第33話 柔らかい感触

(ぐっ!)

 まだ朝日も昇らない薄明かりの中、尚は荒い息遣いとともに目を覚ました。

 顔に粒々の汗をかいて、シャツは肌にまとわりつくほどに濡れていることにすぐに気がつく。

 

(ああ、あの夢か……)

 

 先ほどまで見ていた悪夢が鮮明に頭の中で蘇る。

 まだ尚が幼い日に、倒れた実母の夢だった。

 最近はそんな遠い過去を思い出すことも減ったと思っていた。やはり義母である由香が似たような倒れ方をしたのを目の当たりにしてしまった影響だろうと、尚は胸の奥から湧き上がる切なさとともにため息をついた。


「……ふぅ。……ん?」

 

 何かがいつもと違う。

 そう感じた尚は、ベッドで横向きに寝たままゆっくりと周囲を確認しようとする。

 まだ眠りの余韻に包まれた瞼を持ち上げているのだけれど、薄暗さに慣れるはずの視界はさっぱり開けない。

 薄暗さに慣れてくる時間のはずなのに、視界はさっぱり良好にならなかった。

 そしておでこに心地よい温もりを感じていた。まるでそっと包み込まれるような、柔らかな感触がある。


「……楓さん?」

 

 尚の視界を妨げているのは、楓のパジャマだった。

 焦点をごく近くにあわせていくと、淡いブルーの生地の向こうに、ふくらみを帯びた胸元からお腹にかけての起伏が、ぼんやりと浮かび上がる。


「どういう状況……?」

 

 分かったことは、隣の簡易ベッドで寝ていたはずの楓が尚のベッドにまでやってきているということだった。

 そして尚の頭は、楓の腕の中で守るかのように優しく抱きしめられている。

 胸の柔らかな感触を抱きながら、尚は少し離れようとしたが、楓の手はしっかりと尚の頭を包み込み、まるで慰めるように撫でていた。


 尚が離れようともぞもぞ動いていると、楓は目を覚ましたようだった。

 胸に尚の頭を押し当てているかのような体勢に、気恥ずかしくなったのか楓の方から抱きかかえていた腕を緩めて少し離れてくれた。


「あ、尚くん。お、おはよう……」

「お……はよう」


 目を開けた楓と、尚の視線が重なる。まだ薄暗い暗闇の中だったが、差し込む街灯と月明かりだけで、互いの表情を窺い知ることができた。


「ああ……」


 尚は、楓の心配そうに尚の様子を探る憂いを帯びた表情から状況を悟った。


「もしかして、僕……うなされていた?」


 そう尋ねる尚に、楓は暗闇の中でも、なんとか取り繕うとしているのが分かった。


「え、ああ、いや、そういうわけじゃないよ。私が寝ぼけていただけ……」


「別に隠さなくてもいいよ」

 

「ま、まあ、結構、悲しそうな声で、うなされているから……」


「そうか……」


 触れてみれば、目元や頬には涙の跡が残っていた。


「恥ずかしいな……」


 尚は、そのまま顔を手で覆い、くぐもった声で呟く。

 楓は、優しく尚の背中をさすりながら、言葉をかけた。


「恥ずかしがることないよ。お母さんが病に倒れたこと、思い出しちゃったんだね。仕方ないよ」


 だが、その言葉に尚はまた涙を流し始める。

 その様子を見て、楓は思わず尚の頭を抱きかかえた。


「か、楓さん……」


 涙声で、離れようとする尚だったが、楓は許してはくれなかった。


「でも、尚くんのおかげでうちのお母さんは助かったんだから。ありがとう」


 力強く楓はそう言って、尚を抱きしめた。

 尚は抵抗をやめ、楓に身を委ねる。


「いや、僕のおかげなんてことは……」


「そんなことないよ。本当に、ありがとうね」


 力強く言ってもらえると、尚は実の母の時には何もできなかった自分が、少しは役に立てたのかもしれないと、ほっとした気持ちになるのだった。


「てっきり、楓さんが寂しくてこの部屋に来ているものだとばかり思っていたから……」


 楓の胸の中で抱きしめられたまま、尚はぼそりと告白した。


「あはは、勝手に押しかけてきたのに何も言わないのは、そうなのかなと思っていた」


 楓は尚の頭の上で笑う。柔らかな胸ごしに振動が伝わってきて尚はさきほどまでの不安な顔から一変して顔を赤らめる。

 

「優しいよね。私も不安で寂しかったのは本当だし、尚くんに助けられているからね」


 笑顔でそう言って、楓はまた尚の頭を撫でた。

 今度は、怖れや悲しみとは違う涙を流しながら、尚はそのまま再び眠りについたのだった。


 


 翌朝、二人はほぼ寝た時のままの状態で同時に目を覚ました。


 「お、お、おはよう。尚くん」


 寝た時とわずかに違うのは楓の方が無防備に尚に抱きついているかのような姿勢になっていることだった。

 その結果、より密着してしまい、全身で男性のぬくもりと男性らしい肉体を感じてしまい慌てて離れた。


「おはよう。楓さん」


 夜明け前に目を覚ました時とは違い、カーテンごしに差し込む朝日の光に照らされて今度ははっきりと相手の顔が見える。

 自分のベッドの上で、座り毛布を奪い取り胸元を隠して、顔を真っ赤にしている義妹を見ていると、尚はひょっとして夜中のうちにいけないことしてしまっただろうかという錯覚に陥ってしまう。


「け、今朝は私が朝食を作るからね。ゆっくり降りてきてね」


 まだ混乱しているのか、尚の毛布を奪ったまま楓は慌てて部屋からでていってしまった。


 尚は改めて自分はいけないこと何もしていないと確認する。

 ただ、お互いにちょっと大胆すぎた夜明け前の出来事から、朝のうちこそは気まずい雰囲気が流れていた。


 ただ、もう出会った頃とは違う。

 半年前ともさらに違う信頼しきった関係ができあがっていた。

 お互いがお互いに感謝して、尊敬しあい、そしてここ数日で自然と近くにいるのにも慣れていた。いや、心地よさのようなものを感じていた。

 

 

 母のことは気にかけながらも、二人だけの穏やかな一日が過ぎていった。

 今日はどこにも出かけずにリビングで過ごす時間が多かった。夕食は楓がメインで昨日の食材をそのまま活かしつつカレーを作る。

 尚に手伝ってはもらいながらも、問題なくカレーは完成し、穏やかな二人の夕食の時間を過ごしたのだった。



 尚は夕食後、自分でお風呂をいれると、すぐにいただいて部屋のベッドに横たわり、昨日の小説の続きを読もうとした。

 ただ今日も数ページ進んだところで侵入者によって中断せざるを得なくなってしまう。

 

 「あ、明日はお父さんが帰ってくるって、お母さんの退院はまだもう少し先みたいだけど」


 今晩も、ノックと同時に風呂上がりでまだ髪が少し濡れている楓が、スマホを見ながら部屋に入ってきた。


「え、あ、そうなんだ。それはまあ、よかったね」


 尚は上半身を起こして、そう答えた。

 とりあえず今のところは、由香の状態は良好なのだということなのだろう。

 尚も安心した表情になっていた。

 

 それはそれとして、部屋に入ってきた楓を目だけで追う。

 当然のように今晩も簡易ベッドを広げて、パジャマ姿のままうつ伏せで横になるのだった。


「もう明後日には学校だね。何もできずに終わっちゃうね」


 楓は、スマホの画面を見ながら、残念そうな口ぶりでそう言った。

 ただ、表情は穏やかだ。今、こうやって会話しているのが楽しそうですらある。


「……あの、楓さん」


「ん? 何?」


 尚の呼びかけに、楓はスマホの画面から目を外して尚の方を見た。

 友人たちにするのと同じような次の話題を期待して聞いている目だった。


「いや、僕はもう大丈夫だから……ね」

 

「うん」


 尚の言葉に、楓は頷きはしたけれど、あまり真意が伝わっていないようで、ベッドの上から動く気配は微塵もなかった。

 

「だから、男の部屋で一緒に寝たりするのはよくないから、自分の部屋に戻って」


「え。兄妹だし。麻衣ちゃんとはたまに一緒に寝ていたんでしょ?」


 はっきり言わないと駄目かと思ったのだけど、はっきり言ってもベッドから動かないので尚としては困りはててしまう。


「麻衣は大部屋の中とか、他にも誰かいた時だから」


 そう言われても、楓はあまり納得がいっていないような顔をしている。


「男の方も我慢するのが大変なの!」

 

 尚にしては珍しく大きな声でそう言われてしまい、楓の方もこの義兄にそんなことを言われるとは思ってもみなかったので、目をパチクリさせる。


「えっ、あ、そ、そうなんだ」


 やっと、楓は尚の気持ちを理解した。理解した結果、急にパジャマ姿が恥ずかしくなってしまい少し身を捩らせて、顔も赤くなってしまう。


「もう、楓さんは無防備すぎ」


「それは、家族だから……尚君だからだよ」


 まだ顔は少し赤いながらも、本気でそう思っているので楓はにこやかに笑顔を浮かべながらそう言った。


「じゃあ、自分の部屋で寝るけれど、寂しくて泣きそうだったら呼んでね」


「楓さん」


 尚は、たしなめるように義妹の名前を呼んだ。

 

「あと、悲しそうな寝言が聞こえてきたら、勝手にやってくるからね」

 

「大丈夫だから」


 尚の方も絶対に大丈夫なのかは自信がなかったので、ちょっと声が小さくなる。

 その上で、ふと笑顔でここ数日気になっていたことを注意した。


「ちゃんとノックしたあと、返事を聞いてから入ってきて」


「はあい」


「まったく、麻衣といい楓さんといい。悪いこともできないよね」


 ぼそりと尚は言った。

 他の人なら、どういう意味と思う言葉なのかもしれないけれど、楓には夢の中で出会った女の子が言っていた言葉を思い出していた。


(尚くんが闇に堕ちる……可能性もあるとか言っていたんだっけ)

 

 楓は心の中でほっとした気持ちになりながら、表情は緩んでいた。


「これからも、妹としてうざいくらいにかまってあげるから覚悟していてね。おにいさん」


 楓は、簡易ベッドはそのままにしたまま、ドアへと向かう。

 ドアノブに手をかけたあと振り返ると誇らしげに、満面の笑みで尚に向かってそう宣言してから部屋を出ていった。

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