【04-1】湖陽擾乱(1)

耀ようの王太子剋冽こくれつを乗せた豨車きしゃは、耀湖と恕海じょかい(耀国南部に拡がる海)を結ぶ耀江ようこう(耀国を東西に分かつ川)沿いの道を、ゆるゆると進んでいた。


彼の乗る車はその躯体や車輪、そして天蓋までも紅色に染められ、唯一天頂部の金鸞きんらんの装飾のみが違っていた。

そのため剋冽太子の豨車は<紅車>と呼ばれ、その巡行は<紅死行>として胡陽住民の恐怖の的となっていたのだ。


剋冽が巡行する沿道には、周辺住民たちが平伏して<紅車>の通過を待っている。

<紅死行>は事前の通達なく行われ、巡行に先立って太子直属軍の兵士によって住民たちが強制的に沿道に駆り出されるため、避けようのない災厄と化していた。


民の間で密かに兇猩きょうしょうと揶揄される剋冽は、<紅車>の中から眼に停めたものは、物であれ人であれ、すべて配下に命じて強奪させ、太子宮に運ばせる。

それが人の場合には、男女幼長を問わず嬲りものにした挙句に、惨殺して打ち捨てるのである。


非道の極みと言える剋冽一党の<紅死行>は、湖陽住民たちの怨嗟の的となっていた。

そしてその恨みが、太子の暴戻を為すがままに放置している、王室へも向けられているのは当然のことと言えるだろう。


剋冽を乗せた<紅車>の前後には、軍用の那駝なだ(騎乗用の中型二足歩行獣)に跨った騎兵四騎が警護に当たり、前後左右にも十名ずつの歩卒が配されている。

更に沿道住民たちは耀江を背に一列に座らされ、その背後には彼らの逃亡を防ぐための兵が等間隔で並んでいた。


このように重厚な護衛を配しているのは、ひとえに太子の臆病さに由来するものだった。


幼い頃から猜疑心が強く、周囲の自分を見る目に異様に敏感だった剋冽は、自身が現在行っている<紅死行>が、どれ程民草の恨みを買っているのかを、十分に承知していた。

それ故彼らの暴発を恐れて、自身の警護をこれ程厚くしているのだ。


ならばその非道な行為を辞めればよいと思うのだが、彼にはその気は毛頭なかった。

自身の容姿や能力に対して強い劣等感を持つ剋冽は、その発露として弱者を甚振いたぶることに、この上ない快感を覚えるのだ。


それ故、太子という至上に近い地位を存分に活用して、日々の娯楽のための生贄を物色するためにこうして巡行しているのである。

民にとっては迷惑この上ない暴君であった。


そしてその日の<紅死行>で剋冽が<紅車>を停めさせ、周辺の物色を始めたその時だった。


行列の遥か先の沿道に、その行く手を阻むようにして、黄金色の長袍を纏った朱峩が立ちはだかったのだ。

彼は朱毛と朱髯を覆うように、長袍と同じ色の頭巾を被っていた。


彼の弓手ゆんでには五人張りの勁弓が握られ、脇には矢壺が置かれている。

そして朱峩はおもむろに矢壺から一本の長大な矢を抜き取ると、弓につがえた。


その姿に最初に気づいたのは、<紅車>の前を行く騎兵の一人だった。

そしてその兵が朱峩に向かって怒声を上げようとしたその瞬間、「ぎゅおっ」という異様な音が空気をつんざいて、沿道に顔を伏せた住民たちの頭上を通過して行ったのだ。


朱峩が放った勁矢は狙い違わず、怒声を上げようとしていた<紅車>右前方の騎兵の胴を両断した。

そしてそのままの勢いで、右後方の騎兵を後方に弾き飛ばす。

仰向けに倒れたその兵は、腹部に矢を突き立てたまま、衝撃で即死していた。


周辺の兵士たちがその様子を唖然として見守る中、朱峩が第二矢を放った。

第一矢と同じく高速で空気を切り裂いて飛んだその矢は、今度は左前方の騎兵の首を一瞬で飛ばすと、続けざまに左後方の騎兵の頭部を粉々に粉砕した。


そのあまりに凄まじい弓勢ゆんぜいに、見る者は皆、言葉を失ったのだった。


朱峩の放つ矢が、これ程の威力を示すのは、彼が引くのが勁弓という理由だけではなかった。

彼が飛ばす矢は、そのやじりが研ぎ澄まされた刃広斧はびろよきの形をしており、対象に突き刺さるのではなく、破砕することを目的として作られていたのだ。


無論このような特殊な弓矢を使いこなせるのは、<武絶>たる朱峩の技量と強力ごうりきのなせる業だと言える。


沿道に並んだ住民たちは、目の前で巻き起こっている活劇のような光景に瞠目していた。

そしてその瞳には、声には出せない<快哉>を叫ぶ色が宿っていたのだった。


一方で瞬く間に四騎を失った剋冽の護衛兵たちは、見苦しい程の混乱に陥っていた。

そして外の騒ぎに憮然として、剋冽太子が<紅車>から顔を覗かせた瞬間を狙って、朱峩の弓から第三矢が放たれた。


業魔必滅の勁矢は空を切り裂き、狙い違わず剋冽の乗る<紅車>に炸裂した。

そしてその躯体を粉々に粉砕し、天蓋を弾き飛ばしたのだった。


その衝撃で剋冽は地にまびろ落ちて、立ち上がることすら出来ない。

護衛の歩兵たちは慌てて主を助け起こそうとするが、<紅車>が破砕した衝撃に興奮したが暴れ出し、思うように近づくことが出来ない。


阿鼻叫喚を繰り広げる太子一行の醜態を呆然と眺める沿道住民たちの背後を、金色の颶風ぐふうと化した朱峩が駆け抜けていく。

彼の行く手を遮ろうとした雑兵どもは、その体に触れることも出来ず、鍛鉄の黒棒によってことごとく耀江に叩き落とされてしまったのだった。


やがて砕け散った<紅車>の前に至った朱峩を、十数名の護衛兵が取り囲んだ。

その中から隊長らしき男が進み出てくると、巨躯を揺らして彼に怒声を向ける。


「貴様、何者だ!

太子殿下のご巡幸を汚すとは何事か!

覚悟はでき、ぐほっ」


巨漢の声はそこで途切れた。

朱峩が繰り出した棒の一撃が、廉泉れんせんの急所に突きこまれたからだ。

彼は数瞬もがき苦しんだが、やがて地に伏して声を失った。


隊長を失った兵士の半数以上は、朱峩の武威に恐れをなして腰を引く。

しかし残りの兵士は果敢に彼を取り囲み、一斉に矛戟向けた。


その必死の表情を見回して、朱峩は苦笑を浮かべて一言呟いた。


その意味不明の言葉に釣られるように、兵士たちは一斉に彼に突きかかっていった。

しかしその嵐のような攻撃を朱峩はそよ風のように躱し、或いは棒で打ち払いながら、軽やかに武の舞を踊る。


彼の手から繰り出される必殺の棒に一切の慈悲はなく、兵士たちは次々と骨を砕かれ、急所を突かれて地に倒れ伏していった。

束の間の争闘の後には、朱峩の超絶の武威を目の当たりにして、凍りついたように身動きが取れなくなった懦夫どもが立ち尽くすだけだった。


その中を朱峩は、ゆっくりとした足取りで壊れた<紅車>に近づいて行く。

そしてまだ起き上がることすら出来ずにいる剋冽こくれつ太子の顔を間近に覗き込んだ。


「これは王太子ともあろうお方が、無様なお姿ですな。

折角こうしてお目見え頂いたのだから、せめて一手お手合わせ頂きたいのですが、いかがかな?」


揶揄うように囁く彼に剋冽はただ、「ひい、ひい」と言葉にならない声を発するだけだった。

その醜態を蔑むように見た朱峩は、立ち上がって手にした棒を突き下ろす。


渾身の棒は剋冽の耳朶を掠めて深々と地に突きたち、彼は恐怖のあまり失神してしまったのだった。

それを見定めた朱峩は、傍らに転がる金鸞きんらんの装飾を棒の先に掛けて拾い上げる。


「これはお目見えの記念に、拝借するとしよう」

そう言い捨てると、朱峩は民家の前に置かれた木箱を足場に軽々と屋根に跳び乗った。


そして眼窩の有象無象どもを睥睨して侮蔑の笑みを浮かべると、その場から立ち去っていったのだった。

それを見て安堵の色を浮かべた雑兵たちは、慌てて主の介抱に向かう。


この時を境に、湖陽の街を揺るがす騒擾が巻き起こるのだった。

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