第30話 心の距離
真夜中、ひとつのベッドに身を寄せ合う尚と楓。
(こんな状態で眠れるはずがない……)
尚はそう思いながら、目を閉じたまま、ベッドから落ちない程度にぎりぎりの位置で横になっていた。
苦悩する尚とは対照的に、楓はもう安心したのか眠りに落ちているようだった。
すぐそばから聞こえる楓の寝息や伝わってくる体温に、尚の胸は高鳴ってしまう。万が一にもお尻などに手が触れてしまったら大変だと、両手を自分のお腹の上でしっかりと組んだ。
今にも埋葬される人みたいだと思いながら、窮屈な姿勢でこわばっている。
それでも不思議と、楓の存在が尚に安心感を与えてくれているようだった。
嫌な記憶に囚われることなく、尚の意識はゆっくりと眠りの世界へと誘われていった。
早朝、寝返りを打った楓の手が尚の腕に触れ、尚は目を覚ました。
まだ薄暗いベッドルームの中、尚は静かに横たわる楓の横顔を見つめる。月明かりに照らし出された彼女の寝顔は、まるで絵画のように美しい。長いまつ毛が頬に影を落とし、薄いピンク色の唇がほんのり開いている。
(不思議な人だな)
尚は思わず微笑んだ。普段は凛とした佇まいで、時に妙に熱血的な一面も見せる義妹が、こんなにも無防備で可愛らしい表情を浮かべるなんてと思う。
だが、あまりにも近い距離で楓を眺めていると、どこか居心地の悪さを感じ始めてしまう。特に、パジャマの隙間から覗く白い肌が気になって仕方ない。
尚が何か悪いことをしたわけではないのに、罪悪感に耐えきれなくなって、そっとベッドを抜け出した。
「おはよう、楓さん。朝ご飯できてるよ」
朝日が差し込むリビングに降りてきた楓を、尚が優しく出迎える。テーブルの上には、すでにおせち料理の残りの数の子や栗きんとんが並んでいる。
お雑煮の入ったお椀に小さく切ったお餅を入れて差し出した。
「ありがとう……」
楓は感謝の言葉を口にするが、どこか不満げな表情を浮かべている。
(何かまずいことしたかな?)
尚は楓の機嫌を伺うように、そっと顔を覗き込む。
「とりあえず、そんな執事みたいに仕えていないで、一緒に食べましょ」
楓は席に着きながら、尚を手招きした。
「尚くんは休みなのに、朝早くから働きすぎよ」
お雑煮の中のお餅をつつきながら、楓はそう言う。
「今日こそは、尚くんの寝顔が見られると思ったのに」
楓のからかうような言葉に、尚は戸惑いを隠せない。
ただ先ほどからの不満そうな表情は、どうやらそのことらしいと分かって少し安心する。
「夏にホラー映画を一緒に鑑賞した後に見たでしょ?」
「そうだったね」
どうやら、朝起きたらすでに隣にいなかったのが不安だったというのが言葉の端はしから伝わってきた。
「家事は当番制にしましょう。明日は、私が朝食を作るから。まあ、トースト焼くだけになると思うけど……。明日ならまだお餅でもいいかな」
楓は真剣な眼差しで提案する。
「だから、明日の朝は、私のこと起こしてね」
「う、うん……」
『あれ? 僕をゆっくり寝かせてくれるわけじゃないんだ』と言いたげな尚は首を傾げながらも、ゆっくりと頷いた。
「尚くんより先に起きるなんて無理だから」
楓は開き直ったように言い切った。その言葉に、尚は思わず苦笑を浮かべるのだった。
朝日に照らされたダイニングで、二人の笑い声が優しく響き渡る。悲しみに暮れていた昨夜とは打って変わって、今はどこか温かな空気が流れていた。
朝食後、二人で食器を片付けると、そのままリビングのソファに並んで腰を下ろした。
特に何かをするわけではなく、ただ隣り合って座っている二人の横顔を、柔らかな朝の日差しが優しく照らしている。
通知に気づいた楓はスマホを手に取り、画面に目を走らせた。
「真由美たちが『お義兄さんたちも一緒に初詣に行かない?』って言ってるけど、それどころじゃないよね」
楓は一度天井を見たあとで、尚に視線を向けてそう同意を求めた。
「そうだね」
尚はゆっくりと頷いた。
今は待つしかできないので時間はあるのだけれど、母の容態が気がかりで、初詣に行く心の余裕はない。
「私たちを口実にしないで、真由美は直接、小野寺くんを誘えばいいのにね」
楓の言葉に、そんな考えに至らなかった尚は目を丸くしたあと、笑みを浮かべる。
「そう……。確かに最近、仲良さそうな……」
尚は、クリスマスパーティの様子を思い出す。真由美は元々気兼ねなく尚たちにも話しかけてくる人ではあったけれど、学園祭以降は特に尚と小野寺が話しているところに近づいて長い間話すようになった気がしていた。
「ふふん。なにかあったのかな」
楓は尚の表情を横目で見て楽しそうな表情になっていた。真由美と同じクラスの尚にもなにか思い当たることがあったのだと受け取ったようだった。
「小野寺くんと松木くんにはそれとなく連絡しておくよ。真由美さんたちが一緒に初詣に行きたがっていたって」
「そうね。私も真由美にそれとなく伝えておく」
義兄妹はそれぞれスマホにメッセージを打ち込み、終わると目を合わせて微笑んだ。
「それじゃあ、あとは若い人同士で。お任せしましょう」
楓は、そう言ってスマホを置くとソファーで背中を伸ばしていた。
話に聞くお見合いの仲人さんみたいな言葉に、尚はちょっと吹き出して楓はつられて笑っていた。
それ以降、二人は特に何かをするわけでもなく、かといって自分の部屋に戻ることもせず、ただソファに座ったままテレビを眺めていた。
テレビ画面には、駅伝の中継が映し出されていた。
冷たい空気の中を選手たちが、白い息を吐きながら黙々と走っている。大げさに『選手たちにはこんなドラマがあるんです』と語るアナウンサーの声が今日は煩わしくてボリュームを下げた。
時折、知っている場所が映ると言葉を交わしたりしながらも、何も語らない時間が多くを占めていた。
だが、もはやその沈黙さえも気まずいものではなかった。一緒にいることに慣れ、落ち着いた気持ちになっていることを、二人とも感じ取っていた。
ふと、尚が振動に気がついてスマホを手に取る。
「あ、お義父さんから返事があったよ。明日なら一緒にお見舞いに行けるって」
「なんで実の娘でなく、尚くんに先に連絡するのかな」
楓の言葉には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
ただ、尚と目があった瞬間に、今の発言をもう一度頭の中で冷静に振り返ってみて反省する。
「あ、今の言い方、よくなかったね」
すぐに自分の言動を反省する楓に、尚は微笑みを浮かべる。怒りも、悲しみもない、穏やかな表情だ。
「尚くんのことは大事な家族だからね。肉親以上にね。ね」
謝りながら、そんな熱い思いを伝えようとしてくる楓。
(肉親以上ってことはないよね……)
尚は冷静にそう思いながらも、いつも通りに熱く裏表のない楓の言葉に胸を打たれると同時に今の言葉は距離が近すぎて戸惑ってしまうのだった。
「尚くん、明日、一緒に行こうね」
楓は尚に寄り添うように言葉をかける。昨日よりもさらに一歩距離が近い。ほとんど触れ合いそうな近さからまっすぐ見つめる瞳が、尚には眩しすぎた。
「もちろん」
最初から、一緒に行くつもりだった尚は、静かに頷いた。
ただこれはさっきから恥ずかしそうにしている尚が、さっさと一人に行ってしまわないかと楓は疑っているのだ。
だから照れる隙も与えないくらいにぐっと一歩踏み込んで約束させた。
そのことに気がつくと『楓さんにはかなわないなあ』という複雑な笑みを浮かべていた。
「じゃあ、今日はもう出かけずに家にいるよね。晩ご飯の買い物に行ってくるよ。何か食べたいものある?」
尚が立ち上がりながら尋ねる。
「尚くんが一人でやらなくていいからね。……そうだよ、一緒にお買い物に行こう」
楓はそう提案し、二人で近所のスーパーへと向かった。
『私が晩ごはんを作るよ』と言いたいところだったのだけれど、ちょっと自信がないので一緒に買い物をして一緒に晩ごはんを作ることにしたのだった。
買い物かごを尚に持ってもらい、楓は店内を歩く。
苦手な食べ物だったりしないかを、お互いに確認しながら食べ物をかごへと入れていく。
(新婚みたい……)
そんな思いが、二人の頭に同時に浮かんでしまった。
目があった瞬間に、少し照れながらも気まずくなってしまう。
「あ、そうだ。牛乳も買わないと」
急に思い出したようにそう言うと楓はそそくさと、早歩きで距離をとっていく。
家に戻ると、二人はキッチンでエプロンを身に着け、晩ご飯の支度に取り掛かった。
結局のところ、工程の難しくない鍋料理に落ち着いた。下準備と具材を切る作業を分担し、協力して料理を進めていく。
「それじゃあ、いただきます」
テーブルの上には、具材とともに湯気を立てる鍋が鎮座している。
買ってきた食材について言葉を交わしながら、二人は同じ鍋をつつき、料理を口に運ぶ。
賑やかで楽しい雰囲気とまではいかないものの、お互いの表情には穏やかな安らぎが浮かんでいた。
「今日は私がお風呂掃除して、お湯を入れるからね」
食事が終わりに近づくと、楓が先回りして宣言した。
油断していると、尚がちょっとした隙に全部やってしまいそうだと思ったのだ。
「はい、よろしくお願いします」
尚はにっこりと微笑み、楓に任せることにした。
自分はお茶を淹れることにしよう。食べ終わった食器を片付けると、お湯を沸かし始める。
湯気が立ち上る湯飲みを手に取り、尚は一息つくのだった。
「ふう。……なんとか乗り切れたかな」
風呂上がりの尚は、寝巻き代わりのジャージパンツとトレーナーに身を包み、階段を上がって自分の部屋へと向かう。
過去のトラウマに襲われることなく、平穏な一日を過ごせたことにほっと一安心する。
きっとこれも、隣にいてくれた楓のおかげだろうと感謝するのだった。
髪がまだ少し湿っている気がしたが、今日はもう寝てしまおうとベッドに潜り込もうとした瞬間、部屋のドアがノックされた。
「え?」
驚きながらドアをそっと半分開けると、そこには昨日と同じようなパジャマ姿の楓が立っていた。
今この家には尚と楓しかいないのだから、当然のことなのだが、今日の様子からすると楓はもう落ち着いているはずだと思っていただけに、部屋を訪ねてきたのは意外だった。
「今日も、一緒に寝ていい……?」
ひょっとして明日の確認に来ただけなのかと期待した尚だったが、昨晩と同じように上目遣いで顔を傾けながら聞かれてしまう。
(駄目だ……)
尚も昨日よりは落ち着いている。そのことは自覚していた。それだけに、別のトラウマが蘇ってしまいそうで怖かった。
(りか……)
別の義妹とのことを思い出してしまいそうになるのを、軽く頭を振って振り払う。
もう大丈夫だと自分を信じることはできた。それでも、やはり楓には自分の部屋で寝てもらった方がいいと思うのだった。
ただ、昨日楓の願いを受け入れた以上、真っ向から拒否するのは難しい。
「せ、狭くて寝づらいんじゃない? 明日はお見舞いに行くんだし、自分の部屋で……」
尚は遠回しに、一人で寝る方が良いと楓を誘導しようとする。
「お邪魔します」
しかし、楓は何やら引きずるような音を立てながら、部屋に入ってきた。
「それは……何?」
「私の部屋のベッド」
何を持ってきたのかと思えば、折りたたみ式のベッドだった。
尚は楓の部屋にあまり入ったことがないが、そういえば美咲たちが来たお泊まり会の時にそのベッドを見た記憶がある。
楓はその折りたたみ式ベッドを尚のベッドの横まで運ぶと、広げ始めた。
「おやすみなさい」
尚のベッドにぴったりとくっつけて、楓はそこに横たわると持ってきた毛布をかぶせて、そのまま眠ろうとする。
「そ、それだけじゃ、寒いでしょ」
あっけにとられている間に、懐に入られてしまった尚は、ため息を吐きつつ諦めにも似た表情で楓を見下ろしていた。
掛け布団を楓にかけてあげようとしたが、全部渡してしまうと今度は尚が寒くなってしまいそうだった。
少し考えた結果、掛け布団を横にして二人で使えるようにする。
「ありがとうね、尚くん」
尚の意図に気づいて、楓は毛布から顔をのぞかせてにっこりと笑った。
何も疑っていなさそうなその笑顔を向けられると、尚の調子も狂ってしまう。
(大丈夫。色々な意味で大丈夫だ)
尚は自分に言い聞かせるように、心の中で何度もその言葉を唱えつつ自分のベッドに入った。
昨晩よりは寝るスペースがあり、楓の持ってきたベッドとはわずかに高さの差があるので、昨晩のように密着しぎりぎりというわけではない。
でも、布団を横にして二人で使うようにしてしまった結果、あまり離れることもできなくなってしまった。
(失敗したかな……)
尚は結局、今夜もお腹の上で両手をあわせて窮屈そうな体勢で横になっていた。
今晩はなかなか眠れなさそうだと悶々としていたが、楓の方は早くも可愛らしい寝息を立てている。
月明かりに照らされた楓の横顔を、尚は複雑な思いで見つめるのだった。
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