第3話 ただ、ここにいる

夜の湖畔は静寂に包まれていた。霧が薄れ、満天の星空が広がる。二人はベンチに並んで座り、寄り添うようにして空を見上げていた。寒さを感じるはずの夜風も、不思議と冷たくなかった。


「ここに来てよかった。」彼女が静かに呟く。


「僕もです。」彼の声は穏やかで、どこか安堵の色が混じっていた。


二人はこれまで多くを語り合っていない。それでも、この空間と時間の中では、言葉がなくても十分だった。忙しい日常の中では、こんな風にただ「いる」だけの時間は許されなかった。けれど、ここでは違う。何かをしなければならない義務感も、時間に追われる焦燥感も、すべてが薄れていく。


ふと、彼が言った。


「不思議ですね。何もしていないのに、こうしているだけで、こんなに満たされるなんて。」


「本当に。不思議です。」彼女も静かに答えた。


言葉が途切れると、二人の間にまた沈黙が訪れた。しかし、それは重苦しいものではなく、むしろ心地よい静寂だった。やがて彼が彼女の肩にそっと手を伸ばし、軽く触れる。彼女はそれを拒むことなく、彼の肩にもたれかかった。


互いの存在を感じながら、二人はただ静かに寄り添った。そのぬくもりが、言葉以上の意味を持つように感じられた。彼の手が彼女の手に重なり、互いの指が絡み合う。それ以上の行為はしない。ただ触れ合い、相手の存在を感じるだけで十分だった。


「このままずっと、ここにいられたらいいのに。」彼女がぽつりと言う。


彼は少し笑い、「そうですね。でも、現実は待っている。」と応えた。その声には、切なさと諦めのような響きがあった。


夜が明け始め、湖の周囲がほんのりと明るくなる。二人はようやくベンチから立ち上がり、車へと向かった。朝の空気は冷たく、少しだけ現実感を呼び戻す。


車の中でも、二人はほとんど言葉を交わさなかった。ただ、先ほどまでの静かな時間をそれぞれ噛み締めていた。


カフェの近くまで戻ると、彼が車を止めた。彼女が降りるとき、彼が短く言った。


「もしまた、疲れたら。ここに戻ってきましょう。」


彼女はその言葉に頷き、「そのときはまた、ここで会いましょう。」とだけ答えた。


彼女が車を降り、静かに手を振ると、彼は微笑み返して車を走らせた。その姿が通りの向こうに消えるまで、彼女は立ち尽くしていた。


エンディング


雨上がりの街は、いつもの喧騒に戻っていた。彼女はカフェの窓を見上げると、ふと微笑みながらその場を後にする。忙しい日々に戻るために足を踏み出したが、心には静かな夜の記憶が残っていた。


「また、あの場所で何もしない時間を持てたら。」そう思いながら、彼女は歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

もしも。何もしなくて良いなら 星咲 紗和(ほしざき さわ) @bosanezaki92

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ