第2話(その4)

「今夜の接待はキャンセルですか?」

 と尋ねるママに、

「雨で来られんって」

 と言いながら、柿岡は席に戻る。


 ゆっくり翔子ママと話が出来ると思うと、自分の心が揺れ始めていた。

 ふと柿岡は彼女のブラウスの襟元に目がいった。


(ロザリオ……だ)と、認識した。その視線を感じたのか、ママの目が柿岡の目に刺さる。酷く暖かい瞳が、そこにあった。


「柿岡さん、覚えとっと……こんロザリオ?」

 と、彼女が言う。その瞬間、柿岡の脳裏に浮かんだ画像に先に嗅いだ香りが重なった。(ローズマリーの花)と、はっきり分かった。


(あれは野母崎に行った時――)

 と、ローズマリーの咲く一画に佇む女の子、ロザリオの首飾りをしていた。戸町の小学校から写生に行った時のこと。


 だがまさか目の前にいる翔子ママが同じ小学校の同級生とは。不思議な縁に柿岡は一瞬言葉を失った。ただどこか影のある面差しは変わらない。両親と妹と暮らしていた至福の思い出と共に蘇った。


「柿岡さん、横に座ってよか?」

 とママが聞く。

「ああっ」

 と、柿岡に異論がある筈がない。


 それから二人は時間を忘れて記憶を埋め合わせた。

 共に異なる人生を越えて話し合った。


 だが静かな会話は表の喧噪によって途切れる。

 共に気づいて、先にママが立ち上がった。 


「この音……、まだ降りよっと?」

 と呟くママ、カウンターを出て入り口へ向かう。

 と、開けたドアからムッとする外気と、止めどない雨音が飛び込む。


「酷か――」

 と、慌ててドアを閉めるママ。緑のティアードワンピースと白のブラウス姿の彼女は、二の腕まで濡らしながらドアを閉める。


 慌てて柿岡もドアへ向かう。外は先の見えぬ横殴りの雨。

「これじゃタクシーも拾えん」

 と、雨を避けてドアを閉める。あっと言う間に頭からずぶ濡れ。


「知り合いの運転手に電話してみます」

 と言うママ。奥へ行ってダイヤルをまわす。


 だが何度かけても駄目。

 時計を見れば8時を過ぎている。


 その内に入口のドアの下縁から雨水が流れ込む。はっとして駆け寄ろうとしたが、水は勢いを増しながら吹き上がるように溢れ、瞬く間に床一面に広がる。その勢いに圧倒されるように、柿岡は奥へ下がるしかない。


「柿岡さん、早くこのドアから2階へ上がって下さい」

 と言って、ママは柿岡を誘う。振り返れば混濁した水が店の床に溢れ、間もなくカウンターの高さを超えるだろう。


 二階へ逃れると、そこは店と同じ広さで奥の窓の下にベッド。ピンクのカーテンがいかにも女性の部屋だった。部屋を片づけるママに柿岡は平静ではいられない。


 だが間もなく明りが消えた。

 真っ暗な部屋に二人の重い吐息が流れる。

 そのまま時間は流れていった。


 水が引く翌々日の朝まで二人は部屋で過ごした。閉ざされた夜、静かに時が流れ、互いの情が自然と染み入っていった。


 二人の心に深く刻まれた、忘れがたい夜だった。


(第3話へつづく)

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