第8話「砂漠のような闇の中」(その1)
1994年(平6)の10月、副所長室で室長となった柿岡は、朝から書類に埋もれていた。新たな改革の旗手として期待されていたが、その現実は混乱の連続だった。
本館8階の部屋は、窓を背にしたデスクに柿岡、その前に対面で若手の2人と中堅の滝本、そして伊藤加奈子が並び、手狭な空間で日々業務に取り組んでいた。
「室長、発注関連の書類です」
伊藤が分厚い書類をデスクに置く音が響いた。
見るとそれはそれぞれ数十ページを超える量だ。
「こんなにか?」
と、思わず呟く柿岡の机は書類で埋もれている。
当初、渡部が掲げる「業務改革」に5名も必要なのかと思っていたが、それは甘い考えだと気づかされた。なにしろ購買の5原則について、現状を把握するだけでも時間が掛かった。
確かに東京の宮島から、表紙に『極秘』の判が押された調査報告書が届いた。それは、あくまで室員にも極秘扱いであった。ただその報告書、それは机上の空論に過ぎなかった。
「宮島、この分厚い報告書、数字を並べているが、これは机上の空論だろ」
腹立たしさを隠せない柿岡は、そんな口調で東京の宮島に電話で詰め寄った。
だが返ってきた言葉は、あまりに冷ややかった。
「当たり前だ。本社の人間が現場に入ったらどうなる。それはお前の仕事だろ」
電話を切られた後も、その言葉が耳に残った。
確かに、宮島が現場へ行ってあれこれ聞いたら、組合も放ってはおかないだろう。オイルショックの後の社内は、思い出すだけも悲惨だった。分かっていることとは言え、前途は多難だった。
それから室員を集めて、調査の内容を口頭で指示を出したものの、半月ほど経っても具体的な結果は出てこない。
「夢物語です、室長」
と言う伊藤の声には、冷静さの中に熱い思いが感じられた。
「膨大な報告書も、現場を知らなければ、意味がありません」
と、彼女はデスクの前に立って睨んでいた。
柿岡が長崎へ戻った時、大学を出たての伊藤は資材へ配属されて間がなかった。確か今年三十になる筈だが、まだあどけなさが残っている。
(なんか彼女……変ったな)
と、柿岡は伊藤の顔を窺いながら、ふとそんなことを思った。
これまで柿岡は彼女に女を感じたことはない。ただ職場の花であることは認識している。背丈はそれほどないのだが、メリハリのある顔立ちと言うか、鼻筋の通った美形だった。
「夢物語……」
と、心とは裏腹な言葉を呟きながら、柿岡は伊藤の顔を見上げていた。
「はい、そうです――」
と、珍しく伊藤が、はっきりと言葉を切ったのであった。
(つづく)
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