第2話(その3)

 鳴り物入りで入社した柿岡だが、ラグビーを辞めると共に居場所を失った。いくら船が好きでも、実際の仕事となれば戸惑うことばかり。そんな己に憤懣やる方なかった。


「今日は接待ですか?」

 とママが問う。


「ええ、でもその前に一杯やろうかと」

「そうですか。じゃあ何にします?」

「ビールもらおうかな」


 そう柿岡が答えると、すぐに「ポン」と小気味よい音がする。中瓶の栓を抜いたママが、左手に持ったグラスにビールを注ぐ。


 その手際良さ、傾けたビールを満たし「どうぞ」と、紙ナプキンで拭ったグラスを差し出す。「ありがと」と答える柿岡は、パチパチと泡の弾ける様に目をつぶり、一気に満たされたグラスを呷る。


「旨か――」

 と、カウンターに肩ひじついて、ほっと肩の力を抜いた。


「やっぱりアサヒがよかね。でも珍しかね、なにも聞かんと、アサヒが出るとは」

「なに言いよっとですか、『おいはアサヒが良かっ』て、前に言いよらしたケン」


 そう言うとママは、少し上から目線の流し目で奥へ行く。それはまるで川釣りでもするように、微妙なタッチを柿岡の心に刻む。だが柿岡の憤懣を消すほどではなかった。


「なんでうちの会社は、ビールの銘柄まで指定すっとか、いっちょん分からん」


 極東重工業では、飲むビールも乗る車も同じグループのものでなければならない。他社の車では構内へも入れない。それは不文律というより、グループファーストの鉄則だった。


「重工の社員なら御の字でしょ。贅沢言うたらバチが当たる」

 そうママが諭すように言う。


 街では極東のことを「重工」と呼ぶ。長崎という造船城下町の経済は重工次第。創始者の家紋である「木瓜菱」の社章をつければ、どこの飲み屋もツケが効く。


 それが街の常識であり、柿岡もその恩恵に預かっている。

 だがそんな風潮に柿岡は馴染めていない。


 と、ポケベルが鳴る。

 見れば相手は西海工業。


 ママに断って電話すると、大瀬良部長だった。四十過ぎの大瀬良は西海工業の四代目。良くも悪くも老舗の跡取り息子だった。


「柿岡さん、こん雨で思案橋までは行きつけんバイ。今、どこにおっとですか」


(自分で誘っておきながら)

 と、柿岡は腹に据えかねたが、天気が相手では仕方ない。


「よかですよ、おいも帰りますケン」

 と、素気なく答える。

「今どこに」

 と問う大瀬良に、電話を切る。


(どうせ用もない)と、彼の大仰な顔が頭に浮かび、意味もなく嫌気がさす。


 西海工業は艤装品を作っている。設計からの図面で見積して、それを柿岡が検討する。だが内訳のキロ単価は上層部が決める。柿岡はそれを適用するだけ。最終決裁は課長の権限であり、平の柿岡はあくまで丁稚奉公のようなもの。それが組織のシステムだった。


 だが時として大瀬良は柿岡を食事に誘う。要は内部の情報収集のためなのだが、それを期待する思いも柿岡にはある。そんな自分に、何とも言えない惨めさを覚えるのだった。


(つづく)

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