第11話 義兄のベッド

 清々しい朝の光が差し込む内藤家。いつもより賑やかな雰囲気に包まれていた。

 リビングでは、普段は休日の方が忙しいのに、珍しく家にいる父、健太朗の姿があった。紙の資料を広げ、ノートパソコンに向かう彼の真剣な眼差しが印象的だ。

 そこへ、玄関の扉が開く音が響いた。


「ただいま」

「おじゃましまーす」


 楓と麻衣の明るい声が、家の中にこだまする。

 台所から顔を出した由香が、2人を温かく出迎える。


「おかえり。麻衣ちゃんもいらっしゃい」


 健太郎も顔を上げ、可愛らしい親戚の女の子に笑顔を向ける。

 だが、時計を見た途端、驚きの表情を浮かべた。


「もう、こんな時間か」


 時の流れの速さに、戸惑いを隠せない健太郎。

 そんな彼の横顔を見つめ、尚は静かに微笑む。


「お義父さん、ちょっと味見をしてもらえませんか?」


 優しい声で話しかける尚。

 健太朗に少しでも気分転換をしてほしいという思いが、その言葉には込められていた。


「むっ、日本のトップパティシエに味見を頼むなんてね……。言っておくけど、私は厳しいよ」


 からかうような健太朗の言葉に、尚は少し緊張する。

 台所では、由香が尚の手料理を見守っていたのだ。


「どれどれ……む。こ、これは!」


 一口味わった健太朗の目が、驚きに見開かれる。

 

 「素晴らしい。基本がしっかりしていて、食感も香りも最高だ。天賦の才能だね」

 

 大げさなリアクションに、尚は内心で苦笑する。

 

 (ぎりぎり合格点、ってとこかな)


「親ばかしているんじゃないわよ」

 

 楓はその後も大げさに褒める父のことが恥ずかしくなって注意する。

 

「いや、本当に大したものだと思う。でも、尚くん、別に私の後を継ぐとか考えなくていいからね。むしろ尚くんには経営者になってもらって、私をこき使う立場になってもらいたい」

 

 冷静に座り直して健太郎は言う。

 

「父さん。それも、真に受けて経営者を目指しちゃうでしょ。尚くん真面目だから」

「ああ、そうか。うん、忘れてくれ、尚くんは自分のやりたいことを自由に目指してくれ、なんであろうと応援するよ」

 

 尚の性格をだいぶ理解してきた娘の言葉に、父親の方も、それもそうかと大きくうなずいていた。

 

「ありがとうございます。進路にするかは分かりませんけど、料理は好きなのでこれからも感想いただけると嬉しいです」

「なんていい息子なのかしら」

「本当だね」

 

 由香は健太郎と手を取り合って、感激していた。

 少しおおげさな喜びようだったけれど、迎え入れた息子が優しいこと、まだ壁はあるけれど歩みよってきてくれているのが伝わってきて本当に両親ともに嬉しそうだった。

 

「娘の方は料理とかも全然手伝わなくて申し訳ありません」

 

 実の娘である楓は肩身狭そうに、でもあまり悪びれずにそう言って両親の笑いを誘った。


 

「じゃあ、麻衣もどうぞ」

 

 尚は用意してあった別のお皿を持ってきて、麻衣に渡した。

 

「わー、お兄ちゃんのお菓子。久しぶり」

 

 麻衣は、義兄が新しい家族と話しているのをちょっと寂しそうな顔で見ていたけれど、一口つまんだだけで、子どもの頃の笑顔に戻っていた。

 

「んー。美味しい。やっぱりお兄ちゃんのお菓子は最高!」

 

 満足そうに頬張る麻衣を優しい目で見ていた。

 

「じゃあ、勉強をはじめようか……。でも、お仕事の邪魔かな」

 

 リビングの机に広げられた健太郎のノートパソコンと資料を見て、尚と麻衣は困惑した。

 

「あー、すまないね。もうすぐ私は出かけるから、気にせずに勉強してもらっていいよ」

 

 健太朗は慌てて紙の資料を片付けようとするが、尚はそれを止めた。

 

「大丈夫です。お義父さんは時間もないですから、そのままで」

「あ、じゃあ、お兄ちゃんのお部屋に行きたい!」

 

 目を輝かせて麻衣が手を上げる。

 

「あー。うん、そうだね……」

「駄目でしょ」

 

 そのまま階段を上がろうとする麻衣を楓はきっぱりと止める。

 

「え、なんで?」

 

 麻衣は本気で意味が分からないという顔をしていた。

 

「お、男の部屋に女の子が1人で入っていったりしたら駄目でしょ」

「あーまあ、そうですけれど、兄妹ですし……」

 

 楓は見た目はブロンドの髪ということもありギャルっぽく見えるのだけれど、意外と純真な反応をするので麻衣も戸惑っていた。

 

「同じ部屋で寝てたこともあるのに。いまさら……ねえ?」

 

 麻衣は尚に同意を求めた。

 

「え、あ、あの。うん、遊び疲れて大部屋で寝ちゃった時とかの話ね」

 

 ちょっと誤解を招きかねない表現だったので、尚は慌てて補足する。

 麻衣は不機嫌そうな楓を見ながら提案する。

 

「じゃあ、楓お姉ちゃんも一緒にくれば、いいんじゃないですか?」

 

 その提案に楓はしばらくの間、提案を理解して今後、どうなるかを想像しているかのように考えこんでいた。

 

「え、あ、私も尚くんの部屋に入っていい?」

「う、うん、全然、いいよ」

 

 尚の方は全く気にしていなかった。

 むしろ、兄のプライバシーなんて無いに等しい生活をしてきただけに楓の反応は新鮮に映ってしまう。

 

「……そっか。じゃあ、それならいいかな」

 

 楓は尚の部屋に興味津々だが、それを態度に出さないように『仕方なく』という感じでうなずく。

 

「なによ?」

 

 楓が横を見ると、楽しそうに両親が微笑みながらこちらを眺めているのが目に入った。

 

「別に。それじゃあ、尚くんのお部屋でお勉強頑張ってね」

 

 由香は楓が何を考えているかお見通しのように、にやにやと笑いたくなるのをなんとかこらえながら手を振って2階にあがっていく3人を見送った。

 

 

 3人で尚の部屋に入った瞬間、楓も麻衣も少し緊張した空気になった。

 シンプルというか、何もないというか、尚が引っ越して来る前とほとんど変わっていない。壁には何も掛かっておらず、家具といえばベッド、机、椅子、そして本棚だけ。本棚には教科書と数冊の参考書が並んでいるだけで、それ以外は何もない。


「尚くんって、ミニマリスト?」

 

 楓が小声で尋ねる。麻衣も目を丸くして周りを見渡していた。

 

「え、別に、特に飾りたいものもないから、こうなっているだけ」

 

 尚は苦笑しながら説明する。

 

「うちにいた時のお兄ちゃんの部屋はもうちょっと……ああ、でも、大輝のおもちゃとか落書きとかがあるからか」

 

 麻衣は、尚が馬場家にいたときを思い出していた。変に思ったことはないけれど、そう言えば尚のものは少なかった気がする。

 

「もっと適当に推しのグッズとか買っていいのよ。なんか、うちが何も買うのを禁止しているみたいじゃない


  楓は冗談めかしてそう言ったあとに少し後悔していた。

 

(もしかして、昔の家での酷い扱いとか、親戚をたらい回しになったという過去があるから、こんな部屋になっているのかな……)

 

 だからと言って、何か買えとか強要するのも変だし、同情しすぎるのも違うと思ってしばらく無言で考え込んでいた。

 

「あ、でも、ここで勉強すると集中できそう!」

 

 麻衣はポジティブな言葉で早速勉強を見てもらおうとする。

 楓と同じようなことを考えていたのだと思うけれど、麻衣は変に気を使うよりも積極的に尚といつも通りに話した方がいいと思ったようだった。

 

(いい子だなあ)

 

 楓は素直に感心する。

 

「今日は数学だよね」

 

 尚は一階から持ってきたちゃぶ台を広げて、カーペットに置いた。

 2人は向かい合わせに座りながら、教科書を広げた。

 今日は理系の科目なので、尚が麻衣に勉強を教える。楓は手持ち無沙汰で2人の様子を眺めているだけだった。

 

「この問題はね、こうやって解くんだよ」

 

 尚が丁寧に説明する声が部屋に響く。麻衣は『なるほど!』と目を輝かせながらノートに書き込んでいた。2人は何年もの付き合いだからなのか、自然な感じがする。

 尚は説明がうまく、麻衣も真剣に聞いている。その様子を、楓はただ黙って見ていた。彼女は、自分と尚の間にある距離を感じてしまいせめて邪魔しないようにと、少し離れて尚のベッドの上に腰掛けた。


 「でも、ドラマみたいなおしゃれなお家と家族だよね」

 

 麻衣が、退屈そうな楓を気にしたのか笑いながら言う。

 

「さっきの一階での会話もなんかおしゃれ、すごいって、思った。お兄ちゃんが遠い世界の人みたいって寂しくなっちゃった」

「単に勇介父さんと、健太郎父さんの違いってだけだと思うけれど……」

 

 麻衣の憧れの言葉に、尚は苦笑していた。

 

「それに一人だけの部屋なんて羨ましいな。ベッドもいいな。今朝も私、和室で寝ていたらさくらに寝ぼけて蹴っ飛ばされたんだから」

 

 ちらりとベッドに腰掛けている楓の方を見ながら言った。

 

(麻衣ちゃんは麻衣ちゃんで、寂しい気持ちになっているのかな)

 

 楓は麻衣の視線を受け止めつつそう思う。

 さっきから2人のことを本当の兄妹みたいに仲良くて羨ましく思っていただけに、思ってもみない反応だった。

 

「楓。お茶入れたから、運んでくれるー?」

 

 一階から、由香の声がした。

 

「あ、いいよ。僕が行ってくる」

 

 楓が勢いをつけて腰掛けていたベッドから起き上がろうとするよりも前に、尚は部屋から出ていってしまっていた。

 

「えっ、あ、ありがとう」

 

 止めようとしたけれど間に合わず、楓は廊下に向かってお礼を言ったけれど、それさえも届いたかは疑問ですでに階段を下りる足音が聞こえていた。

 

「じゃあ、ちょっと休憩です」

 

 麻衣も驚いたようだったけれど、すぐに切り替えたのかベッドにダイブしてきた。

 

「ちょ、ちょっと。はしたないわよ」

 

 ベッドに腰掛けていた楓が少し跳ねるくらいに勢いよく飛び込むとそのまま尚のベッドにうつ伏せで横たわり、義兄の枕に顔をうずめていた。


「お義兄ちゃんの匂いって、良いですよね」

「えっ、いや、別に……?」


 枕から顔をあげた麻衣に、変な同意を求められて楓は過去ないほどに困惑してしまう。


「いいな。羨ましい」

「言っておくけど、私は尚くんの部屋に入ったのも初めてだから」


 楓はなんでこんな変な弁明をしないといけないのだろうと思いながらも、自分が今の麻衣と同じようなことをしていると思われていそうだったのでそう言い返した。

 2人きりになった部屋で、楓と麻衣は少し気まずい空気に包まれる。


「麻衣ちゃん、すごく頑張ってるね」


 楓が変な空気に耐えかねて、麻衣に尋ねる。


「もちろん、お兄ちゃんと付き合いたいですから」

「つ、付き合う……」


 楓からは、本当の兄妹以上に仲が良く見える。尚とはあんな感じになりたいと思っているので、それ以上を求める麻衣のことがよく分からなかったし、少し嫉妬した気持ちも隠さなかった。


「前にも言いましたけれど、血は繫がってなくても、尚兄ちゃんは妹に恋はしないのです。でも、私はお兄ちゃんと付き合いたいんです。だから、妹じゃなくて後輩になりたいんです」


 麻衣の目は真剣そのものだ。

 以前に聞いた時は何を言っているのだろうと楓は思ったけれど、なんとなく今は思い当たることがあった。


「ん……昔の家のトラウマ的な話かな」

「たぶん、そう……です」


 言葉少なげに、麻衣は尚の枕を抱えながらうなずいていた。


「そうか、私は……妹でいいんだけどな。ちゃんと家族になりたいと思ってる」


 楓は少し寂しげに言いながら、両手を広げてベッドに仰向けで倒れ込んだ。


「ぐわ。楓お姉ちゃん、お、重いです」


 麻衣の太ももを枕にして、楓は寝転がったので、麻衣は体をのけぞらせて笑っていた。


「その気持ちはよくわからないけれど、とりあえず、麻衣ちゃんが尚くんの後輩になれるように応援してあげる」

「ありがとう。楓お姉ちゃん」


 麻衣は楓の伸ばした手を握りながら答えた。


「ただいま。え、何をしているの? 2人とも」


 トレイの上に紅茶を載せてきた尚は、2人とも自分のベッドで寝転がっているのを見て驚いていた。

 2人とも短いスカート姿で、特に仰向けで寝ている楓の姿は、ちょっと刺激的で尚は顔を赤くしながら目を逸してしまう。


「義妹同士の秘密の会話です」


 綺麗な歯を見せながら2人はにっこりと笑いながら言う。


「ねー」


 2人は顔を見合わせて手を合わせていた。

 尚はよくわからないけれど、仲良くなってくれたのならいいかと微妙な笑みで楽しそうな2人を見ていた。

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