《密話休憩》午睡の後味
「オルガ、休憩行くなら、ついでに
「え?」
年が明けて三日目。
午後の厨房で、休憩に入る為に前掛けを外していた女料理人オルガは、空の鍋を抱えて歩いていた副料理長に言われて眉根を寄せた。
「ついでって……、今日料理長は宿舎に戻って寝てるんでしょ?」
「そうそう」
「じゃあ、そっちに戻る人に頼めばいいじゃない」
使用人宿舎は男女で分かれており、離れた場所に建っているのだ。
「まあそうだけど、ほら、ねえ……?」
副料理長が苦笑いでオルガの隣に視線をやる。
オルガは、隣で共に前掛けを外していた製菓担当料理人のマルタンを見た。
目が合ったマルタンは、丸っこい身体を小さくして、ぎこちなく目線を逸らす。
料理長が仮眠の寝起きに機嫌が悪い……、いや、目付きが悪すぎて機嫌が良くないように見えるのは、厨房の皆が知るところで、誰も彼を起こしたがらないのだ。
彼に睨まれずに起こせるのは、婚約者であるオルガだけ。
それもまた、皆の知るところだ。
「もう。分かったわ」
オルガは肩をすくめてから、厨房の裏口を出た。
年末年始の食事には、様々な決まり事がある。
年末の数日と、年が明けて五日間の祝日の間で、必ず食べなければならないもの、食べてはいけないもの、順に食べるものなど、普段の食事とは違う注意が必要だ。
それに加え、年末には領主の仕事を補佐する文官達の労いの食事会があり、年始には来客に祝い菓子を配る習慣がある。
つまり、一年で厨房が一番忙しい時期が、年末年始というわけだ。
この時期、どうしても仕事量の増える料理人達は、昼間の休憩時間を普段より長めに取って、交代で仮眠を取ることになっていた。
宿舎に部屋があるものは自分の部屋で。
通いの者は、用意された仮眠室で休む。
普段は薄暗くて静かな穀物倉庫で休んでいることが多い料理長も、この時ばかりは自室に帰って眠っていた。
オルガは男性用の使用人宿舎に入り、通い慣れた料理長の部屋の扉を開ける。
厨房仲間が順に起こすため、この時期の仮眠では、鍵を掛けない者が殆どだ。
部屋には、ベッドと小さな机と椅子、簡素なクローゼットがある。
これらは、どの部屋にも据えられているものだ。
見える範囲での料理長の私物といえば、机の上と足元に積まれた本だけで、その本は全て料理に関するものばかりだった。
机の上には小さなランプと、なぐり書きされた更紙が数枚。
それもレシピを考えている途中のもののようで、オルガは近付いて折れた紙の角をそっと伸ばした。
ふと、椅子の上の畳まれた膝掛けが目に入る。
綿入りの温かな膝掛けは、少し前の聖夜に、オルガが贈ったものだ。
机の上の更紙は乱雑に置かれたままなのに、膝掛けがきちんと畳まれていることが嬉しく、オルガは微笑んだ。
「……もう時間か?」
気配に気付いたのか、ベッドから料理長の掠れ声がした。
「ええ、交代の時間です」
料理長が目の上に腕をやるのを見て、オルガは彼の目が影になるよう、手を伸ばした。
料理長は光過敏症気味なのだ。
途端にその手を掴まれて引かれ、オルガはベッドに倒れ込んだ。
起き上がった料理長の胸に、そのまま強く抱き込まれる。
「あっ、……料理長…ちょっ……」
「少しだけ」
彼の声が耳に低く響いて、オルガは息を呑んで口を閉じた。
調理服を脱いで薄いシャツ一枚だった料理長の胸も腕も、眠っていた為か、直に触れているように熱い。
感じる体臭は普段より濃いが、いつの間にか側にあると落ち着く香りとなって、オルガの中に定着している。
オルガは無意識に、薄いシャツをギュッと握っていた。
久しぶりに抱きしめてもらって、嬉しい。
結婚を決めてまだ日は浅いというのに、最近は忙しい日が続いて、二人の時間なんてなかったのだ。
「もうすぐ結婚式だな」
「……そうね」
「ここで過ごすのも、後少しか……」
二人はもうすぐ、街の教会で結婚式を挙げることになっていた。
その後は、領主館の近くに借りた小さな一軒家に引っ越す。
料理長は見習いで厨房に入ってから、約二十年、この宿舎で暮らして来た。
そこを出るとなれば、なかなか感慨深いものがあるのだろう。
オルガを抱きしめたまま、思いに耽っていた料理長は、オルガの手から力が抜けていくのに気付いて、下を向いた。
疲れが溜まっているのだろう。
彼女が自分の腕の中でウトウトし始めたことに気付き、苦笑いした。
「オルガ、ここで眠るな」
「…………ん」
軽く揺すっても力の入らない身体。
完全に気を許していることが分かり、嬉しくはあるが、……無防備過ぎて少し腹立たしい。
料理長は、深く息を吐く。
そして、オルガの耳に息の掛かる距離で囁いた。
「……抱くぞ」
「っ!!! だ、だめっ! 仕事!!」
一気に覚醒して真っ赤になったオルガが、ベッドから跳び下りた。
くっと笑って立ち上がると、料理長はベッドの縁に掛けてあった調理服を羽織って袖を通す。
からかわれたのだと分かったオルガに、パシパシと背中を叩かれながら、料理長は午後も気分よく仕事を始められそうだと思った。
《 密話休憩/終 》
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