第2章
第1話:夜天衆
街の喧騒に溶け込むように歩く。
私の存在など誰も気に留めない、そうした距離感が心地良い。
歳月が流れるにつれ、人々はこの異質な装いにも慣れたようだ。
しかし、今日は少し違っていた。
ある若者の視線が、私の側に漂っているのを感じ取った。
彼は特に隠そうともせず、私を観察していた。ひどく無防備で、率直な視線——どこか懐かしさすら感じる。
それがどうしてなのか、自分でもわからない。
「……ふむ」
小さく息をつき、彼に視線を投げかける。
瞬間、彼は驚いたように目を見開いたが、私がそれを意識していることには気づかないまま、視線を外し去っていった。
少し妙な感覚が残る。あの青年の視線には、単なる興味以上のものがあった。
彼の中にある強い好奇心や生きる楽しさが、まるで手に取るように感じられる。
かつて私が守ろうとした人々も、皆こんな目をしていた。
私はふと、過去の光景が頭に浮かぶのを感じ、足を止めた。その記憶は古いもので、既に遠い幻のようにも思える。
しかし、時折こうして目の前に突きつけられるたび、心が揺さぶられる。
――貴方が守るべきものは何ですか?
ふと耳に甦る声。それが誰の声だったのか、もう忘れてしまった。だが、その問いはいつも私の中にあり続け、私を縛り続けている。
今は、過去とは異なる使命を背負っている。だが、その答えは未だ出ていない。私はただ、与えられた役割をこなすことでしか、この世に存在する意味を見出せないでいる。
「……まぁ良い。あの子もただの人間に過ぎない」
自分にそう言い聞かせ、足を再び動かした。
どうせこの街で出会った者は、すぐにまた別れることになる運命の存在。あの少年も例外ではない。
やがて、私は人々の視線から薄れるように、街の喧騒に完全に姿を消していった。
その夜、私は街の隅にある古びた廃屋の屋根に腰掛け、満月を見上げていた。
夜風が肌を撫で、長い髪をゆるやかに揺らす。人間たちが夢に落ちているこの静けさは、私にとって何よりの安息だった。
しかし、どうにも心が騒がしい。
「……ただの人間に、過ぎない」
そう自分に言い聞かせても、昼間のあの青年の目が脳裏から離れない。
あの目には、かつての自分が守りたかった、今を楽しんでいるという人間らしさが確かにあった。
それをもう一度目にしてしまったことが、私の心に微かな波を立てているのかもしれない。
かつて、私の全ては『夜天衆』の前身である『黄泉』だった。
妖魔から人々を守り、人間社会の陰に隠れた暗部を操り、秩序を築くこと。それが、私の使命だった。
誰もが私たちを恐れ、遠ざけたが、その冷たい視線の先には、安定をもたらす守護者としての役割があった。
それこそが私の生きる意味であり、心から信じられるものだった。
しかし、気が付けば、その意味を見失いつつある。
裏切りにより、家族や仲間を失った時、私は自問したのだ――この世には、本当に守るに値するものがあるのかと。
人々は私たちを「化け物」と呼び、恐れた。ならば、私たちが力で支配すればよい。そうすれば、何も失わずに済むのだから。
――貴方が守るべきものは何ですか?
あの問いが、私の胸を抉るたびに苛立つ。
まるで、かつての何かが私の心の隅で抗っているかのように。
ふと月を見上げ、目を閉じる。夜空に浮かぶ満月が、まるで答えを知っているかのように淡く輝いていた。
「……愚かな、ものよ」
自嘲気味に呟き、冷たい夜風に身を委ねた。この先、あの青年のように、私に忘れかけていた何かを思い出させる存在が現れるのだろうか。
それが吉と出るか、凶と出るかはわからない。
しかし、もしも再び出会うことがあれば、その時こそ確かめさせてもらおう――私が守るべきものが、まだこの世に残っているのかを。
背後から微かな足音が近づく気配がした。振り返ると、そこには『夜天衆』の同志が立っていた。
彼もまた、私と共に『黄泉』の創設に関わった古い友だった。
「寧々、計画を始動する時が来た」
「そうか……もうそんな時か」
「奴らもここまでだ。憎き政府の犬どもを根こそぎ狩る。今日までお前が捕らえ、温存してきた妖魔たちを解き放つのだ」
私の影に閉じ込められた無数の妖魔たち。
その数は千を超え、並みの人間では太刀打ちできない特級や一級も含まれている。その力を解放する時は近い。
彼が視線を後ろに向けると、そこには緊張と期待に満ちた異能者たちが、命令を待っていた。
全ては、『夜天衆』が支配の座に君臨するために。
そして、私自身もまた、心の曇りを晴らすために。
「――さあ、力による支配の幕開けだ」
彼の言葉が夜の静寂を切り裂き、異能者たちがひとつ、またひとつと影に溶け込むように動き始めた。
私もその一員として、一歩、闇の中へと足を踏み入れる。
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