【07-2】湖陽からの脱出(2)
湖陽脱出の日の朝。
浅い眠りから覚めた伽弥は手早く身支度を整えると、階下の食堂へと降りていった。
この旅亭に匿われてから、僅か二夜を過ごしただけなのに、何故か去り難く感じている自分の心を、彼女は不思議な気持ちで見ていた。
そう思う理由の一つは、自分たちの世話をしてくれている
この国の太子に追われて迷い込んだ余計者に過ぎない自分たちに、彼らは一度も邪険な態度で接したことがなかった。
勿論首領である蒙赫からの指示もあるのだろうが、それ以上に彼らが自分たちに向ける同情心を強く感じずにはいられなかったのだ。
しかし彼女は、今日の夕刻ここを立って耀から出なければならない。
そしてその先の故国までの道程に待ち受けている苦難を思い、伽弥は気持ちを引き締めるのだった。
食堂には既に護衛士たちが勢ぞろいして、彼女を待ち受けていた。
そして食卓には、香しい匂いの朝餉が用意されている。
伽弥は食卓に着く前に、給仕のために控えている蒙赫の配下に向かって、深々と首を垂れた。
それを見た護衛士たちも、慌てて席を立ち彼女に習う。
人から頭を下げられたことなど、生涯のうち一度もなかった配下たちは、貴人たちの辞儀に驚いて顔を見合わせる。
それを見ていた蒙赫が、分厚い笑顔を作って一堂に話しかけた。
「さあさあ、冷めないうちに早く召し上がって下さい。
相変わらずの
香ばしくて旨いですよ」
その言葉に笑顔で答えた伽弥は卓につくと、皆が座るのを待って箸を手にした。
去病湯は相変わらずの旨さだったが、鳮の炒め物も香ばしさに
伽弥と従者たちは一時無言になって、その持て成しを満喫する。
そしてその様子を、蒙赫と配下たちは笑顔で眺めていたのだった。
朝餉が終わり、従者たちが後片付けのために席を立つと、伽弥と虞兆は厨房の入口に立つ蒙赫に近づいた。
「朱峩殿のお姿が見えませんが、どちらに行かれたのでしょうか?」
「ああ、朱峩さんなら夜のうちに、街の様子を見ると言って出掛けました。
今日の
「朱峩殿はいつ眠られているのでしょうか?
いつも動き回っておられる気がしてならないのですが」
伽弥のその問いに、蒙赫は困った表情を浮かべる。
「うーん、わしもその辺りはよく分からんのですわ。
ここに顔を出されても、用が済むとすぐに出かけちまいますしね。
ただ以前朱峩さん本人から聞いた話では、三日三晩一睡もせず、何も食わずに動き回れるくらいの修行は積んでいると仰ってましたね」
その言葉に伽弥と虞兆は目を瞠る。
朱峩の強さを作り上げた、過酷な修練に思い至ったからだ。
丁度その頃、湖陽
彼が手にした棒の先で頭部を小突くと、于蝉は不機嫌そうな唸り声をあげて目を覚ます。
そして寝台の傍らに佇む朱峩の姿を認めると、驚いて跳ね起きた。
その喉元に棒を突き付けた朱峩は、
「今から訊くことに正直に答えろ。いいな?」
と、静かな声色で告げた。
その声と共に彼から発せられた底知れぬ闘気に呑み込まれ、于蝉は身動きすることすら出来なくなってしまった。
「俺は朱峩という。
俺のことは蒙赫から聞いているな?」
于蝉はその問いかけに、只々無言で肯くことしか出来なかった。
「一昨夜、曄の一行を襲うように、お前に依頼したのは誰だ?」
そう質す朱峩の声には、于蝉を痺れさせる裂帛の気が込められている。
「そ、それは、曄の
確か
曄姫の宿所を<紅賊>(太子剋冽の直属兵の蔑称)どもが襲うんで、逃げ出した一行を、微街で網を張って捕らえろって話でした」
「曄姫が<紅賊>に攫われたら、どうするつもりだったんだ」
「その場合は仇碑って人が、攫われる前に護衛の助っ人に入る算段だったようですが、<紅賊>程度の奴らに攫われることはねえだろうとも言っておりやした」
「それで?あの鎌使いを俺がぶち殺した時、仇碑はどこにいたんだ?」
「<紅賊>が姫の後を追うのを、牽制してたそうです。
こっちが広げた網に引っ掛かる前に、追いつかれると厄介だったんで」
その返事を聞いて、朱峩は鼻哂する。
「是が非でも、お前らに捕まえさせようとしたのか。
それで?曄姫が蒙赫に匿われていることを、お前に告げたのも仇碑か?」
それに肯いた于蝉は、恐る恐る朱峩に尋ねた。
「あの仇碑って人は、どうなったんでしょうか?」
「あいつなら蒙赫の手下が、
その答えが、目の前の男が仇碑を倒したことを意味することに思い至り、于蝉は戦慄するのだった。
「今ので思い出したが、曄姫の護衛士が三人、あの鬼而とかいう奴に殺されたな。
遺骸はどうした?」
「放っておく訳にもいかないんで、別の場所に運んでおりやす。
そろそろ臭ってきたんで、埋めようかと」
「捨てなかったとは殊勝だな。
それだけは誉めてやろう。
では埋める前に三人の
期限は今日の中午だ。
そして最後に」
そこで言葉を切った朱峩は、顔を于蝉の耳の間近に近づけて、低く通る声で囁いた。
「これから先は、金輪際曄姫に関わるな。
行方を追うことも、近づくことも、名前を口にすることも禁じる。
お前だけではなく、お前の手下どももだ。
もしこの禁を破ったら、お前の
分かったな」
最後は一語ずつ区切るように宣告した後、朱峩は立ち上がり、風のように去って行った。
その後姿を呆然と見送った于蝉は、暫くしてはたと我に返る。
そして微街の半分を仕切る
「護衛どもは何をしてやがる!」
寝台から立ち上がった于蝉は、室外に向かって怒声を上げた。
しかし朱峩が去った後の、開け放たれた扉から廊下に出た彼は、目の前の光景に再び慄然とすることになったのだ。
長い廊下には、屋敷を警護する手下たちの躯が点々と転がっている。
異常に用心深い于蝉は、周辺警護に屈強の手下を配しているのだ。
それが一人残らず廊下に転がって、ぴくりとも動かない。
特に扉の間近に倒れている二人は、鬼而にも匹敵する猛者たちだった。
その二人が声もなく地に伏しているのだ。
その様子から、彼らが既に絶命していることは明らかだった。
その惨状を見た于蝉は、恐怖の叫び声を上げ、その場に座り込んでしまった。
彼はこの時になって初めて、朱峩という男が<烈風>と呼ばれる
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