第25話 新しい日常
秋の深まりとともに、冷たい風が吹き始めていたが、尚と楓の心には、ほんのりとした温かみが宿っていた。放課後、二人が文芸部の部室に足を運ぶのは、いつしか心地よい習慣になっていた。
今日も、尚は放課後に教室を出たところで、少し先を歩く楓の姿を見つけた。楓はゆっくりと階段に向かって歩みを進めている。尚は足早に楓に近づき、そっと声をかけた。
「楓さん」
振り返った楓は、尚に気づくと柔らかな微笑みを浮かべた。
「あら、尚くん」
「文芸部の部室に向かうところ?」
「そうよ。尚くんも?」
尚は少し照れくさげに頷いた。
「うん」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
楓の提案に、尚の表情が嬉しさに輝く。
「ありがとう」
二人は並んで歩み始めた。静寂に包まれた廊下に、彼らの足音だけが心地よく響いていた。
たまたま廊下で出会い、部室に共に向かうこと。それだけの何気ない日常が、二人にとっては思いがけず心を温める大切な時間になっていた。ただ、これは単なる偶然ではなく。尚の教室の前をわざと遅めに通る楓の、さりげない努力があってこそのことだった。
今日も、兄妹は並んで部室のドアを開けると、春日伶が温かな笑顔で彼らを出迎えてくれる。
「お二人とも、こんにちは」
伶の澄み切った声が、静寂に包まれた部室に心地よく響き渡る。
「春日さん、こんにちは」
尚が元気よく挨拶をすると、楓もにこやかに頷いた。
「今日は何を読むの?」
前向きな楓の質問に、伶は嬉しそうな笑みを浮かべる。
「昨日に引き続き、こちらの本を読んでいきましょう」
そう言って、伶は尚と楓に同じ本を手渡した。伶自身も同じ本を手にしているのを見て、尚は三冊も同じ本を用意したのだろうかと、余計な負担をかけているのではないかと一瞬心配になる。
「はい。では、尚くん。まずは軽く発声練習から始めましょう」
先生のような伶の言葉に、尚は背筋を伸ばして発声練習を始めた。
「はい。では、順番に昨日の続きを読んでいきましょうか」
伶の指導のもと、尚と楓は交互に本を朗読していく。
しばらくすると、伶が尚の読む声に耳を傾け、満足げに微笑んだ。
「尚くん。だいぶ、声が出るようになってきましたね」
伶の褒め言葉に、尚は少し照れくさそうに頷く。一方、楓は軽く肩をすくめて言った。
「やっと人並みという感じだけれど」
その言葉に、尚は驚いたように楓を見る。
「そんな、今まで声が出てなかった?」
尚の問いかけに、伶と楓は意見を一致させるように頷いた。
「ええ」
「だいぶ、ぼそぼそしゃべってました」
美少女二人は尚に顔を近づけ、まるで詰め寄るようにそう指摘した。
二人にからかわれている気分になり、尚は居心地の悪さを感じずにはいられない。
「でも、いい発声になってきたと思います」
そう言って、伶は尚を優しく見つめた。楓も同意するように微笑む。
「うん、素敵だと思うよ」
美少女二人に至近距離で褒められ、尚はこれはこれで居心地が悪いと思うのだった。しかし、二人の言葉に嬉しさを感じている自分もいた。
「来年の学園祭もこの本を読むの?」
今日の練習は終わって、兄妹は本を伶に返したところで、ふと、尚は疑問に思ってそう尋ねた。
「うーん。実は、まだ何を演じるのかは決めていないんです。できればオリジナルを書いてやりたいなと思っているんですよ」
その言葉に、尚と楓は驚きの表情を交わす。
「え、オリジナル? 春日さんが書くんですか?」
尚が目を丸くして聞き返すと、伶は優雅に微笑んだ。
「ええ、挑戦してみたいと思っているんです。一応、文芸部ですからね。ここ」
部室を見回しながら伶はそう答えた。
棟の端にある静かな部屋なので便利に使っていたけれど、文芸部を伶が引き継いで尚も部員という体でここにいるのだと思い出した。
「なにか手伝う……?」
「ふふ、ありがとうございます。でも、一緒に練習に付き合ってくれるだけで嬉しいですから」
春日伶は、尚に対して優しい目を向けながら、本当に幸せそうな笑みを浮かべていた。
休日の内藤家。今日は麻衣が訪れ、尚と楓に勉強を教わる日だった。
すっかりこの家に来ることに馴染んだ麻衣は、玄関での挨拶もそこそこに、尚の元へと駆け寄った。
「お兄ちゃん、楓お姉ちゃん! 私ね。お兄ちゃんの高校を受験できることになったの!」
リビングで語らいながら麻衣を待っていた尚と楓に、麻衣は嬉しそうにその報告をする。
「おー。よかったね」
尚と楓の声がハモるように響き、二人の喜びが伝わってくる。春頃には、受験しても合格する可能性が低いと言われるかもしれないと不安だった麻衣にとって、内申点の向上は何よりの朗報だった。
その知らせに、尚と楓は思わず顔を見合わせ、微笑を交わす。
「それは良かったね、麻衣。よく頑張ったね」
尚の優しい労いの言葉に、麻衣の瞳が潤む。
「でも、当日の結果次第だから、まだ本当に五分五分なんだって」
謙遜する麻衣に、楓が力強く告げる。
「大丈夫よ。麻衣ちゃんなら、絶対合格できるわ。今まで頑張ってきたんだもの」
楓の言葉に感激する麻衣だったが、すぐに楓は現実的で厳しいモードに切り替わる。
「じゃあ、最後の一踏ん張りね」
「うん、じゃあ、はい。早く参考書出して」
尚も厳しく命令する。
あっという間にリビングに参考書が広げられ、麻衣は勉強モードに突入させられてしまう。
(こういうところは、本当の兄と姉みたい……)
麻衣は、尚と楓が自分に厳しく接する様子を見て、二人が本当の兄妹のようだと感じずにはいられなかった。
それと同時に尚が、前よりも楓と仲良くなっていると感じていた。まるで本当の兄妹のようだ。尚のことを心配していた麻衣からすれば喜ばしいことだったけれど、どこか自分たち以外にはあまり打ち解けてもらいたくなかったと複雑な気にもなってしまうのだった。
尚と楓に数時間みっちりと勉強を教わっていた麻衣の元に、由香が金色の髪を優雅に揺らしながら現れた。
トレイには紅茶とケーキが乗せられており、まるでドラマのワンシーンを思わせる光景に、麻衣は思わず見とれてしまう。
「頑張っているわね。麻衣ちゃんも、そろそろ休憩にしない?」
由香の優しい提案に、厳しく指導していた尚も表情を和らげた。
「お義母さん、ありがとうございます。そうだね。ちょっと休憩しようか」
「な、なんて立派なケーキ。も、もしかしてこれはお店の……?」
麻衣は目の前に並べられたケーキに目を奪われ、感激の声を上げる。
よくある苺のショートケーキではあるもの、今や有名になりつつある内藤健太郎のお店のケーキはどこかスーパーで売っているケーキとは違う高級さを漂わせていた。
普段は誕生日やクリスマスにしか口にすることのないケーキだと察した麻衣は、興奮を隠しきれない様子だった。
「ええ、尚くんが朝、作ったケーキなんですって」
「え?」
由香の言葉に、楓は驚いていた。
でも、尚は慌てて訂正を入れる。
「お義母さん。違います。ちょっとお手伝いに行っただけです」
誤解を招きそうな表現に、尚は照れながらも真相を伝えようとする。
「え、いつの間に?」
楓は驚きを隠せない。尚がケーキ作りを手伝っていたことを知らなかったのだ。起床時にはもう尚はリビングにいたことを思い出し、タイミングを逆算する。
「あ、本当に作るときのちょっとした手伝いだから、5時頃に行って、9時には終わったから」
尚はさらりと説明するが、楓にとって朝5時から活動しているということが信じがたかった。
「頼まれたからって、あまり無茶はしないでね。お店の手伝いは私がするから」
「本当にお父さんの役に立とうとか、あとを継ごうとか考えなくていいんだからね」
由香と楓は尚に優しく言葉をかける。
「うん。でも、僕にとっても勉強になって、気楽に入れるバイトだから、助かっているんだ」
尚は由香の心配を和らげるように答える。
「そう。まあ、ちゃんと報酬をもらっているんならいいけれど……」
楓は尚の言葉を疑っていた。ただ、父の健太郎がこの義理の息子に表面上は厳しく指導とかいいながらも、実際には甘々な態度をしている姿も想像できてしまったので、心配はいらなさそうだとそれ以上は何も言わなかった。
ケーキを食べ終えた頃、麻衣は意を決したようにしっかりと尚に向き直った。
「と、ところでお兄ちゃん、クリスマスは何か予定があるの?」
尚は少し戸惑いながら答える。
「特に予定はないけど……。お店の手伝いとか……」
そこへ、リビングにいた由香が割って入った。
「お店は大丈夫だから、尚くんも楓も好きなことをしなさい」
「あら、いいのね」
楓もお店を手伝うものだと思っていただけに、少し意外そうに母親を見た。
「昔と違って、もう、そんな子どもが一人二人いてもそんなに変わらないから……いえ、尚くんにはいてほしいときもあるみたいだけれど……」
由香は安心して欲しいと子どもたちを諭したけれど、後半は少し不安になったのか何やらぼそぼそとしゃべっていた。
「そう! 麻衣ちゃんも一緒に、家でパーティーをしたらどう?」
由香の提案に、麻衣の瞳が喜びに輝く。
予定を立てておかないと、お店の手伝いにいってしまいそうな尚のことを考えて、そう提案したのだった。
楓も、母親の気遣いに密かに感謝していた。小さい頃はお店の手伝いばかりで、クリスマスでパーティをした思い出がなかったのだ。
「そ、そうね。そうしようかな。ま、まあちょっと考えておく」
楓は、心の中では小躍りして喜んでいたけれど、表面上はあくまでも冷静に応じていた。
しかし、目を輝かせて楓を見つめる麻衣の様子から、パーティー開催はもう決まったも同然だった。
(尚くんと一緒が嬉しいんだろうな)
楓は微笑ましく麻衣を見守りながら、そう思った。
こうして、麻衣、楓、尚の参加が確定した。
(他に誰を呼ぼうかな……)
母親には、楽しそうに笑みを浮かべているのがばればれな気はした。
それでも、パーティーの計画を立てる時間は、楓にとって楽しいひとときだった。
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