第8話 言語学習と襲来




  ◇◇◇



 ――船上



「れ、れくえんいんてぃらるーのぼいもるぇん(はじめまして、俺は“レヌ”です)」


「……ぉ、惜しいです! レイさん! “ボイ”ではなく“ボクェ”で、“レイ”となります!」


「……れくえんいんてぃらるーのボクゥもるぇん(はじめまして、俺は“レキュ”です)」


「お、惜しいです! 本当にあと少しですよ! “ボクェ”! はい、一度言ってみましょう!」


「“ボクェ”(レイ)!! る、ルーノボクェ(俺レイ)!!」


 俺が言い終わると、ティアテラはじわりと涙を滲ませてパチパチと大袈裟に拍手をする。



「そうです! もうそれで行きましょう!! それでも伝わりますからね! 大丈夫です!!」


 

 必死に励ましてくれるティアテラ。

 彼女は本当に根気強く親身になって出来る限りのことをしてくれている。



「…………そ、そうか。ありがとな、ティアテラさん」



 俺は苦笑しながら言葉を返し、ふぅ〜と一つため息を吐く。


 言語習得を始めて、1ヶ月。


 俺たちは基本となる文字と発音を一通り教えてもらい、「会話で慣れていきましょう!」という段階に進んでから2週間……。


 居合わせた奴隷たちはもちろん、今では密売人たちも解放して順調な船旅となっている。


 反感などもあったのだろうけど、ティアテラが上手く話をまとめてくれたようで、密売人たちとの関係も修復され……というより、化け物を見る目で俺に恐怖しているみたいだ。


 念のためというか、船上には“お嫁さんの小魚”……つまり恩恵(ギフト)【雑魚】を使用して船内を見回っているので、大きな問題はない。


 俺は『言語習得に集中するぞ!』と必死に勉強を開始した。今後のために必要不可欠な言語。グリーが残してくれた最後のプレゼント。


 俺は必死に……。少しもサボっていない。

 寝ても覚めてもティークエン語のことを考えている。



 それなのに……、



「……旦那様。ゆっくりで構いませんよ? まだ2ヶ月ほどは船の上です。焦らず、ゆっくり習得していきましょう?」



 この可愛らしい女神のような俺のお嫁さんは、同じ授業を受けていたはずなのに、すでに言語習得をしているのだ。


 日常会話の段階なんてあっという間だった。今はティークエン語で書かれた本を読み、午後からは文章を書く段階に入っている。


 わからない単語をティアテラに聞くだけ……。


 彼女は俺のように一度教えてもらったことを、二度教えてもらうこともない。


 まさに天才だ。圧倒的に俺とは頭の出来が違う。その上、美しい。おまけに強い。

 

 こんな素晴らしい女性が俺のお嫁さんだなんて本当に申し訳ない。



「お嫁さん……。ありがとう。なんだか悪いな。こんなバカが旦那だなんて……」


「謝罪なんて受け付けません……。一生懸命に努力されている旦那様を恥ずかしくなんか思いません。とても好ましく思っていますよ……」


 お嫁さんは真っ赤な無表情で呟き、スッと俺の手に自分の手を重ねたかと思えば、フイッとそっぽを向く。


 陽の光を受ける艶やかな黒髪の隙間から真っ赤な耳が顔を出し、手からは温もりが伝わってくる……。



 ――表情には出てくれないので、行動と言葉で旦那様への気持ちをお伝えできればと……お、思います。は、恥ずかしくて上手くできるかはわかりませんが……。



 ぅん……。ちゃんと伝わってるぞ。

 本当にありがたい……。

 ったく……、俺はなんて幸せな男なんだ。



 ギュッ……



 俺が手を握り直すと、お嫁さんはピクッと肩を揺らす。さらに赤くなった無表情がこちらを向くと、愛おしくておかしくなってしまいそうだ。



「お嫁さん……」


 

 彼女を呼び、顔を寄せる。



「だ、旦那様……」



 彼女は恥ずかしそうに俺を呼び、スッと瞳を閉じる。




「コ、コホンッ……」



 わずかに聞こえた咳払いにハッと我に帰るが……、



 ズワァアッ……



 途端に周囲は色とりどりの小魚ドームに包まれる。その幻想的な世界の中で、瞳を閉じたままのお嫁さんはさらにギュッと目を閉じる。



 キュゥウウウウンッ……



 ぬ、ぬぉぉおお……!!


 お、俺はそのうち死ぬかもしれない。

 きっと胸の中に“なにか”が棲みついている。



 ちゅっ……



「んっ……」


 柔らかい唇に自分の唇を合わせると、小さく吐息を漏らす。彼女の長いまつ毛がくすぐったい。さらに握りしめられた手と、俺の服を掴む手の感触。


 ……その全てが愛おしい。

 もっと深くまで欲しくなる。



 クチュ……



 半ば無意識に舌を差し込めば……、



「んっ……!!」



 パァッー!!



 甘い吐息と共に小魚ドームが弾ける。

 俺が(や、やりすぎた!)と焦って顔を離せば、見たこともないほど真っ赤になっている無表情のお嫁さんが、ピシッと固まっていた。



「ぁっ、ご、ごめん!」


「ぃ、ぃぇ……」



 瞬き一つしない真っ赤なお嫁さん。


 これほどまでに無防備な姿を見たことがない俺は、(も、もう一回キスしてもいいのかな?)なんて、ゴクリと息を呑んだのだが……、



「レ、レレレレ、レレレレレイさん!!」



 ティアテラの声に邪魔をされる。

 その鬼気迫った声色に「ん?」と違和感を覚えた瞬間に、周囲が悲鳴と絶叫に包まれていることに気がつく。




 ザパァアアアアッ!!!!




 背後で鳴った水飛沫の音と共に“ソイツ”は現れた。



「なっ…………、なんじゃこりゃあああ!!」



 俺は絶叫した。

 絶叫せざるを得なかった。



 姿を見せたのは見たことも聞いたこともない生物。顔を出しているだけで10メートルはありそうな蛇のような化け物。白の鱗に鋭利な牙。馬の立髪のような白い毛が生えている巨大な蛇がそこにはいた。



「お、お嫁さん!! めちゃくちゃデカい化け物が出たぞ! す、すごいなっ! なんだ、コイツ!!」



 俺は興奮のままにお嫁さんに声をかけるが……、



「……旦那様の舌が……。熱くて、柔らかい……舌が……ゎ、私の中に……」



 お嫁さんの思考は完全に先程のキスに包まれている。



(…………ぇっ? めちゃくちゃかわいいんだが……?)



 ゴクッ……



 俺は息を呑んだ。

 引き寄せられるように顔を寄せる俺だが……、



 ペチンッ……!


 ティアテラに頭を叩かれる。



「こ、こんな時になにをしているんですか!! 海蛇(シーサーペント)ですよ! 早く対処しなければ船を沈められちゃいます!!」


「えっ? あ、ぁあ!!」


「は、早く食糧庫に行きますよ!! “アリーシャさん”も正気に戻してください!!」


「“アリーシャ”……?」



 呆気に取られる俺を他所に、ティアテラは走り去っていく。

 


「たにぃてきうくはっ!!」

「なるりゅーりとっば!!」

「がでんぴーらくれっぞ!!」

「さばんてきうくはっ!」

「がでんぴーらくれいわ!!」



 悲しいかな……、化け物襲来で騒がしい船上の声は、一言も理解できなかった。












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