第3話 いずれ生命に ⑴
領主館の通用門から出ていく一人の男を、元庭師のネルは、腰を伸ばしながら見つめた。
大きめの鞄を一つ抱え、簡素な外套を着ているところを見るに、領主館に勤めていた使用人が、ここを辞めて出て行くところなのだろう。
ここ領主館には多くの者が働いているが、それらの者達が、皆長く続くわけではない。
それぞれの事情で辞める者もあれば、雰囲気や仕事内容が求めるものと合わずに、辞めていく者もいる。
そういう者は大概、こうして少ない荷物を抱えて、通用門から領主館を後にするのだ。
ネルがゆっくりと庭師小屋の方へ歩いて行くと、向かいから、調理服を着たひょろりと背の高い男が歩いて来た。
厨房の副料理長だ。
彼はネルに気付いて笑顔になると、軽く手を上げた。
その手には、更紙に巻かれた香草がある。
庭師小屋の側にある畑で、料理に必要な香草を採って来たのだ。
「ネル爺、また来てたの」
「おうおう、そうだよぅ」
「何? 若い奴らがちゃんと庭園管理出来てるか、心配なの?」
「いんや? 今の庭師らには、ぜ〜んぶ安心して任せられるよぅ。ただ
ネルは、もうとっくに庭師を引退しているが、度々領主館の裏に姿を現すので、皆慣れっこでこんな対応だった。
副料理長は長い身体を軽く折って、ネルに顔を近付ける。
後ろに一つ括りした焦げ茶の髪が、尻尾のように揺れた。
「じゃあ、ちょっと厨房寄っていきなよ。ハイスがさ、クッキーの試作焼いてたよ」
「そりゃあ魅力的なお誘いだぁ」
嬉しそうに揉み手をして、シシシ、とネルが笑った。
前歯が抜けた穴から息が漏れるので、そんな笑い声になるのだ。
ハイスは、製菓担当料理人の一人だ。
彼が新しい菓子を試作すると、意見を聞く為に厨房の料理人達に試食してもらうのだが、タイミング良く厨房に用があってやって来た使用人達も、その恩恵を受けることが出来るのだった。
「そういえば、さっき一人通用門から出ていったなぁ。あれは厨房の若いのじゃなかったかい?」
歩調を合わせて隣を行く副料理長に問えば、副料理長は軽く眉を上げる。
それなりに整った容姿の彼は、その仕草が様になった。
「よくわかったね、さすがネル爺」
「ワシもまだボケちゃあいないみたいだなぁ」
ネルはシシシと笑ったが、曲がった腰をほんの少し伸ばして、自分よりも随分高い位置にある副料理長の顔を、下から覗き込んだ。
「見送りが一人もいなかったってことは、何やら揉めて辞めたのかい?」
「あ〜……、まぁね。
副料理長は、顎を搔いて苦笑いした。
先代の料理長が病気で引退を余儀なくされ、今の料理長に代替わりしたのは五年前のことだ。
この領主館の料理長としては歴代最年少、三十三歳での抜擢だったが、前料理長の推薦と、前領主夫妻の快諾を以って就任した。
彼の実直な性格と、料理に向き合う姿勢、その見た目からは意外に思える程の繊細な仕事ぶりに、彼に憧れ、目標にして働く料理人も多い。
しかし、物事には、沿うものがあれば反れるものもあるのが常だ。
人間同士なら、尚の事。
料理長が前料理長から受け継いだ、昔ながらのやり方を理解せず、反発する料理人もいる。
ましてや、料理長は目付きが悪く、表情も乏しければ口数も少ない、厳つい男だ。
取っ付きにくさはピカイチと言えようか。
八方美人…いや、気配り上手な副料理長が側にいて、厨房が上手く回っている部分も多かった。
二人が歩く通用路の先に、厨房の裏口が見えた。
大きく突き出した軒の下で、ちょうど下働きの下女と下男が、芋の皮を剥いているところだった。
よく見れば、その中に一人だけ、調理服を着た女性が混ざっていた。
赤茶色の髪をキツめのシニヨンで纏めた、小柄な女料理人。
ベーカリー担当のオルガだ。
毎日大量に使われる芋などの野菜は、仕入れ業者や契約農家から届けられ、ここで土を落とし、下働きの者達の手で皮を剥かれる。
しかし、厨房の料理人達は役職に関わらず、約一ヶ月に一度ほど、必ずその皮剥き作業を共にすることになっていた。
“初心を忘れるべからず”
これは、前料理長から受け継いできた決まり事だ。
そして、今回辞めることになった料理人が、料理長と揉めることになったきっかけでもあった。
《 つづく 》
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