第24.5話 声の魔法に誘われて(後編)
約束の休日の朝、楓は朗読劇を観に行くために、いつになく早起きをした。
「あら、休みなのに今日は楓も朝早いのね」
リビングに降りていくと、母親の由香が朝食の準備をしながら、楓の顔を見て驚いたように言った。
「うん、今日はこのあと出かけるの」
そんなに驚かなくてもいいじゃないと思いつつも、休日の楓が起きてくるのは、いつも昼が近くなってからだったことを考えれば、母親の反応も無理はないと諦めて、楓は椅子に腰を下ろした。
「おはよう」
隣の席には、すでにお出かけ用の私服に身を包み、朝食の卵焼きもトーストも平らげたらしい尚の姿があった。
「おはよう」
パジャマ姿の楓は、少し恥ずかしさを感じながら挨拶を返す。
「今日は一緒に出る?」
尚が、少し遠慮がちに尋ねてきた。
「うーん。そうだね。一緒に出ようか」
楓は少し考えてから、そう答えた。
一緒に家を出るのは、どこか照れくさい気がするのだが、むしろいつもそれを避けている義兄の方から提案してくれるのは、嬉しいことだった。
それに、わざわざ時間をずらして家を出て、最寄りの駅などで待ち合わせをする光景を想像すると、それはそれで恥ずかしいうえに面倒なことのように思えた。
「だから、ちょっと待っていてくれる?」
楓はトーストにかじりつきながら、そうお願いした。
いまだパジャマ姿のままで朝食を取り始めた自分に申し訳なさを感じつつも、特に慌てる様子はなかった。
「うん。全然、大丈夫。待ってるよ」
牛乳もほとんど飲み干し、すでに出かける準備は万端の尚は、そんな楓を微笑ましく見つめながら、優しく答えた。
十数分後、念入りに選んだ私服に身を包んだ楓がリビングに降りてくると、いつものソファーで文庫本を読む尚の姿が目に入った。すでに準備万端だったにもかかわらず、尚は不満げな様子も見せない。これくらいの妹や弟の我が儘には慣れているのだろう、気にした様子はなかった。
(いや、これは尚くんだからこそなのよね……)
真由美や他の友人たちから聞いた実兄の話を思い出すと、みんながみんなこんなに穏やかというわけではないらしい。
「おまたせ」
楓がそう告げると、尚はそっと文庫本を閉じて立ち上がった。
「あら、楓。今日は尚くんと一緒にお出かけなの?」
尚と楓が会話を交わすよりも早く、台所にいたはずの由香が尋ねてきた。
「え、あ、うん。今日は共通の友人と会うから」
楓は、二人きりで出かけるわけではないとほのめかしながら答える。
「あら、そう……。その友人って女の子なの?」
「う、うん。そうだけど?」
楓は、由香の問いかけの意図が掴めないまま答えた。
由香は一瞬だけ尚の方を向いて尚の私服をチェックすると、今度は気合いの入った私服姿の娘を上から下までじっくりと観察した。
「ふーん。可愛い格好ね。ね、尚くんもそう思うわよね」
「あっ、はい。とても可愛いと思います」
不意に話を振られた尚は、多少言わされた感はあったものの、素直な感想を口にした。
いきなり何を聞かれているのかと戸惑う楓は、顔を赤らめてしまう。
「も、もう。さっさと行こうよ」
こんなにも余裕のない反応をする自分がいるとは思わなかった楓は、照れ隠しに義兄の背中を押して、慌ただしく玄関へと向かわせる。
「いってらっしゃーい。あ、晩ごはんはいる?」
「少し遅くなるかもしれませんが、家で食べますから晩ごはんお願いします」
「はーい。分かったわ。尚くん、楓のことをよろしくね」
百点満点の息子の回答に、由香は嬉しそうに二人を見送った。
朝の日差しの中、尚と楓は肩を並べて歩き出す。ほんのり赤い楓の頬と、それを気づかないふりをする尚の優しげな横顔が、由香の瞳に映った。微笑みを浮かべながら、由香は二人の背中を見つめていた。
二人は、いつもの電車に揺られ、春日伶が指定した駅へと向かった。改札を抜けた先に、すでに伶の姿が見えた。私服に身を包んだ伶は、制服姿とは一味違う大人びた雰囲気と洗練された美しさを纏っていて、周囲の人々も思わず振り返るほどだった。
「おはようございます。お二人とも、とてもお洒落ですね」
伶が穏やかに微笑みながら挨拶をすると、尚と楓は思わず見とれてしまう。
「あ、ありがとうございます。伶さんこそ、本当に素敵です」
尚が頬を赤らめながら言葉を返すと、伶の表情がより一層明るくなった。傍らで見ていた楓は、こんな反応を見せる義兄を珍しく感じつつも、伶の大人びた佇まいに自分も釘付けになってしまったことを認めざるを得なかった。
「さあ、参りましょうか」
伶の促しに、尚と楓もうなずく。三人は駅を出ると、朗読劇の会場へと足を進めた。
「今日の舞台には、私の知り合いの方も出演していらっしゃるんです」
初心者の二人に朗読劇の魅力を伝えるのが目的のはずなのに、伶自身も心から楽しみにしている様子だった。伶にはそういった人脈もあるのだろうと、兄妹は感心しながらも、伶の嬉しそうな説明に耳を傾け、いつしか緊張もほぐれていった。
優しい日差しに包まれた街並みを、弾むような足取りで進む三人。会場に到着すると、心を落ち着けるように深呼吸をした。
「ここが会場……ですか」
思っていたよりも大きな会場に、楓は驚きを隠せない。小さなライブハウスのようなところを想像していたのに、コンサートにも使えそうな広さに、しばし見上げてしまう。
「正直、会場の規模はピンからキリまでです。でも、確かにもう少しこぢんまりとしたところで行われることの方が多いかもしれませんね」
楓の言葉だけで、尚の心中を察したかのように、伶は優しく説明してくれた。
「今日は人気の男性声優さんや舞台俳優さんが出演されるので、特に女性のお客様が多いです。でも、普段から女性の方が多い傾向にありますね」
ただキョロキョロと周囲を見渡していただけの尚に対しても、伶はまるですべてお見通しであるかのように語りかける。
「なるほど、そういうことなんですね」
説明を受けても、女性ばかりの中で尚はまだ落ち着かない様子だった。場違いな気分を抱えたまま、会場の中へと入っていく。
「今日の朗読劇。いかがでしたか?」
朗読劇が終わり、三人は会場のすぐ近くのカフェに入ると、少し遅めの昼食と飲み物を注文した。
「本当に素晴らしかったです」
兄妹は並んで、同じように瞳を輝かせながら答える。
「良かったです。お二人なら気に入ってくださると思っていました」
満足げに微笑む伶。自信はあったものの、演劇が苦手な人もいる。尚もそうかもしれないという不安もあったので、ほっと胸をなで下ろしていた。
「……でも、正直、僕にはあんな風には無理だと……思いました」
今日の朗読劇を思い返しながら、尚はぽつりと呟く。
「今日の舞台は、演者さんたちが目立つタイプでしたが、大丈夫ですよ。ナレーションの方のように、後ろで読んでいただくだけでいいんです」
舞台の前面で活躍していた人気の男性たちは、作品に合わせた衣装を身にまとい、本を片手に持ちながらも時折大げさな身振りを交えて、キャラクターになりきった美しい声を響かせていた。
どうしても舞台俳優らしい人の印象が強く残っていた。ただ、そう言われれば、ややご年配の方が座って静かに読み上げていたことも思い出す。時折モブの声の演技もしていたが、大部分は舞台説明のナレーションだった。
「確かに、あんな感じなら、できるかも……いえ……」
しばらく悩んでいたが、それは今日の演者の方々にも、伶にも失礼だと思ったのか、尚は顔を上げ、しっかりとした口調で告げた。
「やってみたいです」
その言葉に、伶の笑顔が一層輝きを増す。
楓も横から、義兄の顔をじっと見つめ、感嘆の眼差しを向けていた。言葉自体はそれほど強いものではないが、軽く握った右手の拳には、かつてない前向きな意志を感じる。長い付き合いではないが、それでも義兄の変化が嬉しく思えてならない。
「楓さんは、いかがですか?」
「えっ、私は……素敵だと思ったけど……でも、あくまで観る側としてかな……」
素直な感想を口にする楓に、伶は少し残念そうな表情を見せるが、嫌な顔はしない。
しかし楓も、言葉を最後まではっきりとは言い切れずにいた。
(伶さんが悪い人ではないのは分かった。単なる朗読では物足りなくなって、朗読劇がしたくなったんだろう。尚くんと私に声をかけてくれたのも、本当に朗読劇が好きだからなのは伝わってきた。でも、私にはまだ遠い世界のような……。でもでも、学園祭の劇は楽しかった。あの楽しさをもう一度味わってみたいとも思う。いや、今回は私はおまけみたいなもの。主役は伶さんと、尚くんなのだろう。うーん、放課後とかずっと二人きりにしていいの? 悪い人じゃないって分かってはいるけど。きっと尚くんにはプラスになる……。でも、本当に二人きりにしていいの? 二人きりにしていいのかな?)
悩んでいるのだろうと、尚と伶は優しい目で楓の次の言葉を待っていた。しかし楓は、何度も表情を変えながら一人でぶつぶつと呟き、しばらく考え込んでいる。
「私も……やります! でも、あくまで尚くんのお手伝いとしてだけど……」
楓のその言葉の、前半部分だけで伶の表情がぱっと明るくなり、嬉しそうに微笑んだ。後半の言い訳じみた説明も耳に入ってはいるが、もうそれは分かっているとでも言いたげに、軽く流しているようだった。
「ありがとうございます! ええ、別に一年間ずっとがっつり練習するわけではありませんから、無理のない範囲で参加していただければ、それで十分です」
思っていた以上に、伶は楓のことも歓迎してくれた。
尚と一緒にいたいからお邪魔虫な扱いをされるのではと思ってもいた。自分ならそのようにしそうと思っていたので、楓は不思議な気持ちになってしまう。
「ただ、文芸部には入部していただきたいんです。部室があると便利ですし、学園祭に申し込むときも楽ですから」
春日伶の言葉に、楓と尚はただお任せしますという感じでうなずいていた。伶の嬉しそうな表情を見て、兄妹は何だかいいことをした気分になる。
カフェを後にすると、夕暮れ時の柔らかな光が辺りを包んでいた。赤みを帯びた優しい日差しが、三人の歩みに寄り添うように差し込んでいる。
「それでは、月曜日には文芸部にいらしてくださいね。尚くん、学校でもよろしくお願いします」
駅の改札が近づくと、伶は尚と楓に手を振りながら、別れの挨拶をした。落ち着いた和服が似合いそうな文学少女のような佇まいとは裏腹に、今日の伶は浮かれたようにはしゃぎ、特に尚に向けては満面の笑みを浮かべ、飛び跳ねそうな勢いで手を振っている。
尚は晴れやかな笑顔でその手振りに応え、楓も、笑顔を作りながら手を振り返した。
「なんだか面白い人よね」
「そうだね。一緒にいてもなんか落ち着くんだよね。でも、時々面白いことを言う人なんだよね」
春日伶の後ろ姿が視界から消えるまで見守りながら、尚と楓は伶についての感想を言い合っていた。
楓にとって、伶は当初、捉えどころのない存在だったけれど、今日の楽しげな様子はかなり印象を変えてくれた。
(朗読劇が楽しかっただけでなく、尚くんと出かけるのも楽しそうだったのが気になるけれど……)
声が好きと言っていたけれど、そうだとしても義兄に対して好感度が高すぎる気がしていた。
「それじゃ、僕たちも帰りますか」
ちらりと横を見ると、尚は優しげな目を楓の方に向けながらそう声をかけてきたので目があってしまった。
(うん、まあ、……でも、近くにいると魅力は分かる……のかな)
目を伏せながら、楓はうなずいて改札へと向かう。
二人の胸中には、これから始まる何かが、今まで感じていた心の隙間を埋めてくれるのではないかという期待が膨らんでいく。そんな予感に胸を躍らせながら、尚と楓は並んで仲良く話しながら家路についた。
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