第2話 尚と楓のあまり良くない出会い

 馬場尚は、大きなスポーツバッグを抱えて内藤家の玄関前までやってきていた。

 今日からここで暮らすことになるのだと感慨深く家を見上げている。

 おしゃれで綺麗な家だった。こんな家で暮らせるなんて素敵だとは思うけれど、不安も大きくて押しつぶされそうだった。

 尚は15歳になってからも、まだあどけなさが残る少年だった。すらりとした体型で、筋肉はあまりついておらず、どこか頼りない印象を与える。今も重いスポーツバッグを掛けた方に体が傾いてしまっていた。


 (前の家ではうまくやってこられたと思っていたのだけれど……)

 

 尚はつい最近まで、別の親戚の家で暮らしていた。そこでは、義父母と義妹や義弟とも仲良くやっていたと思っていた。だから、義父に高校生からは別の家に行けと言われた時は、心の底から寂しさがこみ上げてきた。


 (まあ、でも仕方がない……。ちょっと特殊な下宿みたいなものだと思えば……)

 

 尚はそう自分に言い聞かせた。親戚の家をたらい回しという状況は悲しくはあるけれど、馬場尚はこの春からこの市の高校に通うことになっている。1時間くらい電車でかかる町から通うつもりだったから、電車で一駅、その気になれば自転車でも通えるこの市で暮らせることはむしろ幸運なのだと思うことにした。

 玄関の扉の前で立ち止まると、もう一度深く深呼吸をする。ちょっと無理に笑顔を作って、覚悟を決めるとチャイムを押した。


 ピンポーン。


 静かな住宅街の中にインターホンの音だけが鳴り響く。しばらく待ってみるが反応がなかった。


 (あれ? 誰もいない?)

 

 そんなはずはない。

 もし、そうだとしたら今夜泊まる場所にも困ってしまうなと思いながらドアのノブに手をかけてみると、鍵はかかっておらず開いていた。


「あの~。今日からお世話になります馬場尚ですが……」

 

 そう言いながら、恐る恐るドアを開けると、奥からは娘と母親らしき言い合いが聞こえてきた。


「だから、なんで勝手に決めちゃうのよ! 思春期の女の子の家にいきなり知らない男の子とか来たら嫌に決まっているでしょ」

「えー。楓ちゃんもいいって言ってたのに」

「いつ? 言った覚えなんてないんだけど」

「えーと、5年前くらい?」

「は? そんな昔のこと、知らないわよ!」


 (この人たちが新しい母と妹……?)

 

 尚は驚いて、廊下の奥に目をやった。そこには、2人の美しい女性が立っていた。2人とも艶やかな金髪を持ち、澄んだ瞳が印象的だ。スタイルのいい方が母親で、スレンダーな体型の方が娘だった。どちらも尚の目には眩しく写って、しばらく何も言わずに見とれてしまうほどだった。


 (……綺麗な人たち)

 

 尚はご家庭でよくある母娘喧嘩の光景なのに、思わず華やかな舞台の劇でも見るように観察してしまっていた。そのまま母娘でモデルをやっていますと言われたら信じてしまうだろう。特に金色の髪の毛がふわりと揺れると、普通の住宅の中なのに眩しく光が煌めいている気がした。


「『楓もお兄ちゃんが欲しい』って必死にねだられたのに」

 

 母親は、『困ったものね』と可愛らしく拗ねるように言った。

 尚は、この由香という母親の方には最近も会ったことがある。母親は外国とのいわゆるハーフで、典型的な日本人の顔からは程遠い少し彫りの深い綺麗な顔立ちだけれど、話してみると温和で優しくて楽しい人だったことを覚えている。


「何それ」

 

 楓と呼ばれた娘の方は、尚は昔に一度だけ会ったことがあるらしいけれど全く記憶になかった。母親の由香よりは柔らかい印象を受ける顔立ちなのだけれど、新しく来るという義兄に対する態度は冷たく、言葉は厳しかった。

 楓は母親の言葉を馬鹿にしつつも、子供の頃の自分ならなんとなく言いそうとも思って少し困惑しているようだった。


 (なんだか嫌われてる……?)

 

 尚は楓の態度に気づいて、心がざわついた。今日から一緒に暮らすことになるのに、最初から不仲だと胃が痛くなりそうだった。いや、それどころか一緒に住むことを許されなさそうな剣幕だった。


「とにかく、そんな昔のことなんて無効だから。そんな胡散臭い居候は追い返して!」

「でも、もう来ちゃったみたいだし」


 そう言うと、お母さんの由香は尚の方を向いて軽く頭を下げた。


「えっ?」

 

 楓は振り返って、尚と目が合うとさすがに気まずそうな表情になっていた。その紺碧の瞳には戸惑いの色が浮かんでいる。

 

「あ、どうぞ、よろしくお願いします」

 

 尚は新しい母と妹に向けて慌てて頭を下げる。柔らかな髪が額に掛かり、少し茶色がかった瞳がきらりと覗く。


 (どうしよう……これからうまくやっていけるかな……)

 

 とても気まずい空気が漂い、なかなか頭をあげられない尚は思うのだった。期待と不安が入り混じる胸の内を押し隠すように、ゆっくりと顔を上げる。


「お見苦しいところを見せちゃったわね。ごめんなさい」

 

 しばらく落ち着くまでの時間を待った。母親の由香が、改めて笑顔を作り出迎えてくれた。

 

「あ、い、嫌なことを言ってごめんなさい」

 

 そう言って、娘の方の楓も頭を下げる。

 目をほとんど合わせてはもらえなかったけれど、いきなり『出ていけ!』と追い出されたりはしないようで、尚はほっと安心していた。

 

「じゃ、じゃあ、とりあえず尚くんの部屋を案内するわね……」

 

 由香は少し言葉を探すように言葉を濁した後、微笑んで尚を連れて2階へ上がっていく。ふわりと香る柔軟剤の香りに、尚はほっとする。


「ここの部屋を使ってくれるかしら。ベッドや机は用意しておいたけど他に必要なものがあったら言ってね」

「はい、ありがとうございます」


 部屋に入るとシンプルだが清潔で快適そうな空間が広がっていた。ベッドや机、本棚やタンスなど、必要なものはすべて揃っていた。窓からは、庭の緑や空の青が見えて、気持ちがいい。荷物が何もないだけに広々としてきれいな感じがしてしまう。


「僕だけの……部屋ですか?」


 尚は部屋中を見回しながら、尋ねた。その声には歓びと驚きが混ざっている。


「当たり前でしょ。私と一緒の部屋なわけがないし」


 母の後ろからこっそりついてきた楓は、ぼそりとつぶやいて、また余計なことを言ってしまったとちょっと反省して目を伏せていた。


「自分だけの部屋……」


 尚は不機嫌にはなっていなさそうなので、楓はちょっと安心する。それどころではないレベルで、尚は感激しているようだった。


 (なんで?)


 子どもも自分の部屋があるのは当たり前だと思っている楓には、尚がそんなに感激しているのが不思議でしょうがなかった。


 尚はベッドに仰向けで横になると、ぼんやりと天井を見上げた。午後の陽光が柔らかく差し込み、淡いオレンジ色に染まる天井。


 『夕飯ができたら呼びにくるからそれまでは好きに過ごしてね』と由香は言ってくれたけれど、荷物もスポーツバッグだけだったので衣服をしまったら特にすることもなかった。


「ふう」


 緊張はしたけれど、温かそうな家庭にほっとする。新しい義妹である楓には、胡散臭い居候扱いされてしまったけれど、それでも昔よりは何もかもましだと思えた。


 「でも……綺麗だったな」


 天井を見ながら、その義妹――楓――の姿を一瞬思い出してしまい。ぼそりとつぶやいた。金色の髪に紺碧の瞳、白磁のような肌。そして、なぜか厳しい言葉を言われながらも柔らかそうな唇が印象に残った。


 ベッドは窓から離れた壁にぴたりとくっついて置かれていた。そして壁の向こうには楓の部屋がある。そんなに薄い壁というわけではないけれど、少し大きな音なら聞こえてしまいそうだった。実際に今も楓が何か音楽を大きめの音で聞いているのが、かすかに聞こえていた。


 綺麗な義妹と1つ屋根の下。普通の男子なら歓喜する状況なのだろうけれど、尚は昔の義妹のことを思い出して気分が重くなり忘れようと固く目を閉じて少し寝ようとするのだった。

 苦い過去の記憶が脳裏をよぎる。だが、同時に新しい家族への希望も芽生えていた。


 (今度こそ、うまくやっていけるかな……)


 そんな想いを胸に、尚は静かに目を閉じた。

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