第29話 二人の不安な夜
冬の日差しが入り込む大きな病院のロビー。世間では正月の雰囲気で賑やかな中、病院の中は人の姿はまばらで静かだった。
それでも、大きな声と共に慌ただしく移動する人々の姿に、レザー調の椅子に腰掛けた尚と楓は不安げに顔を上げる。
奥のエレベーターの扉が開き、父親の内藤健太郎が現れる。普段は爽やかな笑顔を絶やさない彼の表情は、どこか憔悴しているように見えた。尚と楓は飛び上がるようにして立ち上がり、健太郎に駆け寄った。
「お父さん、お母さんの具合はどうなの?」
楓の声は震えている。隣で尚も、じっと健太郎を見つめていた。
「由香は……」
健太郎は言葉を飲み込むように一度言葉を切った。伝え方を迷いながらも、医師から聞いた通りに正確に伝えようとする。
「お母さんは……くも膜下出血だそうだ」
健太郎の言葉に、二人の瞳に動揺の色が浮かぶ。
「くもまっか……? 脳の病気ってこと?」
楓は目の前が暗くなり、ふらついてしまったのを尚がそっと腕に手をあてて支える。
「そう……」
健太郎は、嘘はつきたくないとその質問には小さくうなずいた。
「でも、手術は無事に成功して今は休んでいるよ」
不安げな楓に対して、健太郎は穏やかな表情を作ってそう続ける。
それを聞いて、尚と楓はほっと胸を撫で下ろした。
「二人が素早く救急車を呼んでくれてよかった。本当にね。」
健太郎は感謝の言葉を口にする。だが楓は首を横に振った。
「ううん、私は何もしていないから。全部、尚くんがしてくれた」
それは謙遜ではなく、楓の心からの言葉だった。自分だけだったら、すぐに判断はできなかっただろう。健太郎も、改めて尚に感謝の眼差しを向ける。
「……今日はいったん帰ろう」
健太郎は二人の肩に手を置き、そう言った。
健太郎のその言葉に、楓も尚も今日は由香には会えないのか、それとも会わない方がいいのかと疑問を持った。
ただ、健太郎の少しこわばった表情を見て、二人とも黙ったまま立ち上がる。
病院の自動ドアが開き、冷たい夜風が吹き込む。健太郎は子どもたちを車へと先導しながら、続けた。
「ただ、しばらくは集中治療室で安静にする必要があるそうだ」
車に乗り込みエンジンをかけながら言ったその言葉に、後部座席に座った尚と楓は、不安げに顔を見合わせる。
「今週、来週が山場らしい」
「山場って、どういうこと?」
手術が成功したのに、なぜという楓の問いかけに、健太郎はしばらくの間沈黙していた。
「何事もなければ、無事に退院できる。だが、手術は成功したものの、後遺症をもたらす可能性もあるし、最悪のケースも……」
「後遺症……手足が動かなくなったりとか、そういうことですよね」
尚は言葉を飲み込むように、健太郎は目を伏せる。楓は涙をこらえきれずにいた。
「大丈夫、かなり良好な状態らしいよ」
健太郎は子どもたちを、そして自分自身をも励ますように言葉を絞り出した。
車が内藤家に到着するなり、健太郎はトランクを開けたまま慌ただしく家の中へと消えていった。
取り残された玄関で立ち尽くす楓と尚だった。
「何をしているの? お父さん」
戻ってきた健太郎に尋ねる楓。
「僕はしばらく会社に泊まることにする。病院からすぐの場所だからね」
荷物をまとめながら、健太郎はそう告げた。
「確かに……あのお店なら近い……ね」
「うん。楓たちは気にせずに、いつも通りの生活を送ってほしい」
何かできることはないかと尋ねる楓と尚に、健太郎は優しく首を横に振る。気持ちは伝わったが、今は二人に通常の生活を送ってほしいのだ。
(あまり大勢で毎日通ってもお母さんの負担になるか……)
楓は、理解はしながらも何もできない自分に打ちひしがれていた。
「尚くん、しばらくの間、家と楓のことを頼んだよ」
健太郎は、真剣な面持ちでそう告げる。
「はい。分かりました。お任せくださいお義父さん」
尚も呆然としていた自分を反省し、しっかりしなくてはと自分に言い聞かせた。
その言葉に安心した健太郎は、再び車を走らせ夜の街へと消えていった。残された二人の心には、不安と祈りが入り混じっていた。
車のテールライトが闇に飲み込まれていくのを見届けると、尚と楓は静まり返った内藤家へと戻っていった。
いつもなら温かみのある家の中も、今夜はどこか冷たく感じられた。
「ただいま……」
尚が小さな声でつぶやくと、楓もそれに続いた。
「ただいま」
だが、いつものように明るい声で迎えてくれる由香の姿はない。
(そういえば、しばらくは二人きりか……)
リビングの明かりをつけながら、尚はそのことに気がついた。
それどころではない状況なのだけれど、それでもこんな綺麗な義妹と二人きりだと変な緊張をしてしまう。
一方の楓は、それどころではなく、どんよりとした表情でいつものソファに座ると俯いたままだ。
尚は、近くで励ましてあげるべきなのかもしれないとは思いながらも、今日は隣に座るのはためらわれた。
代わりに台所へと向かい、冷蔵庫の中身を確認する。由香が倒れた時のままの状態だ。
そのまま由香が用意してくれた食材に感謝しながら、尚は料理を始めた。
「楓さん、ご飯できたよ。一緒に食べよう」
しばらくして、尚は楓を優しく呼ぶ。無言で席につき、楓はぼんやりと皿の上の料理を見つめている。
「美味しい……」
一口食べると、楓の表情にわずかな明るさが戻った。由香が仕込んでいた食材と、いつも側で手伝っていた尚だからこそ再現できる母の味。その優しい味わいが、楓の心を少しだけ癒やしてくれるようだ。
「お風呂もわかしたから、好きな時に入ってね」
食事を終えた楓にそう告げると、尚は食器を片付け始める。
「ありがとう、尚くん」
いつの間にと驚きつつ、楓は素直に感謝の言葉を口にした。尚の気遣いが何よりも心強く感じられるのだった。
その後は、少し沈黙の時間が多い気がしたけれど、普段通りの会話を二人はできていた。
いつもと変わらない雰囲気のまま、二人はそれぞれの部屋に戻り、就寝した。
しかし、数時間後、真夜中になってから尚は苦悶の表情を浮かべて目を覚ましてしまう。
暗闇の中、尚の鼓動だけが妙に大きく響いているような気がした。
「怖い夢を……」
尚はひどく寝汗をかいていた。
最近はあまり悪夢を見なかったので、心臓の鼓動が今日は特に激しく感じられる。
水でも飲もうと起き上がった時、控えめなノック音が聞こえた。
「え……?」
不思議に思いながらも、尚はふらつく足取りでドアを開ける。
今この家にいるのは二人だけなのだから、ドアの向こうに立っているのが楓だとわかっていた。
そこには、淡いピンクのパジャマに身を包んだ楓の姿があった。
月明かりに照らされた彼女の佇まいは、いつになく儚げで、尚の胸を締め付ける。
「一緒に寝ていい……?」
上目遣いで尚を見る楓の瞳には、不安と寂しさが揺れている。か細い声が、尚の心に直接届くようだ。
「え?」
『良いわけがない』と言おうとしたが、不安げな楓の瞳を見てその言葉を飲み込んだ。
夏にホラー映画を見た時とは違う。今は側にいてあげなくては、何か危なげな気がした。
「じゃあ、またリビングで一緒に……」
そう言いかけてやめる。
今は、二人ともちゃんと休むことが大切だ。これから由香が帰ってくるまで、まだ数週間このような生活が続くのだろう。
「分かった。いいよ」
とりあえず今晩だけは仕方がない。
そう思いながら、尚はベッドを空ける。
(こんな状況で変な雰囲気にはならないはず。うん、きっと大丈夫)
尚は自分の感情を確かめる。
無理に自分に言い聞かせているわけではない。何も起こらないと確信していたが、パジャマ姿のこの妖精のような少女が目の前でベッドに潜り込む姿を見ると、さすがに心がざわついた。
寝汗をかいた自分の匂いが気になりつつ、尚もゆっくりとベッドに潜り込む。
(近い……)
普通の一人用のベッドなので、どうしても距離は近くなってしまう。床で寝るべきだったかと、横になってから後悔する。
楓は尚に背中を向けて丸まっていた。
一瞬、楓の背中に手が触れてしまい、尚の方がビクッとする。
楓は体をひねって尚に一瞬だけ視線を向けると、尚が寝巻き代わりにしているジャージの袖を指先でぎゅっと摘んだ。
尚は少しどきっとしたが、楓はそれ以上何もせず、何も言わずにただ仰向けになり眠ろうとしていた。
(まあ、こんなことで落ち着いてくれるなら……)
尚にはこの行動の意味がよくわからなかったが、楓が安心して眠れるならそれでいいと思っていた。
(でも、僕はこんな状態で眠れるわけがない)
そう思っていたのだけれど、特に何もせず自分を信頼して可愛らしい寝息を立てる義妹の隣にいると、なんとなく安心した気持ちになってくる。
(悪くないかもしれない)
夜中も誰かがずっと側にいてくれるのは、前の家で弟の大輝と隣で寝ていて以来のことだ。
同い年の美しい義妹との添い寝とは全然違うが、今日に限れば嫌な記憶を思い出さずにすむ。
もう怖い夢のことなど忘れてしまっている自分に気がついて、わずかに笑みがこぼれた。やがて、静かに眠りに落ちていった。
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