第3話(その3)

 柿岡はあの日のことを思い出していた。1982年(昭57)7月23日の豪雨は、後に長崎大水害として記録されるのだが、死者・行方不明者299人という大惨事となった。


 経済的にも長崎県全域の被害総額が、3150億円という大惨禍であった。町や村のいたるところで山崩れや土石流が発生し、長崎市内でも中島川・浦上川・八郎川が氾濫した。市街地の多くが水没し、思案橋界隈の水位も1.5mを越えた。


 それに極東重工業も甚大な被害を受けた。特に社員及びその家族に、多数の被害者を出していた。また工場も機器装置は元より、建造中の船舶まで被害を受けた。工場再開まで2ヶ月余りを要した。


(水害で損傷した造船所の復興さえ終われば、翔子の店へ行ってビールを飲む。そしてまた徹夜で語り明かしたい)

 と、そんな想いを抱いて柿岡は、現場へ出て頑張った。


 だが9月に会社が再開し、ようやく訪ねた思案橋に翔子はいなかった。通り一帯の修理が終わり、すっかりリニュアルされた店に翔子はいなかった。


 誰に聞いても知らない。

 隣の店で尋ねても、彼女の消息はつかめなかった。


 生きているのか死んでしまったのか、それさえ分からない。後から考えれば、柿岡は彼女の苗字さえ聞いていなかったのだ。


 柿岡は必死で彼女を探した。

 家の押入れを漁り小学校の卒業アルバムを探した。


 だが考えてみれば柿岡は小五の秋、父の転勤で大阪に転校した。卒業アルバムがある筈がない。そのまま翔子と会うことはなく、やがて東京へ転勤した。だが5年経った今も忘れはしない。

 

 あの日の朝、柿岡はひとりで部屋から外へ出た。


 街には水害の爪痕が溢れ、バスは元より市電も不通。そんな街中を柿岡は歩いて戸町へ向かった。幸い家は水没を免れ、電気はつかないものの、着替えをして会社に向かった。


 途中公衆電話の前に並ぶ列に加わり、東京の両親へ電話を入れた。運輸省勤めの父は不在だったが、ひとまず母へ無事を伝えた。 


「文隆——、いったいどこにいるの――」

 と、電話の向こうで泣く母。


 気丈な母も、確かにテレビなどが伝える長崎の状況は、尋常ではなかったのだろう。それだけに怪我はないかとか、些末なことばかり聞いた。早々と電話を切った柿岡だが、切った後でしみじみと家族の有難さを味わうことになった。


 それから1ヶ月、柿岡は会社と会社の寮を往復した。長崎造船所は飽の浦は元より、深堀工場のダメージも大きく、猫の手も借りたい状況だった。


 しばらくは翔子のことを忘れた。だが夜遅く寮へ帰って寝床へ入ると、翔子のことを思った。電話も通じない。会う事も敵わない。ただ暗闇の中で触れた彼女の柔肌に、ひとり気を行くばかりの柿岡だった。


(長崎へ帰れば、翔子に会えるかも)

 という、儚い夢を抱いて柿岡は長崎に向かった。


(つづく)

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