」


蒙赫が申し訳なさそうに言うと、彼らは皆笑顔を浮かべた。

そして伽弥と侍女たちも布衣を手に取り、支度のために階上へと上っていった。


それを眼で追った朱峩は、蒙赫に近づくと、彼の耳元で囁いた。

「もう少し街の様子を見回って来る。

打合せ通り、晡時ほじの初刻(午後三時前後)までには東門に行くから、姫たちを頼んだぞ」


朱峩が小声で蒙赫だけにそう告げたのは、二人の間の、共通の懸念が頭にあったからだ。

彼の言葉に蒙赫が頷くと、朱峩は静かに旅亭から姿を消したのだった。


そしてその日の晡時、伽弥一行は布衣を纏ってこうから来た傭夫たちに紛れ、湖陽の東門へと至っていた。

この時刻には国境の閉門を前にして、耀と暉を行き交う人々で、門前は市のように賑わっている。


彼らは付き添ってくれた蒙赫の指図に従って、出国者の列に並んだ。

その列の先に見える東門を超えれば、一先ず剋冽こくれつ太子の追手から逃れることが出来る。


そう思う伽弥一行の胸には、先への希望と不安が綯交ないまぜになっていた。

その時蒙赫が列の先頭から彼らに近づいて来て、小声で囁いた。


「門の所に<紅賊>がいます。

朱峩さんが狂猩きょうしょうの野郎と<紅賊>どもを邸に押し込めたんだが、念のために兵を割いたようですね」


その言葉を聞いて、東門を盗み見た一行の眼には、紅の軍袍を纏った二人の兵士の姿が映った。

彼らは一瞬で緊張に包まれる。


「朱峩さんが何とかしてくれると思いますが、門を通る時は、念のために顔を伏せて下さい」

早口でそう囁くと、蒙赫は列の先頭に戻って行った。


東門の耀側の検問所では、通行証を確認する王軍兵士の背後で、<紅賊>の二人が国境を通過する人々に目を光らせている。

伽弥の一行は傭夫たちに紛れて、皆が心持ち顔を伏せながら蒙赫の後に続いた。

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