第24話 声の魔法に誘われて(前編)

 放課後の穏やかな陽光が、廊下に長い影を落としている。尚と楓は、その光の中を肩を並べて歩いていた。窓の外からは、部活動に励む生徒たちの活気ある声が、遠くから響いてくる。しかし、二人が向かう校舎の端にある部屋は、その喧騒とは対照的に、静寂と薄暗さに包まれていた。


「楓さん、興味がないなら、無理に来る必要はないと思うんだけど」

 

 尚は、楓の表情を探るように、そっと言葉をかける。

 

「そうね。でも、私も一応誘われたみたいだし、せめて話くらいは聞いてあげようかなって」

 

 昨日の春日伶の言葉には、尚への『ついでに』誘ったという雰囲気が漂っていた。

 それでも、伶は確かに楓のことも誘っていた。

 楓の心は、その話を聞いてみたいという思いに揺れ動いていた。昨日は学園祭の余韻に浮かれていたからかもしれないが、今日も何かに駆り立てられるような感覚があった。

 ただ、それ以上に、尚のことが気がかりでならなかった。

 

「尚くんが、変な宗教とか陰謀論の集まりに引き込まれたりしないか、心配だからね」

「大丈夫だよ。春日さんは、そんな人じゃないと思う」

「あら、随分と春日伶さんのことを信用しているのね。ずいぶんと親しくなったんですね、お兄さま」

 

 楓は、名門華族のお嬢さまのような口調でからかおうとしたのだが、自分の言葉が本当に嫌味っぽく聞こえてしまい、複雑な心境に陥った。

 普段、人に対して壁を作りがちな尚が、特に女性に対してここまではっきりと擁護するのは珍しいと感じていた。

 

「うーん、春日さんはちょっと変わった人だけど、でも、悪い人じゃないと思うよ」


 尚は首を傾げながら答える。その素直な表情に、楓はほっとしたような、少し物足りないような複雑な気持ちになる。


 春日伶に案内された校舎の端にある部屋の表札には、『文芸部』の文字がかすかに読み取れた。

 

「春日さん、文芸部……なのかな?」

 似合っているとは思いながらも、一度もそんな話を聞いたことがないので兄妹は顔を見合わせる。

「とりあえず、中に入ってみましょう。……失礼します」

 

 文芸部の部室のドアを開けると、そこには既に春日伶の姿があった。長い黒髪を優雅に背中に流し、他の生徒と同じ制服のブレザーを身にまとっているにも関わらず、伶の佇まいは、まるで特別な絵画から抜け出てきたかのような美しさを放っている。

 

「春日さん、お待たせしました」

 

 尚の声に、伶は穏やかな微笑みで二人を迎える。

 

「いえ、お二人こそ、わざわざお越しいただきありがとうございます」

 

 伶の声は、澄み切った鈴の音のように、部室に響き渡る。

 

「で、どんなお話なのでしょうか?」

 

 楓が、少し強めの口調で尋ねた。

 

「ええ、そうでしたね。実は……来年の学園祭で、お二人と一緒に何か出し物ができればと思っているんです」

 

 伶は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「ちなみに、文芸部はもう私が乗っ取っちゃいました」

 

 急に楽しげに言ったその言葉に、尚と楓は驚きの表情を隠せない。

 

「乗っ取ったって……」

 

 尚が戸惑いの声を漏らす。

 

「文芸部は乗っ取られてしまうのが、お約束なのです」


 怜はそう言ったあとで、楽しそうに笑みを浮かべていた。

 

「冗談ですよ。3年生の女子の先輩が一人いたんですが、もう引退されて、この部屋には誰も来なくなったんです」

 

 だから、どうぞリラックスして座ってくださいと、伶は笑顔で促した。

 しかし、その笑みには何か企みめいたものが感じられ、楓はゆっくり腰を下ろすことを躊躇っていた。

 

(いえ、春日さんに悪気はないってことは分かっているのに……。ただ、この部屋で尚くんと二人きりにさせたくない)

 

 楓は、自分の心の狭さに自嘲気味に微笑む。

 ただ、尚が騙されないか心配なのは本心だった。


「あ、誘っていただけて嬉しいんですけど、僕は劇とか無理だと思うので……」

 

 楓が様々な思いに揺れている間に、尚はすでに及び腰になり、自分には向いていないだろうと早々に勧誘を断ろうとしていた。

 

「劇は劇なのですが、私がやろうとしているのは朗読劇なんです」

 

 伶は、そんな尚の言葉を遮るように、早口で自分の意図を伝えた。

 

「朗読……劇?」

 

 尚と楓は、目を合わせてお互いに首を傾げる。

 二人とも、その言葉から何をするのかは大まかに理解できた。

 しかし、実際にどのようなものなのか知っているのかと、互いの顔を見合わせたが、二人ともあまり詳しくないことだけが分かった。

 

「朗読をするんですか?」

「そういえば、春日さんって、そんな動画を配信していたような」

 

 兄妹は、春日伶にそれぞれに質問を投げかけた。

 興味を引くことに成功したかのように、伶は余裕の笑みを浮かべて二人の質問にうなずく。

 

「そうです、朗読なんです。本を読むだけですから、尚くんなら例えば……後ろで顔を隠したままでもいいんですよ」

 

 わざわざ人を誘ってまでやろうとしているのだから、単に『本を読むだけ』ということはないだろうと、尚も楓も身構えていた。

 

 (でも、だからこそ良いのかもしれない……)

 

 無理強いはしないからと気軽に誘いつつ、本人はどこか本気で取り組んでいる雰囲気を感じさせる。

 尚も楓も、そんな春日伶を手助けしたいという気持ちから、少しずつ前向きになっていった。


「でも、何で僕……なんですか?」


 尚は少しやる気になりつつも、やはり自分に向いているとは思えないと及び腰だった。

 

「ずっと思っていたんです。素敵な声だなって」

 

 伶は、にこやかな笑みとともに簡潔に答える。

 もう、そんな質問をされること自体、尚が手伝ってくれると確信したかのような表情だった。


「え? 声……?」

 

 尚は自分でそう思ったことがなく、予想外の返答に戸惑いを隠せない。


「あー。分かる気がする。いい声だなって時々思うことあるわ」


 義妹の方が強く反応し、頷いていた。


「え?」


 尚は美少女二人に、前と横からじっと見られてしまい困惑して、また同じような困惑したような声を漏らす。


「まあ、自分では自分の声って違って聞こえるらしいからね」

「普通に生活している分には、気がつきませんものね」


 いつのまに楓と伶が結託したかのように楽しげに話しているのを聞いて、尚はなんとなく声を発しづらくなり、黙って二人の様子を窺っていた。


「今まで、友だちとかに言われたことないの?」

 

 楓の方が楽しげにすぐ隣でじっと尚のことを見ながら尋ねた。

 注目されすぎていて、声を出したくないと思うのだけれど、こうも真正面で聞かれると尚も答えざるを得なかった。

 

「声の話とかあまりしないし、あと学校ではあまり話さないから……」

 

 予想以上に寂しい返事が返ってきて、楓は少し困ったような表情を浮かべる。


「でも、仲よさげな友だちはいるじゃない。小野寺くんとか、松……木くんだっけ?」

 

「まあ、いつも基本的に松木くんが大きな声で話していることが多いですからね」


 ちょっと引きつった笑顔でフォローしようとする楓の横から、伶はにこやかな笑みで解説する。

 『同じクラスの自分の方が、尚くんのことをよく見ていますから』とでも言いたげに聞こえて、楓はちょっとむっとした表情になってしまっていた。


 尚の心は、春日伶の言葉に揺さぶられ、少しずつ変化していった。まだ躊躇いは残るものの、その瞳には、新しい挑戦を受け入れようとする光が宿り始めている。

 

「分かりました。後ろの方で手伝うくらいなら……」

 

 尚の言葉に、伶の表情が喜びに輝いた。

 一方、楓は尚の隣で、出会ったころには想像もできなかった彼の前向きな姿勢を嬉しく思いながらも、自分はどうするかを悩んでいた。

 

「尚くんがいれば、それでいいのよね。私はいなくたって」

 

 楓は、伶に向かって寂しげな言葉を投げかける。

 

「いえ、楓さんもとても良い声だと思いました。それに、華があるんです。学園祭の劇では、よく通る声と雰囲気のある仕草で、本当に素敵でした。できれば、一緒に活動していただけたら嬉しいです」

 

 伶は、真摯な眼差しで楓を見つめ、説得を試みる。

 確かに、尚のついでに誘われているのは事実だ。けれど、伶は自分のこともちゃんと見てくれている。そう感じた楓は、伶の言葉に心を動かされた。

 そして、楓は自分でも認めたくなかったが、伶と尚がこの部屋にいて、二人きりで活動する姿を想像すると、嫌な気持ちが込み上げてくるのを抑えられなかった。

 

「うん、まあ、じゃあ、私も手伝うくらいなら……」

 

 少し迷いつつもそう答える楓だった。

 今は夢中になれる何かがない。

 探すためにも少しやってみてもいいのではと気持ちが傾いていた。

 

「学園祭まではまだ一年ありますから、ゆっくり考えていただいて大丈夫ですよ」

 

 伶は穏やかな笑顔を浮かべながら言う。

 

「とりあえず今度、一緒に朗読劇を観に行きませんか?」

 

 伶は主に尚に向かって誘いの言葉を贈る。

 

「え。う、うん」

 

 尚は少し考えてから、ゆっくりと頷いた。

 楓は、横目で受けてしまった尚のことを見ながら何も言わずに自分も小さく頷いていた。尚を一人で行かせるのが少し心配だという思いから、数週間後の休日、3人は朗読劇を一緒に観に行く約束をするのだった。

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