第21話 置いていく心
領主館の庭園を抜けた先には、温室がある。
冬の寒い時期にも温かな空気が包むその温室には、常に色とりどりの花が咲いていて、微かな土と葉の蒼い香りと共に、花の甘さが満ちている。
温室の一角には、庭園の
その温室の更に先には、目隠しの
「クラウディア様、これでいかがですか?」
「そうね……お母様は赤い花がお好きだから、もう少し赤を入れたいわ。あれは?」
「ああ、ちょうどいい具合に咲いていますよ」
庭師小屋脇の温室にいるのは、領主長女のクラウディアだ。
編み込んで垂らした金髪を揺らし、赤い花が並ぶ辺りを指差して、庭師に指示を出していた。
この温室は、館内に飾る為の花や苗を育てる為の物で、花を愛でてお茶をする温室とは趣が異なる。
普段、領主一家の誰かが訪れるようなことはない場所だが、今日はクラウディア自らが花を選びたいと、ここに来ていた。
「おやおやぁ? お転婆姫が久々においでだぁわい」
「まあ、ネル!」
温室の入り口に、曲がった腰をゆっくりと伸ばす元庭師のネルを見付け、クラウディアはパッと顔を輝かせて駆け寄った。
両手を握り、顔を覗き込む。
「久しぶりね! 元気だった?」
「ほうほう、元気ですわい」
ネルは目を細くして目尻を下げ、心底嬉しそうに頷いた。
「クラウディア様はすっかりおすましお嬢様になったのだとばかり思っておりましたが、こんなところにおいでとは、まだまだお転婆が抜けておりませんでしたかなぁ?」
「あら、ネルだって、隠居とは名ばかりで、今も敷地内をウロウロしていると聞いているわよ?」
ネルがシシシと笑うので、クラウディアは口元に手を当て、声を立てて笑った。
クラウディアは幼い頃、前領主の亡くなった奥方と共に、よく庭師小屋までやって来ていた。
大奥方は花が好きで、育つ過程も見たいからと時々足を運んでいたのだが、クラウディアはそれに付いて来ては、土をいじって泥だらけになったり、虫を見付けて観察したりしていたのだ。
そうして庭師の間でこっそり付けられたあだ名が、“お転婆姫”だ。
大奥方が許し、領主夫妻も知らない、秘密の呼び名だった。
「今日はどうされましたかな? 暫くは、こんな所まで来られておらなんだと思っておりましたが」
ネルは腰を曲げ、下からクラウディアの顔をそろりと見上げた。
昔はお転婆だったとはいえ、今はすっかり淑女となったクラウディアだ。
ここ数年は、寄宿学校から帰宅している間も、庭師小屋に近付くようなことは一度もなかった。
「ええ、久しぶりに来たわ。お父様とお母様のお部屋に飾るお花を選びたかったの」
国主の新年祝賀式典に参席する為、領主館を留守にしていた領主夫妻が、今日帰って来る。
クラウディアは、両親の私室に飾る為の花を選んでいるのだった。
「こんなことが出来るのも、後少しでしょうから」
クラウディアは軽く微笑んだ。
今年の五月、クラウディアは学校を卒業する予定だ。
十六歳の誕生日を迎え、成人と認められるからだ。
そして、その日を待たずして、既に数件の縁談が申し込まれている。
それゆえに、卒業後ゆっくり領主館で過ごす時間がそれ程にはないかもしれないと、クラウディア自身が覚悟しているのだろう。
「クラウディア様のお嫁入りまで見られるかもしれんとは、
「ふふ、ネルったら!」
二人が温室の入口側で再び笑いあった時、一人の青年が外から顔を覗かせた。
「じいちゃん、隅に貯めてある落ち葉なんだけど……、あっ、お嬢様! 失礼しました!」
泥のついた大きな前掛けを着けた青年は、クラウディアに気付くと、サッと姿勢を正して頭を下げた。
「……ニコ、久しぶりね」
「はい、お嬢様」
名を呼ばれた青年は、顔を上げると焦げ茶色の瞳を細く細くして、ネルによく似た人懐っこい笑みを見せる。
ネルの孫で、やはり庭師として働いている彼は、クラウディアよりも六つ程年上だ。
クラウディアが寄宿学校へ入学する一年程前から領主館で働き始めた、一番若手の庭師だった。
「落ち葉がどうしたってぇ?」
「ああ、アントニー坊ちゃんが少し欲しいって仰ってて」
「落ち葉をかい?」
「そう。ダンゴムシをさ、部屋に連れていくのは諦めて、寒くないように落ち葉をもう少し掛けてやりたいんだってさ」
「へえぇ〜」
ニコとネルはクラウディアに挨拶をして、温室の外で待っていたアントニーとコリーの方へ向かった。
クラウディアは中断していた花選びを再開すると、選んだ花を館内に運んでおくよう頼み、温室の入口に佇む。
アントニーが気付いて手を振ったので、笑顔で手を振り返した。
そのまま、アントニーが落ち葉を指差して、ニコやネルと話をしているのを黙って眺めていた。
思い出すのは、祖母と共にここで過ごした時間だ。
優しい祖母。
親しみを持って接してくれる使用人達。
穏やかで、健やかな時間。
何の不安もなく、未来には光だけがあり、ずっと
視線を落とせば、温室の外の畝には、色とりどりの花が咲いていた。
赤、青紫、橙、桃……その中に、一輪だけ咲いた白の花弁から、クラウディアは目が離せなかった。
庭師小屋の方へバケツを取りに行ったニコは、アントニーの方へ戻ろうとして、花の前にしゃがみ、手を伸ばそうとしているクラウディアに気付いた。
急いで駆け寄って声を掛ける。
「お嬢様、お待ちを! その花は、素手で触ると荒れることがあります」
振り返ったクラウディアと、視線が合わさった。
いつも聡明な深い空色の瞳が、心細く揺れている。
ニコは驚いて足を止めた。
「……どうしました、お嬢様。この花をご所望でしたか?」
「いいえ。……要らないわ。見ていただけよ」
「そう……ですか?」
「ええ。アントニーのところへ行くのでしょ、早く行ってあげて?」
言って立ち上がった彼女は、いつもの様子で微笑んでいた。
去って行くニコとすれ違いにネルが戻って来ると、クラウディアはポツリと零す。
「私、男に生まれたかったわ……」
「クラウディア様」
「そうすれば、どこへも嫁いで行かずに、ずっと
心配そうに見上げるネルに気付き、クラウディアはふと笑う。
「ただの戯言よ。忘れてね、ネル」
クラウディアは両手を腰の前で合わせ、美しい姿勢で歩き出す。
腰の側で揺れる金の髪は、数ヶ月先には毎日結い上げられ、人前では二度と揺れることはない。
温室の側で、並ぶ花々の上を弱い風が吹いていく。
プリムラ・オブコニカ。
一輪の白い花は、クラウディアの密かな心を宿して震えていた。
《 置いていく心/終 》
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