第31話 二人で迎える朝の光景

 朝日が窓から差し込み、尚の部屋は柔らかな光に包まれていく。

 休日であっても、尚にとってはかなり遅い時間の目覚めだった。

 こんなにもぐっすりと眠れたことに、尚自身が驚きを隠せなかった。

 

 ベッドで目を覚ましたまま顔だけを横に向けると、自分で持ち込んできたベッドで眠っている楓の寝顔があった。

 

(綺麗……)

 

 カーテンの隙間から差し込む光に照らされた楓の寝顔は、至近距離で見れば見るほど美しくて絵画のようだと尚は思う。

 尚の動きに反応したのか、楓はゆっくりと瞳を開く。目の前に広がる尚の顔に、じっと視線を注ぐ。

 朝目覚めてすぐ、こんなにも近い距離で義兄の顔を見ることに、今更ながらに戸惑いを覚えているようだ。

 

「おはよう、楓さん」

 

 優しい声が、静寂の中に響く。

 

「あ、おはよう……」

 

 楓はやっと状況を理解したのか、少し照れながら答える。

 ベッドを持ち込んで密着させて寝たのは自分なのに、このシチュエーションに恥ずかしさを感じ始めたようだった。

 

「お、起きなきゃね」

 

 楓は動揺しつつ、目を逸らして、天井を見上げながらそう言った。

 

「うん。お義母さんのお見舞いにいかないとね」

 

 尚はそう言いながら、上半身を起こした。

 急ぐ必要はないのだけれど、尚の方もこの近さで寝ていることには気恥ずかしくて耐えられなくなってしまったようだった。

 

 「楓さん? どうかした?」

 

 楓も尚と同じように簡易ベッドの上で上半身を起こしてそのまま、じっと尚の方を見ていた。

 まるで尚の状態をチェックしているかのようだった。

 

 「ううん。今朝こそは尚くんの寝顔を見て、起こせると思ったのに。ってだけ」

 

 楓は『残念』と少し舌を出しながら笑顔で付け加える。

 尚はどうやら、何かのチェックでは合格だったようだと自分でも安心するのだった。

 

「ええと、じゃあ、着替えるから」

 

 尚はそう言って、パジャマ代わりのトレーナーを脱ごうとする。


「あ、今日は出かけるからね。わ、私も着替えてくるね」

 

 楓は脱ぎ始めた尚のことをしばらくぼーっと眺めてしまっていたけれど、不意に我に返って自分の部屋へと戻っていった。

 

 二人は身支度を調えると、一階へと降りた。

 楓は一人でキッチンへと向かう。今朝は楓が朝食の用意をすると言い張ったのだ。

 エプロンを身に着けた楓は、トーストを焼き、サラダを盛り付ける。

 テーブルに並んだ朝食を前に、二人は向かい合って座る。

 

「いただきます」

 

 そう言って、楓はトーストに手を伸ばす。マーガリンの香ばしい匂いが、食欲をそそる。

 尚も微笑みながら、サラダを口に運ぶ。

 

「美味しいね」

 

 その一言に、楓の顔がぱっと明るくなった。

 サラダはパックから盛り付けただけで、トーストは焼いただけなのだとはお互いに分かっているけれど、こんなやりとりが暗い気分を少し晴らしてくれる。

 二人は目を合わせると自然と笑顔になりながら、朝食を食べるのだった。

 


 朝食後、二人はゆっくりと出かける準備を始めた。

 普段なら時間がずれているのだが、今日は同じ時間に目覚め、同じペースで動いていたため、洗面所で鉢合わせることになった。

 

「尚くんもひげが伸びるんだね」

 

 尚が電動シェーバーを顎に当てようとした瞬間、後ろから声がかかる。

 鏡には、不思議そうに尚を見つめる楓の姿が映っていた。

 

「まあ、それは、男なので」

「尚くんは、週に1回くらい剃ればいいのかと勝手に思ってた」

「そんな男は……あまり……。いないんじゃないかな」

 

 尚は当たり前と思いながらも、途中から自信なさそうに答えた。もしかして、そんな人も世の中にはいるのだろうか、小野寺君あたりはどうなんだろうとしばらく考えてしまった。

 

「あっ、邪魔だった?」

 

 洗面台を使いたいのかと思い、慌てて譲ろうとする尚を、楓は制止した。

 

「まだいいよ。私の方が長いし。歯ブラシだけ取らせてね」

 

 楓は後ろからすっと入ってきて、手を伸ばして歯ブラシを取ると、歯磨き粉をつけてすぐに後ろに下がった。

 

「なんか落ち着かない……」

 

 尚がひげを剃っている間、楓は後ろで歯を磨きながら、じっと尚のことを観察していた。

 どうしても鏡越しに目が合ってしまい、恥ずかしい気持ちになる。

 

「お父さんも朝早かったから、なんか新鮮」

 

 歯磨きを終えた楓は、そんな感想を口にした。

 兄弟のいる生活というのは、こういうものなのだと理解できたことが嬉しそうだ。

 尚としても、少し気恥ずかしさを感じつつも、不快な気持ちにはならなかった。出会った頃に比べると、確かに距離が縮まったのだと、嬉しく思うのだった。

 

 

 支度を終えると、二人は病院へ向かうためにバスに乗り込む。

 窓の外を流れる景色を眺めながら、楓は母の容態を案じていた。

 ふと隣を見ると、尚も不安そうな顔だったけれど目が合うと頬あたりがぎこちないながらも優しく微笑んでくれた。

 こうやって隣にいてくれるだけで安心することもあるんだなと思いながらバスに揺られ続けると病院に到着し、ロビーで父の健太郎と合流する。三人で病室へと足を進めた。


 ドアを開けると、そこには思っていたよりも普通の病室があった。そして、ベッドの上で微笑む由香の姿が。

 尚と楓は安堵のため息をつき、由香のもとへと駆け寄る。

 

「お母さん、大丈夫?」

 

 楓が心配そうに尋ねると、由香は優しく頷いた。

 

「全然、元気よ」

 

 両手を握りしめて、元気そうなポーズをしてみせる由香。

 少しだけ普段よりもぎこちなくは見えたけれど、言葉もはっきり話している。体も問題なく動いているみたいだった。

 

「よかったぁ」

 

 由香の腕に軽くおでこをくっつけて喜ぶ楓だった。

 尚も後ろから心配そうにじっと見ていたけれど、元気そうな様子にやっと安堵したような笑みを作っていた。

 

「手術したのよね?」

「それがね。もう全然、意識がなかったから覚えてないの」

 

 由香は笑いながら言う。

 

「本当に、前と変わらなさそうね」

 

 顔をあげた楓は、そんな母親が笑う顔を見ながら本当に安堵していた。

 

「ええ。手術のあとももう全然わからないのよね。すごいわね。最近の医療って」

 

 自分の身体を見回しながら、由香はそう言った。体をちょっと捻ったさいに色々見えてしまいそうで、尚は視線が落ち着かなかった。

 

「元気そうだけれど、数日立って後遺症がでることもあるらしいから、もう少し入院する必要があるそうだよ」

 

 少し離れていたところから、妻と娘の様子を見守っていた健太郎がそう口を挟んだ。

 

「後遺症……」

 

 もう大丈夫だと浮かれていた楓たちに冷水をあびせて現実に引き戻したようだった。

 

「そうね。しばらくして、うまく喋れなくなったり歩けなかったりする人もいるわね」

 

 由香も冷静に、病室を一度見渡したあとでそう言った。

 

「でも、私は大丈夫。そう確信してる」

 

 力強くそう言い切る母親に、楓も尚も本当に大丈夫かもしれないという気持ちになっていた。

 

「尚くんもありがとう」

 

 由香は娘から尚の方へと視線を向けながらそう言った。

 

「いえ、ご無事でよかったです」

 

 手招きするように尚を近くに呼びよせると、由香は尚の頭に手を回して抱きしめた。


「な……にを」


 楓は、母が何をしようとしているのか分からなかった。でも、申し訳なさそうな母の顔を見ていると止めることも注意することもできなかった。

 

「ごめんね、尚くん。辛いことを思い出させてしまったわね」

 

 その言葉に、尚は驚いたように目を見開いていた。

 ただ、由香の胸に埋もれていた顔をあげると、優しく微笑んだ。


「いえ、お義母さんが無事でよかったです」

 

 そのやり取りを、楓は不思議そうに見つめていた。

 

 (ああ、そうか……)

 

 母親が何で申し訳無さそうにしているのかを理解する。

 

 病室に春の日差しが差し込み、穏やかな空気が流れる。

 尚と楓は由香の無事を心から願いながら、病室をあとにした。

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