【07-1】湖陽からの脱出(1)

目の前に横たわる仇碑きゅうひの死体に、朱峩は憐憫の目を向ける。

「動きを封じられたことを悟って、歯に仕込んだ毒を飲んだか。

それになりに見事だったと誉めてやろう」


その時路地の向こうから、喧噪が伝わってきた。

于蝉うぜんに誘い出されていた蒙赫もうかくとその配下が、漸くにして駆け戻って来たのだ。

そして旅亭の中からも、寝ずの番に付いていた伽弥かやの護衛士たちが、外の騒ぎを聞きつけて飛び出して来る。


彼らは旅亭の前に佇む朱峩と、その足元に横たわる死体を唖然として見比べた。

「朱峩さん、そこに転がってるのは」


蒙赫が皆を代表して訊くと、朱峩は「この男は<七耀>の仇碑というそうだ」と答える。

そして旅亭に忍び込もうとしていた仇碑との争闘の経緯を、短く話して聞かせた。


その時護衛隊長の虞兆ぐちょうが、「朱峩殿、続きは中に入ってからにしてはいかがか」と、旅亭から顔を覗かせて言った。

朱峩はそれに頷くと、一同を促して中に入る。

そして蒙赫は配下に命じて、仇碑の死体を旅亭の裏に運ばせたのだった。


食堂には既に燭燈が灯され、曄姫伽弥かやと二人の侍女も卓に腰掛けていた。

自身に向けられた伽弥の眼を見て、朱峩は思わず苦笑を浮かべる。

彼への強い依信いしんの光を見たからだった。


卓に就いた一度を前に、蒙赫が先ず頭を下げた。

「わしの不手際で、姫様を危うくするところでした。

申し訳ない」


「それはいい。

それよりお前は、どこに行ってたんだ?」


朱峩に訊かれた蒙赫は、于蝉うぜんに誘い出されたことや、彼から聞かされた、伽弥と二人の侍女だけを船に乗せて、ようまで運ぶ話などを掻い摘んで語って聞かせる。


それを聞いて真っ先に反応したのは虞兆だった。

「姫と侍女だけを乗せてだと?

絶対に許容出来ん話だ」


しかしそれに異を唱えたのは、以外にも侍女の鹿瑛ろくえいだった。

「しかし王室と曄公様との間で、本当に約束が出来ているのであれば、船にお乗せした方が姫様にとっては、返って安全なのではないでしょうか?」


その時二人に割って入ったのは朱峩だった。

「話が通っているというのは、曄の公室ではあるまい」


「それはどういう意味なのでしょうか?」

彼の言葉に、伽弥が怪訝そうな顔を向ける。


「本当に曄の公室が絡んでいるのなら、于蝉などという破落戸ごろつきを使うことなどないだろう。

王室を通して、おおやけに話を持ってくれば済むことだ。

曄の側で誰かが絡んでいるとすれば、辺境伯の胡羅氾こらはんだろうな」


そう断言する朱峩に、全員が息を呑んだ。

「朱峩殿は何故そのように思われるのか」

虞兆にそう問われた朱峩は、一つ咳払いをした後、おもむろに語り始めた。


「一番の根拠は、ここを襲ってきた男が<七耀>と名乗ったことだ。

<七耀>は胡羅氾の配下だと聞いたことがある。


そして胡羅氾が絡んでいるとすれば、色々と腑に落ちることがある。

先ず于蝉という奴の手下が、何故姫たちを待ち伏せていたかだ。


蒙赫の話では、于蝉は剋冽こくれつに妹を殺されて、奴を怨んでいるという。

それが事実であれば、剋冽の先棒を担ぐことはない筈だ。


つまり于蝉は別口、胡羅氾の依頼であなた方を襲ったのだ。

恐らく姫を攫って、船に乗せる目論見だったのだろう」


そこで朱峩は言葉を切った。

そしてその場の一同は、次に彼の口から紡ぎ出される言葉を、無言で待っていた。


「胡羅氾との間で何か約定があるのだとすれば、王室の妙な動きにも合点がいく」

「王室の動きですか」

伽弥が朱峩のその言葉を反芻した。


「今日一日湖陽の街をあちこち見て回ったが、王兵どもは全くと言ってよい程、姫の行方に無関心だった。

ただ剋冽の配下だけが、騒がしく動き回っているだけでな。


第二王子の妃になる姫が失踪したというのに、それはいかにも妙な話ではないか。

いくら剋冽を野放しにしているとは言え、奇妙過ぎると思っていたんだ。


しかし姫を胡羅氾に裏で引き渡すつもりなのであれば、説明がつく。

胡羅氾の配下が動きやすいように、王兵に静観を命じているのだろう」


「それなら王兵が直接姫を捉えて、その胡羅氾とやらに引き渡す方が早いんじゃないですか?」

蒙赫のその問いに、朱峩は首を振る。


「それでは幾ら何でも、王室の対面が保てんだろう。

仮にも第二王子の妃に迎えようとしていることは、庶民に至るまで知っているのだ。

おおやけに胡羅氾に引き渡す訳にはいくまいよ」


冷厳と言い切る朱峩に、今度は伽弥が問いかける。

「王室は何故、この期に及んで私を胡羅氾に渡そうとするのでしょう。

そして胡羅氾は、何故そうまでして私を連れ去ろうとするのでしょう」


朱峩はその問いに、一つ溜息をつく。

そして憐れみを込めた眼を、伽弥に向けた。


「王室側の理由は、恐らく財貨だろうな。

王庫はかなり逼迫しているようだから、胡羅氾からの贈物ぞうもつに眼が眩んだんだろう。


王室側が今回の婚姻に左程乗り気でなかったとすれば、全てを剋冽のせいにして破談にすることも出来る。


そして胡羅氾が姫を欲する理由だが。

推測は出来るが、聞けば耳が腐るぞ」


その一言でおおよその理由を、皆が想像出来た。

「なんと理不尽な」


伽弥はそう言って唇を嚙みしめ、侍女たちは啜り泣きを漏らす。

そして護衛士たちも、まなじりを決して悲憤するのだった。


蒙赫とその配下たちも、伽弥に同情の目を向けていた。

そして一同のその様子を見て、朱峩が厳しい表情で口を開いた。


「確かに理不尽だが、今の世の中にはありふれた話だ。

だがそれを嘆いているだけでは、何の救いにもならん。


理不尽をまかり通らせぬために、是が非でも姫を守って曄に帰還する。

その強い決意が、今のお前たちには必要なのではないのか?」


その言葉を受け、護衛士たちが一斉に頷く。

皆の決意が、闘気となって食堂内に満ちていった。


「さて明日の夕刻、予定通り東門を通って隣国のこうに抜けることにする。

その手筈は、明日伝えよう。


ただ、暉から先も胡羅氾の襲撃に備えねばならん。

<七耀>の一人は始末したが、残りの六耀が必ず襲ってくるだろうからな」


「その者たちは、腕が立つのだろうか?」

虞兆が護衛士を代表して口を開いた。


「今日襲ってきた<金>の仇碑きゅうひと名乗る奴程度の腕だとすれば、ここにいる護衛士が束になって掛かっても倒せんだろう」

その言葉に護衛士たちが顔を見合わせる。


「だから<七耀>が現れたら俺が相手になるから、お前たちは構うな」

「一人ではなく、もし複数で襲ってきたらどうされるのか?」


「あの程度の奴なら、六人纏めてかかって来ても問題ない。

その場合は、姫の周りを囲んで守りに徹しろ」


護衛士たちはその太々しいまでの自信に、呆れる思いだった。

しかしその反面、それが決して大言壮語でないことを感じて、朱峩への依信が増すのだった。


「さて、姫たちは明日に備えて休んでくれ。

蒙赫、ちょっといいか?」

そう言って席を立った朱峩に、伽弥はもの言いたげな目を向けたが、直ぐに諦めて食堂を後にする。


そして朱峩は蒙赫を食堂の端まで誘うと、声を潜めた。

「問題は、于蝉うぜんとやらが、お前がここで姫を匿っていることを、何故知っていたかだ」


その言葉に蒙赫も大きく頷く。

「わしもそのことが気になっていたんです」


「お前の配下は大丈夫か?」

「于蝉に通じてる奴が絶対いないとは言い切れませんが、少なくともここにいる連中は、信用出来る筈です」


「だとすれば、答えは一つだな」

そう言って朱峩は、厳しい表情を浮かべるのだった。

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