第7話 尚の日常の変化

 無事に午前中の授業を終えた教室は、開放されたと同時にお腹がすいた育ち盛りの生徒たちによる賑やかな声が響く。

 その騒がしい中で、馬場尚――今日から名を変えた――内藤尚は、少し疲れたように遠くでも見ているかのように座ったままだった。


「おい。聞いたぞ! 馬場尚は、今日から馬場尚じゃないらしいな!」


 友人の松木拓海が突然、パンを買う誘いも忘れて興奮しながら尚の席へとやってくると、自分でもよくわからない言葉を言いながら騒いでいた。

 いかにも野球部員という感じの短髪で背はそれほど高くないながらも、鍛えた体つきをしたこの友人はいつも元気にあふれていた。


「ああ、松木。遅刻したもんね。朝の先生の話を聞いてなかったよね」


 もう一人の友人である小野寺翔太も近寄ってくると、冷静に解説してくれた。

 こちらは松木とは違って、ふんわりとした髪が特徴的で話し方もいつも優しげでふんわりした男子だった。


「うん。今日から名字が内藤になった」


 馬場尚改め内藤尚となった少年は、あまり表情も変えずにうなずいていた。


「そうか……」


 松木はあっさりと返されてしまったけれど、悲しい家庭の事情があったに違いないと腕を組みながら大きくうなずいていた。


「え? それで終わり?」


 松木はもう少し事情の説明をしてくれると思って待っていたが、尚が何も言わなかったので、腕を組んだまま立ち止まってしまった。


「両親はずっと前に亡くなっているから、今回のはまあ、養子先が変わるっていうか……それだけだから」

「親戚をたらい回しみたいな?」


 小野寺に怒られるまでもなく、さすがにがさつな松木であっても、言ってしまってからデリカシーがないなと反省していた。


「尚くんは、やっぱり色々大変なんだね。よし、カツサンドおごるよ」


 小野寺は同情しつつも、いつも通りのにこやかな笑顔で、購買へと一緒に昼食を買いに行こうと誘ってくれた。その配慮が尚にとっては何よりもありがたかった。


(大丈夫。普通のふりができてる。友だちも普通に接してくれている……)


 尚は変なトラウマが蘇ったりしないことを確認して立ち上がった。

 笑顔はぎこちなかったかもしれない。でも、今まで通りのやりとりができていることにほっとして、友人たちに感謝していた。


「でも、新しい家ではよくしてもらっているよ。正確には、前からその家の養子でもあったし……」

「へえ。そうなんだ。よかったね」


 尚は心配そうな顔で覗き込む小野寺にはちゃんと説明しつつ歩き出した。松木の方は細かい話には興味なさそうに『お腹すいた』ともうとっとと廊下に出ようとしていた。


「馬場……じゃなかった内藤くん」


 尚も購買に向かおうと歩き出したところで、クラスの女子の山本真由美に声をかけられた。


「う、うん。僕?」


 まだその名字で呼ばれ慣れていないのと、女子に話しかけられること自体があまりないこともあって、自分で自分に指を指して確認する。


「あー。もう、面倒だから今日から『尚くん』って呼んでいい?」


 にこりと笑った真由美のその言葉に、クラス中の……特に男子が静かになり聞き耳を立てている気がした。


「い……いいけど」


 尚は周囲の空気が少し変わったことにさらに怯えつつうなずいていた。

 山本真由美は、高校が始まってからこの一ヶ月、クラスの男女それぞれから、すっかりお姉さんのように慕われている人気者な存在だった。

 昨日までクラスでも全く目立たない存在だった内藤尚は、名字の件もあって、今クラス中の注目を急に浴びてしまっている存在になっているのが自分でも不思議だった。


「あー。ほら、私、楓の親友だから、紛らわしくって……ね」


 何も言わなかったけれど、尚の顔に『何で名前で呼ぶの?』と浮かんでいたのが見えたのだろう。

 慌てた様子で真由美は付け加えて説明した。


「ああ、なるほど」


 尚は、そう言えば、楓がこの山本真由美さんと廊下で親しげに話しているのを何度か見たことを思い出して納得した。


「うん。楓とは小学校の時からの親友なんだ。よろしくね、お兄さん」


 真由美は愛嬌ある笑顔を浮かべて尚の目の前に近づくと、楽しそうに手を振った。


「楓……」


「内藤……?」


「お兄さん!?」


 クラスの男子たちは、人気者の真由美と冴えない尚の組み合わせを不思議がり、尚のことを羨ましがっていたが、それ以上に真由美から発せられた言葉にざわめいていた。


「え? もしかして、『あの』内藤楓と!」


 一旦は教室から片足が出た松木拓海は慌てたように戻ってくると、尚の肩をぐっと掴んで揺さぶっていた。

 興奮した様子の松木だったけれど、その後の言葉は出てこなかった。

 そんな漫画やドラマみたいな事が起きるはずがないと思っているようで、謎の葛藤を始めていた。


「内藤楓だぞ。この学園一の美少女と言われるあの内藤楓と……」


「兄妹になった? いやいや、同じ家で暮らすとかそんな馬鹿な」


「む、婿養子とか。いやいや、それこそそんな羨ましいことが起きるはずがない!」


 松木はさっき尚から聞いた情報を処理しきれずに、どこからでているのか分からない声でぶつぶついいながら、頭を抱えて悩んでいる。

 聞き耳を立てているクラスメイトたち全員が、『さっさと事実を聞けよ』と心の中でつっこんでいた。


「それで、尚くん。楓から連絡があってね」


 真由美は、松木の変な動きを多少ひきつった優しい笑みで見守りながら、尚に向かって話を続けることにした。


「え? うん」


「『尚くんが購買に行かないように足止めしておいて』だって」


 真由美はスマホの画面を確認しながらそう言うと、両手を可愛らしく広げて尚の前に立ちふさがって笑っていた。

 尚は、それはどういう意味だと考えていたら、噂の人物が教室に入ってきた。

 

 まず目に入るのはブロンドの髪だった。教室に入った瞬間に背中までの髪がふんわりと揺れて、光が乱反射しているようにさえ見える。

 色々なルーツを持つ生徒が多いこの学校であっても、その髪が目立つだけでなく、顔立ちも注目を浴びていた。


 青く綺麗な瞳は少し昔の海外映画の女優のようで見とれてしまうけれど、頬のあたりは少し丸く柔らかそうで親しみやすい雰囲気も兼ね備えている。

 それが入学してから学校で一番羨望の眼差しを集める美少女、内藤楓だった。


 クラス中の注目を浴びてしまっているのは、もう慣れているのか気にした様子もなく、尚と真由美のところに真っ直ぐ歩いてきた。


「尚くん。はい、これお弁当」


 そう言って、包まれたお弁当箱を尚に向かって差し出した。


 その瞬間、気にしていませんというふりをしていたクラスの男子たちが一斉に振り返り、声にならない叫び声をあげていることに内藤楓は気がついていなかった。


「あら、愛妻弁当?」


 真由美はクラスの男子たちの動揺に気がついていたけれど、あえて知らないふりをして楽しそうにお弁当を覗き込んでからかっていた。


「違うわよ。お母さんが作ったお弁当よ。尚くん、いつも朝早すぎるから、渡すように頼まれただけよ」


 素っ気なく対応し、尚に対して不満そうに言うのだけれど、周囲にはそれがむしろ親しい仲に見えてしまいざわめいていた。


「いや、あの別に……パン代ももらっているし」


 尚は、クラスメイト男子たちのやっかみの視線を痛いほどに感じていたので、遠慮したいと思っていた。


「『育ち盛りの男子高校生が、パンだけで足りるわけがないでしょう』だって、受け取ってもらえないと私が2つ食べなきゃいけなくなるんだけど」

「あー。うん、そうだね」


 尚は諦めたように、楓からお弁当箱を受け取った。

 もうここで遠慮しても、遅いし意味がない。楓を困らせてしまうだけだとクラスのいや学校中のやっかみを受けることを覚悟した。


「そ、それって、つまり……」


 尚の友人である松木が、一番騒がしくて嫉妬したように尚と楓を見比べて動揺していた。


「い、一緒に暮らしているということ?」


 動揺している松木のことを、楓は『誰だろう』と胡散臭く思ったけれど、真由美や尚の反応から尚の友だちらしいことを察して営業用の笑顔を振る舞おうとする。

 一瞬、尚は楓と視線を交わした。

 楓の瞳から『嘘はつかないって約束したよね』という強い圧を感じ取って、尚は目立ちたくないのにと思いながらもうなずいていた。


「ええ、私たち義理の兄妹なの。春から一緒に暮らしているわ」


 楓はにこやかに微笑んだ。


「ええー!」


 今度はクラス中がはっきりとどよめいて、尚にもより一層の注目が集まっていることを本人も感じていた。

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