第32話 変わらない日常

「大丈夫です。僕たちは、バスで帰ります」

 

 病院内のエレベーター前で、健太郎が家まで車で送るから少し待って欲しいと言ったのを、尚は遠慮した。

 

「そうそう。お父さんは、お店があるんでしょ? それに、なんか本の締め切りも近いって言っていたじゃない」


 楓も尚のそばにたって、父に手を振り制止していた。


「まあ、そうなんだが……」

 

 健太郎としても、今回の入院で正月に執筆する予定だったレシピ本が進んでいなくて締め切りに追われているのは事実だった。

 そうは言っても、子どもたちだけに任せていいものかと苦悶の表情を浮かべる。

 

「大丈夫だって、ちゃんと料理も二人でしているから。ねっ」

 

 楓はそう言って、隣を向いて尚にも同意を求める。

 尚は、楓の方を向いて視線をあわせながら、『はい』と言いながら小さくうなずいていた。

 

「そうか。それじゃあ、そうさせてもらおうかな。尚くん、家のことは頼んだよ」

 

 どうやら、尚の指導の元だと思うけれど、本当に二人で家事もできているようだった。

 仲睦まじい二人の姿を見て、健太郎は安心したように彼らを送り出した。


 

 再び子どもたちだけの生活が始まるが、尚も楓ももう不安は感じていなかった。

 バスを降りると、尚が提案する。

 

「晩ご飯の材料、買っていこうか」

「うん。行こう」

 

 二人は並んで近くのスーパーへと向かい、夕食の食材を選んだ。

 尚が買い物かごを乗せたカートを押して、楓が商品を入れていく。

 

「それで、今日は何を作るの?」

 

 よくわからないまま、言われるままに買い物かごに入れていた楓は笑顔でそう尋ねた。

 

「今晩はシチューにしようと思って」

「おお」

「まあ、簡単だしね」

 

 謙遜するように尚はそう言ったけれど、あまり料理を手伝ったこともない楓は簡単かなあと疑っている。

 尚に話をすると、そんなに凝ったものではなくてカレーと同じようなものだと思って納得して、それなら自分にもできそうだと大きくうなずいていた。

 今日はもう照れたりすることもなく一緒にカートを押しながら、並んで食材コーナーを巡った。




 家に戻って夕方になると予定通り二人で台所に立ち、シチューを作りはじめた。

 

「はい。じゃあ、これを切ってね。猫の手でね」

「それくらい分かってるから」

 

 尚は皮を剥いた人参を渡しながら、楓に頼んだ。

 でも、まるで小学生の妹に指導するような口ぶりに、楓は少し口を尖らせた。

 

(でも、本当の兄妹みたい)

 

 優しさを感じつつも、こんなくだけた会話ができるようになった尚との関係に、楓は内心で満足し、わずかな笑みを浮かべていた。

 協力して料理を作り、二人だけではあるけれど楽しげに食卓を囲む。

 

「うん、美味しい」

 

 楓は、野菜を切っただけだったけれど、それでも二人で作った料理に満足してじゃがいもを頬張っていた。

 由香の容態が思ったより良好だったこともあり、会話は弾んでいた。

 

「よかった」


 満足してもらえて尚もはにかんだような笑顔を浮かべていた。

 二人だけの食卓は寂しいところもあるけれど、楓と向かい合う食卓はこれはこれで悪くないと暖かい空気を感じていた。



 

 食事を終えた尚は、温かな湯船につかり心身ともにリラックスしながら、自室へと戻った。

 まだ義母の体調に不安はあるけれど、由香が元気そうな様子を見て、ゆっくりと過ごせそうだと感じていた。

 

「うん、今晩はのんびりしよう」

 

 冬休みの宿題も残っていない。固い決意を持って図書館で借りた文庫本を持って、早々とベッドへ向かい横になった。

 寝間着代わりのジャージ姿のまま仰向けになって、文庫本を開いた。最近、はまっている歴史小説だった。

 史実でどうなるかは知っているけれど、戦国時代の武将たちの生き様に心を躍らせながら読み進めていく。

 

 十数ページほど読み終わり、次のページをめくろうとしたところで、部屋のドアが開く音がした。

 いや、正確にはノックの音が聞こえた後、尚が応答するよりも早く……ほぼ同時に楓が部屋に入ってきたのだった。

 

 (ノックの意味がないような?)

 

 尚はそう思いながら、文庫本を上に広げたまま、わずかに顔を楓の方に向けた。

 でも、楓の方は尚の視線を気にした様子もなかった。

 そうするのが当然のように折りたたんでいたベッドまで早足で歩くと、広げて昨晩と同じように尚のベッドの隣に設置していた。

 

「あの……楓さん?」

「ん? 大丈夫だよ。今日は毛布もう一枚持ってきたから」

 

 笑顔でそう答えると廊下においてあった毛布を持ってきてベッドをセッティングしていく。

 確かに昨日よりは温かそうで、布団を半分こしなくても良さそうではある。

 

(でも、やっぱりちょっと寒くないかな……)

 

 隣のベッドの上にちょこんと座った楓の姿を、寝そべって見ながらそんなことを思っていた。

 昨日のピンクのパジャマは温かそうだったけれど、今日の淡い青色のパジャマは少し薄手に見えた。寝転がりながら下から見上げると、胸のふくらみのラインがパジャマ越しにうっすらと分かってしまう。


 尚はエアコンを付けずに寝るので、朝には少し寒くなっていそうな気がした。

 

(いや、そんな心配じゃなくて!)

 

 「どうかした?」

 

 楓はこちらを観察している尚の視線にやっと気がついたようだった。

 

「うーんと、朝は寒そうだなって」

 

 楓は毛布も持ってきたし、なぜそんな事を言うのかと最初は首をかしげていたけれど、ふと自分の身体を見回してやっと何が言いたいのか理解したようだった。

 

「ああ、まあ、確かにこれは夏用のパジャマ。ずっとバタバタしていたから、最近着たパジャマをさっきまとめて洗濯しちゃったからね」

 

 気づいてくれた尚に、感心したような表情で微笑む。

 

「部屋は暖かいし、大丈夫でしょ。もし寒かったら、また尚くんの布団半分もらうから」

「楓さん!」

 

 尚は抗議したけれど、楓は気にしたような様子もなくベッドに転がっていた。

 

「そういえば」

 

 楓は、尚の方を向いて座り直すと片手を尚のベッドにおいて四つん這いのような姿勢で近づいてきた。

 つい先ほどまで読んでいた文庫本と同じ高さに、楓の顔と胸があった。

 尚は、こんな近い距離で見上げてしまうことは、いけないものを見ているかのような罪悪感に襲われたけれど、楓の方は気にしている様子もなく、スマートフォンを取り出していた。


「真由美たち、小野寺くんたちと一緒に初詣に行ったって」

 

 楓はにんまりと笑いながらスマホの画面を見せてくる。

 画面には、楽しそうな松木と小野寺、そして真由美と美咲の姿が映っていた。

 

「あ、真由美さん。晴れ着だね。綺麗だなあ」

「ね。綺麗だよね。気合いが入っているなあ」

 

 尚と楓は、一緒にベッドの上に座りながらスマートフォンの画面を覗き込む。画面の中の真由美が、この街のそれほど大きくはない神社に行くにしては綺麗すぎる装いに、二人は色々な感想を言い合った。


「でも、楽しそうでよかったね」

 

 尚は、自分が参加できなかったことを残念がったりはせずに、友人たちが楽しそうなことを純粋に喜んでいた。

 楓も同じ気持ちだった。自分たちが行けないことで、友人たちが集まらなかったりしたら申し訳ない気持ちになってしまっただろうと思う。

 同じ感想を分かち合える義兄の存在がありがたいと思うのだった。

 

 



「そろそろ寝ましょうか」

 

 そう言うと、楓は立ち上がり、尚の部屋の明かりを消した。

 

「うん、ありがとう」

 

 (あれ?)

 

 尚は小さな疑問を感じつつも、自分のベッドに身を横たえる。

 すると楓は、暗闇の中そのまま戻ってきて、するりと簡易ベッドに潜り込んだ。


「あの……楓さん?」

 

 尚は、先ほどまでの楓の様子を見て、もう大丈夫だと思っていただけに、この行動に驚きを隠せなかった。

 よほどのことがない限り、男の部屋に泊まるのは良くないと言いたかったが、『もう大丈夫でしょ』と部屋から追い出すのは、何だか冷たいことのような気もして、最後は声が小さくなってしまった。

 

 (由香さんの様子は見たけれど、まだ不安なのかな……)

 

 まだ大丈夫か分かるまでには2週間ほどかかると言われていたのだから、今日の見た目の元気さだけでは判断できないのは、尚にとっても同じだった。

 戸惑っている間に、楓はもう静かに寝息を立てている。

 

 (ええっ。ま、まあ、僕がしっかりしていれば大丈夫だろう)

 

 あまりにも無防備な楓の寝顔を見ながら、尚は小さくため息をついた。

 今夜こそ、ドキドキしてなかなか眠れないのではないかと思ったが、月明かりに照らされた静謐な部屋で、優しい寝息が耳に届くのは、どこか心を落ち着かせるものがあった。

 昨夜よりも、深い眠りに誘われていくのだった。

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