第21話 後夜祭に誘う
深夜の静けさに包まれた楓の部屋。
柔らかな月明かりが、カーテン越しに差し込んでいる。隣の部屋にいる尚とは壁一枚隔てただけのベッドで横たわる楓は穏やかに寝息を立てていた。
そんな中、楓はまた不思議な夢の中へと導かれていた。
真っ暗な世界。祭りが終わって何もかも明かりが消えた神社の境内のようだった。
目の前に現れたのは、狐のお面をかぶった女の子。以前の夢でも出会った、あの不思議な女の子だ。
「尚くんは、もう大丈夫」
女の子は、楓に向かってそう告げる。彼女の声は、どこか懐かしさを感じさせた。
「よくやったわ」
仮面の端から微笑みが零れ落ちるのを感じながら、少女は困難なミッションを成し遂げた部下を労うかのように告げる。
「なんの話なの?」
「尚くんは、まだ闇に堕ちる可能性があったから……あなたが光に連れ出してくれて、本当によかったわ」
「闇に堕ちるって、そんな大げさな表現……」
戸惑いを隠せない楓は、思わず苦笑を浮かべる。自分は、ただ学園祭で尚に表舞台に立つよう背中を押しただけだと思っていた。むしろ、余計なことをしてしまったのではないかと昨日のことを後悔していたくらいだ。
「あなたは見たことがあるでしょう?」
女の子は、じっと楓を見つめながら問いかける。
「えっ、何を……、あ……」
以前見た夢が脳裏によみがえる。凄惨な事件現場のような光景だった。最近ではあの一度きりだったが、昔は何度も似たような夢にうなされた記憶が蘇ってくる。
「尚くんは、まだ深い傷を負っていて、心の奥底には憎しみが渦巻いていたの」
女の子は仮面越しにだったけれど、悲しげな面持ちをしているのが伝わってくる。
「あれは、まだ起こり得た事件だったから。あなたを愛の奴隷にして、協力を得ていたかもしれない」
「愛の奴隷だなんて……。いや、そんなことあり得ないから」
楓は呆れたように笑う。
ただ、数ヶ月前なら、絶対にあり得ないと断言できた。でも今は、尚が孤独で困っていればいるほど、どんなことでも手助けしたいと思う自分がいる。ほんの少しだけ、女の子の言葉に納得できる部分があるのが怖かった。
「あなたのおかげよ。本当にありがとう。もちろん、これまで麻衣ちゃんたちの力も大きかったし、友だちにも恵まれたわね」
「もう一人の義妹と出会っても、もう大丈夫。あなたが傍にいてくれたから、尚くんは少しずつ変われたの。あなたのちょっとおせっかいな優しさが、彼の心の鍵をこじ開けてくれたのよ」
素直に褒められているのかどうか分からない女の子の言葉に、楓は困惑しつつも頬を染める。
「それはそれとして、尚くんを後夜祭に誘わないの?」
不意に投げかけられた質問に、楓は言葉を失った。
「え? 後夜祭に?」
先ほどまでのサスペンス映画かホラー映画の登場人物かのようなミステリアスな空気から一変し、女の子は恋バナを聞きたがる親友のような雰囲気で楓を見つめている。
「い、いや、後夜祭に誘うのって、さすがに特別な恋人になりたい人じゃないかな?」
少し動揺しながら、楓はそう答える。
誘うことを全く考えなかったわけではない……けれど、結局は断念した理由を並べ立てる。
「わ、私は妹で、家族でいられればそれでいいんだけど……」
言い訳めいた楓の言葉に、女の子は冷ややかな眼差しを向けたように感じられた。
「ふーん、そう」
女の子は小さく呟く。
「でも、後夜祭、尚くんと一緒に行ってもらわないと、私が困っちゃうんだけど」
「それって、どういうこと?」
楓が尋ねた瞬間、夢の世界が音を立てて崩れ去っていく。
目覚めた楓は、夢の中で交わされた不可解な会話に戸惑いを隠せなかった。
(あの子は昔の私っぽいけれど……)
夢の中の女の子の外見を思い出しながら、そう思う。まだ髪を黒く染めていて少し不思議なものが見えていた頃の自分によく似ている。
(なんで困るのか……)
楓はぼんやりとその疑問を反芻する。
「私は本当に家族で……妹でいいんだけれど……」
声に出して呟いてみる。
でも、そう言葉にすること自体が何かを押し殺しているような気もしてしまう。
「いやいや、今日も忙しいんだから、夢のことなんて考えている場合じゃない。よし」
楓はもやもやを振り払い勢いよく起き上がる。
窓の外では、朝日が建物の隙間から顔を覗かせ始めていた。
今日も学園祭だ。義兄の手伝いと自分の準備に追われる一日が待っている。そう思いながら急いで着替えを済ませ、1階に下りると、洗面所でもう洗顔を終えた尚の姿が目に入った。
「おはよう、楓さん」
尚はタオルで顔を拭きながら、爽やかに声をかける。
普段は朝の洗面所でばったり出くわさないようにしているので、こうして「おはよう」の挨拶を交わすのは新鮮な体験だった。
「お、おはよう」
眼鏡をかけていない尚の笑顔に、楓の返事は思わずぎこちなくなる。
「洗顔は済んだのね。じゃあ、じっとしていてね」
気を取り直して、楓はメイクの下準備に取りかかる。
「も、もう自分でできるよ」
尚は顔に触れられ、少し怯えたように言葉を漏らす。
「すぐ終わるから、大人しくしてて」
拒否されたような気がして、楓は頬に触れた手に力を込める。
「よし、これでいいかな。あとは学校で仕上げるわ」
鏡に映る尚の顔を後ろから確認し、楓は満足げだ。
一方の尚は、下準備の良し悪しが分からないまま、微妙な表情で鏡を見つめている。
メイク道具を尚のスポーツバッグに放り込みながら、楓はじっと尚の後ろ姿を見つめていた。
「ねえ、尚くん。後夜祭は予定ある? 一緒に参加しない?」
楓は、いつも通りを装いながら声をかける。
「後夜祭に?」
その言葉に、尚は驚きの表情を浮かべる。楓と後夜祭に行くことなど、考えたこともなかったようだ。
尚の反応に、楓は慌てて言葉を続ける。
「あ、その、男子の誘いを断るのが大変だから、義兄と約束してるって言って断りたいなって思って」
楓の言葉に、尚は少し考え込む素振りを見せた。
「でも、それだと、僕が学園中の男子に妬まれてしまうことにならないかな……」
「あ、あはは。でも、家族……と約束しているということなら納得してもらえるかなって……」
頻繁に誘いがあって断っているのは本当だった。けれど、口実に使いたいというのは今、思いついたことなのでちょっとぎこちない説明になってしまう。
「そうだね。楓さんほどの美人だと、断るのも一苦労なんだよね」
尚はうなずく。自分も妹と回ると言って断っていたことを思い出し、楓のような美人が相手の男性を傷つけないよう配慮しながら断り続けるのは大変なのだろうと納得した。
「分かったよ。そういうことにしておけばいいんだね? それとも、本当にキャンプファイヤーに一緒に行く?」
「う、うん。一緒に行きたい」
うまく誘う口実をもう思いつかなかったので、楓は素直に本心を告げる。
「分かった。じゃあ、学園祭が終わったら迎えに行くね」
尚は何かを気にした様子もなく、尚は小さく手を振ると大きな荷物を抱えて先に玄関へと向かった。
義兄を見送った後、楓は断られずに済んだことに安堵し、自然と笑みが浮かぶ。何度も胸の前で拳を固く握っていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、母親の由香が意味ありげな笑みを浮かべていた。
「う、わっ」
「おはよう。楓ちゃん。朝ご飯できているけれど、食べていく?」
由香は何も追求せず、ただ嬉しそうな笑顔を向けている。
「た、食べていく」
楓は少し気恥ずかしさを感じながらも、母に促されるままリビングへと向かう。
ハードな今日の学園祭を乗り切るには、しっかり朝ご飯を食べておいたほうがいいと思い、母が準備してくれたトーストを頬張るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます