第5話 懐かしい屋根の下で
春の日差しが差し込むリビングで、尚と楓、麻衣、由香の4人がくつろいでいた。穏やかな空気が流れる中、紅茶を楽しむ彼女たち。しかし、麻衣は由香が何を話したいのか気になっていた。
「まあ、楓が不思議ちゃんだった話は置いておいてね」
と由香が軽い口調で言った。
「不思議ちゃんじゃないわよ」
楓は顔を赤くしながら反論した。反論しながらもその目には、昔の記憶がフラッシュバックして何かを思い出してしまったかのような複雑な光があった。
「ねえ尚くん。週末は一緒に馬場さんの家に行かない?」
由香はティーカップを置くと真剣な表情で切り出す。優しい口調の中に、強い決意が感じられる。
「馬場家に? どうしてですか?」
尚は驚いたように眉を上げる。馴染みのある場所で行くことに抵抗はないが、急な提案に戸惑いを隠せない。
「尚くんを迎え入れるにあたって、私たちはきちんと事情を説明していなかったのよ。きっと」
「でも、お義父さんたちからは聞いています。改めてそんな……」
尚が遠慮がちに口ごもると、由香は首を横に振った。
「いえ、多分、全然ちゃんと説明してない。あいつらに任せたのが失敗だったわ」
由香の珍しくきつそうな言葉に、子どもたちは思わず身を竦ませる。
「お義兄ちゃん……私も、由香おばさんの意見に賛成。ちゃんと話していないから、お義兄ちゃんに不安な思いをさせていただけだと思うから、またお家に来て」
麻衣は申し訳なさそうに目を伏せながら訴える。尚を思う気持ちが、言葉の端々に滲んでいる。
「大丈夫、麻衣。僕は、別に……」
「私も一緒に行くわ。尚くん、行きましょう」
そこへ楓が口を挟んだ。きっぱりとした口調で、尚を見据える。
なんとなく麻衣に張り合ったような形になってしまい気恥ずかしさがあったけれど、態度は変えなかった。
「えっ、いや、楓さんは別に来てもらわなくても……」
「もう尚くんはうちの家族なんだから、関係ある!」
遠慮がちな尚に対して、楓は強い口調で押し切っていた。そう言われること自体は、尚にも嬉しいことではあったけれど、ちょっと強引な楓に対して気恥ずかしさも覚えるのだった。
「では、明日、一緒に馬場家に行きましょう。もう一度、ちゃんとお話した方がいいわ」
と由香は娘と同様に断固とした様子で言い、尚と楓はお互いを見つめ合い頷いた。
雲一つない週末の午後、尚、楓、由香、そして楓の父・健太郎の四人は馬場家の門前に立っていた。
内藤家から30分ほど電車で行ける場所にある馬場家は、緑に囲まれ、温かみがあり、白い外壁に木のアクセントが映える貫禄のある木造の家だった。
真ん中に少しだけ二階部分があるのが、小さなお城みたいだと思いながら楓は見上げていた。
「懐かしいかい、尚くん?」
尚の今の義父でもある健太郎が親しみを込めて尋ねた。彼は若々しい風貌で、スーツにおしゃれな眼鏡をかけていたが、和風の家には少し浮いた存在だった。
尚は少し固く「ええ」とだけ返事をした。健太郎の気遣いは、逆に尚を緊張させてしまっていたようだった。
「おう、尚。よく来たな」
玄関で、尚が5年間お世話になった元義父、馬場勇介が出迎えてくれた。
背が高くスマートな内藤健太郎とは違い、馬場勇介は肩幅が広く筋肉質で、黒髪の短髪と鋭い目つきが強面な印象を与える男性だ。
尚にとって、普段はカジュアルでだらしない服装をしている印象だったが、今日はスラックスにきちんとしたシャツを着ており、少し新鮮な感じがした。
「あ、義父さん義母さん。久しぶり……です」
やや距離感を測りかねて、尚は遠慮がちな挨拶をした。
それに対して勇介はなにか言いたげだったけれど、後ろにいた義母の馬場美和が大きな声で『尚、おかえり』と言ったことで一旦はすべてが霧散したような空気になっていた。
「健太郎さん、ちょっと話があるの。こちらへ」
と由香が呼びかけた。彼女の声は普段の優しさから一転、少し厳しい口調だった。健太郎は少し驚いた様子で、由香について行った。
「勇介さんも、少し話がありますから」
馬場家でも、美和が勇介にそう言って連れていった。普段は温和な美和だが、その時の彼女はしっかりとした態度で、勇介も戸惑いながらも黙って従っていた。
尚と楓は二人きりで残され、互いに何を言っていいかわからず、心配そうに廊下を歩き始めた。すると、突然、幼い二人の影が飛び出してきた。
「尚にーちゃん!」
そう叫ぶ声と共に、小さな女の子と男の子が尚に駆け寄ってきた。
楓は驚いたが、すぐに微笑んでその様子を見守った。
「尚にーちゃん、遊んで!」
小学校二、三年生くらいの女の子と更に幼い小学生になったばかりくらいの男の子だった。
楓は会ったことがなかったけれど、馬場家に幼い妹と弟がいることは聞いていたので可愛らしい二人のことを微笑ましく眺めていた。
「尚にーちゃん。うちにはいつ帰ってくるの? 帰ってきてよ」
男の子の方は、涙を浮かべながら尚の太ももをぎゅっと掴んでいた。
楓は、男の子のその仕草に、まるで自分が悪いことをしてしまっているかのような感覚に襲われて胸が締め付けられるようだった。
「男が少なくて、テレビのチャンネル権がお姉ちゃんたちに奪われっぱなしなんだよ」
意外と可愛らしい理由で泣いているので、尚も笑いながら男の子の頭を撫でていた。
でも、そんな理由でさえも兄弟もいなくて幼い頃から自分専用のタブレットで動画を見ていた楓には羨ましい光景に感じてしまっていた。
「あと、部屋が一人で夜、寂しいよ」
「いいじゃない。その年で自分の部屋があるなんて羨ましい」
(ああ、あの時の、あれは……)
頭を撫で続ける尚のことを見て、楓は初めて尚を部屋へと案内した時のことを思い出していた。
妙に自分だけの部屋があることに感激していたのはずっとこの男の子とか同じ部屋だったからなのかと納得していた。
離れの小屋とかに住まわされていたわけでないと分かってどこかほっとしていたけれど、家が違うと色々なことが違うなと思うのだった。
「ちょっと、さくら! 大輝!」
廊下の先から、幼い姉弟を追いかけてきたのはいつもの制服にエプロンを着た麻衣だった。
「今日は遊びに来てもらったわけじゃないから、大人しくしてなさいってさっき言ったでしょ」
そんな麻衣の説教も幼い姉弟には響かない。
「ぶー、私たちのお兄ちゃんなのに……」
さくらは頬をわかりやすく膨らませて文句を言いながら、麻衣に引っ張られていく。
大輝も麻衣に怒られて、やっと尚に手を振りながら離れていった。
「可愛い妹さんと弟さんね」
その姿を見送りながら、楓はぼそりと呟いた。
「そうだね」
尚は簡潔にそう答えた。嬉しそうでもなく淡々とした口調で。
しかし、楓がちらっと横目で尚の表情を窺うと、この一ヶ月間一緒に過ごした中で見たことのない、心からの穏やかな笑顔に見えた。
馬場家の居間は、かなり広い和室だった。今日はいつも食事をするのに使っている座卓に加えてもう一つ座卓が並べられていた。
尚はその光景に、ほろ苦い記憶がよみがえる。勇介が友人や部下を招いて宴会をするときに使っていた座卓だ。
自分がその座卓に招かれる側になるのは、なんとも言えない不思議な感じがしていた。
子どもたちは、もう既に料理の準備を始めていた。
客人のはずの尚も楓も、自然と手伝い始める。四角い小皿に箸を添えて並べていくうちに、大人たち4人の姿が目に入ってきた。
床の間の前に、二人の男が正座している。だが、威厳のある佇まいからは程遠い。妻たちに叱られた後のような、どこか萎縮した様子なのだ。
「尚くん」
内藤健太郎が、おずおずと顔を上げて尚を呼ぶ。
「君に話があってね。今まで、ちゃんと説明できていなくて本当に申し訳ない」
その言葉に、尚も楓も麻衣も居住まいを正して聞き入る。真摯な面持ちで、健太郎の話に耳を傾けるのだった。
「まず伝えなければならないのは、君のお母さん、真理子さんが私たちの大恩人だということ。若い頃、私たちを助けてくれたんだ。命の恩人と言っても過言ではないよ」
「ああ、そうだったな。だから真理子さんの息子の尚くんが、山縣家で酷い目に遭っていると聞いたときは、迷わず引き取ろうと思ったんだ」
勇介も横から相槌を打つ。張り詰めた面持ちで、当時を思い出しているようだ。
「引き取るって……2人で?」
尚の問いに、楓と麻衣もうなずく。戸惑いの表情を隠せない。
「私はね、最初の店がうまくいかない時期だったんだ。正直、もう一人育てる余裕がなかった」
「うちも大輝が生まれたばかりでさ。だから、2人で協力して尚くんを育てようって話になったわけ」
二人の父親が、穏やかに語り続ける。重ねた年月が、言葉の端々に滲んでいる。
「協力……つまり、中学までは馬場家の養子で、高校からは内藤家の養子になるってことですね」
尚は、自分の境遇を改めて言葉にする。
それは予め約束されていたこと。自分に非があったわけでも、嫌われたからでもない。ただ、そのことを理解できただけで、安堵の息が漏れるのを感じた。
「ああ、あのね。養子縁組って別に一組じゃなくてもいいんだよ」
「え?」
軽い調子で言った健太郎の言葉がよく分からずに、戸惑う尚たちだった。
「養子縁組は、同時に複数の家庭とできるんだ。だから尚くんは今でも、勇介の息子であり、同時に楓の義兄でもあるんだよ」
「そう……だったんですね」
法律の話はよくわからないが、この家とのつながりを感じられるだけで尚の心は温かくなる。窓越しに見える木々や空の青に、以前とは違う安らぎを覚えるのだった。
「お父さん! そういうことをちゃんと説明しないと!」
尚は穏やかな面持ちで聞いているのに、隣で麻衣が立ち上がり大きな声をあげていた。更に反対側の楓も立ち上がりさえしないけれど、不満そうな顔つきだった。
「えっ、いや説明したよ……6年前に」
「覚えているわけないでしょ! それに、今回は、送り出す時には改めてちゃんと説明したの? 健太郎おじさんも!」
ふくれっ面で麻衣は父親たちを怒っていた。
「あ、いや、改めては……」
「健太郎が話していると思っていたからなあ……」
目を逸し、麻衣の言葉にもしどろもどろになっている大人の男性2人だった。
「言わなきゃ伝わらないから! お義兄ちゃん、密かに泣いてたんだから!」
「い、いや。泣いてはないから」
事実を突かれて尚が慌ててると、楓と麻衣は意味ありげな視線を交わす。
「うちに来た時も、捨てられた子犬みたいに不安そうな顔をしてた。挨拶もなしにお父さんは出かけちゃうし」
楓の一言に、尚は恥ずかしさのあまり顔を覆いたくなる。
「……うん、反省している。急な仕事が入っちゃってさ。でもちゃんと夜には帰ったじゃないか」
健太郎は弱々しく言い訳するが、情けない気持ちでいっぱいなのだろう。大きく息をついて、尚と向き合う。
「尚くん、改めて言わせてほしい。君は、ずっと私の息子でいてくれる。うちに来てくれて本当に嬉しいんだ。心から歓迎するよ」
そう告げると、健太郎は尚に手を差し出した。
「……ありがとうございます」
尚も、おずおずとその手を取る。大きな手に包み込まれるようにして、何度も力強く握られた。
「ほら、勇介さんも」
妻の美和に促されるように、勇介が前に出る。
「尚、お前は俺の息子だ。血は繫がってないかもしれないが、家族に変わりはない」
その声は、いつになく熱を帯びている。
「はい……お義父さん」
「いつだって、この家はお前の帰る場所だからな。いつでも帰ってこい」
そんな言葉は、何気ない日常の中では決して口にされない。だからこそ、尚の胸に深く沁みわたっていく。
ちょっとボタンをかけちがえただけ。
尚も分かっていたけれど、それだけにわざわざ何かしようとは思えなかった。
今は、こんな場所を作ってくれた義母や義妹たちに感謝しかなかった。
そのまま勇介は尚の肩を抱き寄せ、健太郎は尚の手を包み込むようにもう片方の手を添えると力強く何度か大きく上下に揺らした。
「健太郎、お、お義父さんもこれからもよろしくお願いします。勇介お義父さんも改めてよろしくお願いします」
尚は嬉しいのだけれど、大人な男性2人とのスキンシップには恥ずかしくて仕方がなかった。でも、頑張って言葉にすると周囲の女性たちからはやっと安心したような穏やかな視線が向けられるようになった。
「本当にごめんね。私たちが説明不足だったばかりに、尚くんを不安にさせてしまって」
由香と美和。2人の義母が優しく声をかけてくれる。
「いえ、僕こそ……二つの温かい家族に恵まれて、幸せ者です」
そう伝えると、尚はふっと視線を落とす。
何かに気づいたように、楓も麻衣も黙って微笑むのだった。
「尚にーちゃん、泣いてるの?」
「泣かないで。よしよし」
でも、小さい弟妹は空気など読めずにただ心配そうに尚に近寄ってきて慰めようとしてきた。
「いや、泣いてないから、にーちゃん泣いて泣いてないから」
目の端に水滴を浮かべながらそう言った尚だった。
少ししんみりとしていた空気が、小さな弟妹の笑顔で一気に楽しいものになった。
「はは、じゃあ、ご飯にしようか」
2人の父親も笑顔でグラスを手にとると、女性たちも楽しげに応じていた。
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