第2話(その2)
2年前、柿岡が入社した頃、造船の景況は最悪だった。その後多少持ち直してはいるが、高度成長期に「我が世の春」を謳った肥満体は、もはや病的な構造不況に陥っていた。
「同型船を連続建造すれば、これほど儲かる事業はない」
と嘯く経営者も大手造船所にはいた。
円は二百数十円台を保っていたが、日本の経常収支は酷く悪化している。世界の貿易も芳しくない。極東重工業でも造船の売上は激減し、創業からといえども肩身が狭い。その結果コストカットが叫ばれ、そのしわ寄せが資材部に集中し、組織はガタガタだった。
柿岡は思案橋の手前でタクシーを降りた。銀行の玄関先まで走り、肩にかかる雨を払いながら空を見上げる。いつもなら心浮き立つはずのネオンが、白く煙っていた。
戸町の家には誰もいない。両親は転勤で東京にいて、五つ下の妹も同居して大学に通っている。ラグビーをやっていた頃は、一人で街に飲みに出ることはなかった。
だが今夜は地元の西海工業から声が掛かり、少し早めに出てきた。時計を見ればまだ6時過ぎ。約束の時間は7時、予約がいる籠町の鮨屋である。それだけに早過ぎる。
降りしきる雨を嫌って柿岡は、以前に何度か立ち寄った思案橋入口のカウンターバーに入った。
「あら、柿岡さん、いらっしゃい――」
と、鼻から頭へ抜けるような声は翔子ママ。
歳は知らないが恐らく二十代後半だろう。接待のあと同僚と何度か寄ったことがある。酔ってはいたが、どこか気になる女性だった。
長い髪の間に白さが光る富士額、整った目鼻立ちにコケティッシュな雰囲気が漂う。誰が見ても男好きのする容姿だった。
「よく俺の名前を……」
と、柿岡はおどけながら入口のスツールに座る。
「一度お名前を聞いたら忘れません」
とママは言い、奥のボックスからおしぼりを取り、薄いラッピングを裂きながら歩み寄る。
ふと鼻腔をかすめるラベンダーの香り……、蘇る幼い頃の記憶。その香りに、どこか遠い日の野母崎が霞んで見えてくる。
(あれは確か野母崎……)
と、薄暗く霞む幼子の頃の記憶が、次第に色を帯び始める。
雨で嗅覚が研ぎ澄まされたせいか、薄っすらとした野母崎での一場面が蘇る。あれが初恋だったのかと、一時の幼心が蘇るようだった。
「何にします?」
と、斜め前に立つママが、グラスを拭きながら問い掛ける。その笑顔の温かみが柿岡のマゾッ気を呼び起こす。
雨で冷えた体が、冷房の効いた室内でさらにぞくぞくと震える。
おしぼりを受け取ると、大仰に「熱い」と言いながら顔に押し当てた。
濡れそぼつ肩の重みが、おしぼりの熱さで消えていく。それは一時のことだが、仕事やラグビーのことが、よそ事のように薄らいでいく。だが先行きの不安が消える訳ではない。
(つづく)
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