私のおっさんとフリーメイソン
久里 琳
第1話 ママ
ママが死んだ。
余命宣告されていたから頭では覚悟していたとはいえ、いざお棺のなかで目をつむって動かないママを見ると涙がぼろぼろこぼれるのを止められなかった。ふだんクールな私が先生や同級生たちのまえで顔をくしゃくしゃにする姿を見せてしまったのはあとから考えると不覚の極みで気恥ずかしさを感じなくもないが、この状況で泣くなというのは無理ってものだ。泣くなといったのはママだった。
ママは気丈なひとだった。いや――この表現はまちがっちゃいないがへたすると彼女に対する印象を誤らせてしまうかもしれない。だがまあ話を先へ進めよう。
癌が見つかったのが半年前で、そのときには医者も手のほどこしようがなくなっていた。告知を受けたその日のうちに、ママは私にその事実を告げた。
「だいじょうぶ。死んだあとのことぜんぶ手を打っておくから心配いらないよ。
茫然としてなにも考えられないでいる私に、ママはいつもみたいにわらって言った。いつもどおりのどっしり頼りがいある笑顔とマシンガントークだった。
おかげで余命宣告のニュースからなにがしかの感情が湧きあがってきたのはママが風呂に入っているあいだのことだ。ママはいつもの調子で鼻歌をうたいながらバスルームに消えていった。私はいつものように数学の問題集をひらいた。ママの邪魔が入らないところで数学の問題を解くのはむかしっからの私のくせだ。ママは私より先に解いてしまううえ、その解法を得意顔で私にバラしてしまうという、悪趣味なクセを持っていたから。
いつもならたいていママのいない
「泣くのはやめな」
と頭のうえから声がして、ママが私の髪をくしゃっと撫でた。見あげると、髪にタオルを巻いたママが立っていた。
「泣いてる間に脳みそ動かすとかからだ動かすとかする方が何倍かいいよ。泣いてもママの寿命は延びないし末葉のおっぱいもふくらまないし。ほんと泣いていいことなんかなんにもないんだから」
でも泣かずにいられないときってあるよね。てことは泣くってことになにか効用があると思うんだ。そのときそんなに考えが整理されていたわけじゃないけどとにかく腑に落ちなかったからなにか言い返そうとして、とたんにまた涙がこぼれ落ちた。
「しかたないなあ」
ママは真んまえにどんとすわって私の顔をまっすぐ見すえた。風呂上がりのママはそのとき、我が母ながらうっとりするほどきれいに見えた。
「人間、いつかは死ぬの。できればもっとあとなら良かったと私も思うけど。末葉の花嫁姿も見たかったし、せめて成人するのは見とどけたかったよねえ」
ちょっとしんみり諭すママに、私はだまってうなずいた。なにか言うと泣き声になりそうだった。ところがママはいたって平気で、氷の入ったグラスにウィスキーを壜からどぽどぽ注ぐと、指をつっこんでくるくるまわした。エアコンでほどよくあったまった部屋に、氷のぶつかる高い音がからから涼しくひびいた。
それからきっちり半年、いまは梅雨明けの暑気のまっさかりだ。
今日の十四時、ママの九割ばかりは煙になってしまって、のこりの白い灰が入った箱はなんとなくテレビ台のうえに置いてある。うちには仏壇も神棚もないし、二人用の食卓に置いたらうっかりなにかの拍子に倒してしまいそうだしまさか冷蔵庫に入れるってわけにもいかないし、その点ふだん近づくことも触れることもなさそうな、それでいていつも目にするわけだしテレビ台というのはさしあたりの置き場所としてわるくないアイデアだと思うのだ。
じっさいテレビを見てるといっしょに白い絹の袋に入ったお骨箱が目に入るというのは、いまの私の望みを的確に反映していると思う。
まるっきり信仰心のない私は位牌に線香を立てるどころか手を合わせることさえないけど、それでも毎日見てあげないとママもかわいそうだと思う。この世に母子ふたりっきりだったから、私が想ってあげなかったらほかのだれがママのことを思い出してあげるだろうか。
ママがこの世からいなくなってはじめての夜だ。
十一階のベランダの外で、不穏な風の音が鳴る。今日からひとりで生きていくんだと思うと心ぼそく、さびしい。でももう泣きはしない。めそめそしたってママは帰ってこないしだれも助けちゃくれない。この割りきりの早さはやっぱりママ譲りだなあと苦笑する。そんなこと言って、ついまた泣いちゃうかもしんないけどね。
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私のおっさんとフリーメイソン 久里 琳 @KRN4
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