花になった貴女へ

チドリ正明

 結花が誰かに何かを言われていた。


 何かが床に落ちる音がした。


 誰かのくすくす笑う声が聞こえた。


 教室の風景は、いつものそれだった。

 黒板には先生が書いた文字が並び、生徒たちのざわめきが響いていた。

 誰かが教科書をめくる音。鉛筆の転がる音。

 そして、教室の隅で結花が泣きそうな顔をしている。


 結花の周りの席の子たちは先生にバレないように、彼女に小声で悪口を吐き捨てたり、ちぎった消しゴムを投げてみたり、彼女の嫌がることを進んでやっていた。


 これは日常の光景だった。


 私はノートを見つめるふりをしていた。

 耳に入ってくる声の一つ一つが、肌に刺さるような感覚を覚えながらも、何もしなかった。

 いや、何もできなかったと言い訳するのが正しいのかもしれない。


 結花は、教室の隅で俯いたまま、床に落ちたノートや文房具を拾おうとしている。

 彼女が落としたわけではない。誰かがわざと手で弾いて、床に散らばしたものだ。


 誰も彼女を助けない。

 それは、もう当たり前のように繰り返されてきた光景だった。


 誰も何も言わない。

 彼女が何をされても、何を言われても、教室のざわめきはいつものままだった。


 先生が見ているうちは、一瞬だけそのざわめきが消えるけれど、それ以外の時間は何も変わらない。


「結花ちゃん、またノート落としちゃったんだ?」


 冷たく響く声。女子たちの笑い声が追い打ちをかけるように続く。


 私はその様子を見ていた。

 だけど、それはまるでテレビの中の出来事のように、どこか遠いものに感じていた。


 手を差し伸べる勇気もなく、自分に何ができるのかも分からず、ただ見ているだけの私。


 それが、私の日常だった。



 

 ◇◆◇◆





 放課後、いつもより遅く教室を出ようとした私の目に、結花の姿が映った。


 彼女は教室の隅で、小さな肩を縮めるようにして座っていた。

 誰もいない教室で、何をしているのかと思った。


 彼女の指先は震えていた。


 机に書き込みをしているわけでもなく、ただ手を宙に浮かせて止まっている。

 その手が、何かを掴もうとしているようにも見えた。


「結花?」


 思わず声をかけた私に、彼女はゆっくり顔を上げた。

 その目には涙が溜まっていた。

 でも、彼女の口元は固く閉じられていて、何かを言いたそうな気配を漂わせながら、一言も発さなかった。


 私は、彼女の目をじっと見つめたまま、足を動かせなかった。何かを聞くべきだと思った。

 でも、彼女が口を開くよりも早く、私の中にある言い知れない恐怖が喉を詰まらせた。


「……何かあったの?」


 やっとの思いでそう問いかけたが、それは残酷な問いかけだった。何かあったかなんて、同じ教室で過ごしている私が誰よりもわかっていた。


 でも、優しく寄り添ってあげられるような言葉が出てこなかった。私の弱さと勇気のなさ、惨めな心が、そんな残酷は問いかけを生み出してしまった。


「なんでもないよ……」


 結花は首を横に振るだけだった。その仕草には、諦めのようなものが滲んでいた。


 ふと彼女の机の上を見ると、私なら耐え難いほど残酷な悪口が書き連ねられていた。

 赤や黒の油性ペンで「死ね」とか「学校に来んな」とか「消えろ」とか、色々と書き殴ってある。


 あまりに酷かった。結花は何もしてないのに。

 最初の頃は文房具を隠したり、ノートに落書きをしたり、ほんの些細な悪戯から始まったのに……。

 今ではそれがエスカレートして取り返しのつかないところまで来ていた。


 でも……私は弱かったし、バカだった。


「なんでもないならいいけど……」


 この時の私の声は、ひどく冷たかった気がする。


 それが、結花に何かを決意させてしまったのかもしれない。

 彼女はこぼれ落ちる涙を拭うと、最後に私に向かって深く頭を下げてきた。


「ごめんなさい。あなたのせいじゃないから」


 結花はそれだけ言い残して教室を飛び出していった。

 私は彼女の背中を見送るだけで、追いかけることもしなかった。

 言葉の意味もよくわからなかった。


 その瞬間、彼女が助けを求めていたことに、私は気づいていなかったのだ。




 ◆◇◆◇




 結花が学校を欠席し始めたのは、その数日後のことだった。最初の数日は、誰も特に気にしていなかった。


「結花、またサボリ?」

「あの子、やっと空気読んでくれたんじゃない?」

「嫌われてるし休んでくれたほうがいいっしょ」


 誰かの言葉に、周囲がクスクス笑う。

 軽い言葉と笑い声が、彼女のいない教室を埋めていた。

 それは、彼女がいるときと何も変わらない日常の延長線上に思えた。


 クラスのみんながそんな様子だったが、私一人だけは心に不安を抱えていた。彼女に対して、あそこで何か言葉をかけてあげられていたら、少しでも寄り添ってあげられたら……なんてことをずっと考えていた。




 やがて、結花の欠席が一ヶ月、二ヶ月と続くにつれ、笑い声は次第に薄れていった。

 彼女の席をチラリと見る生徒が増え、誰もが何も言わなくなった。

 時折、未だ彼女をストレス発散の掃き溜めにしている子が文句を言ったが、ほとんどの人は口をつぐんで黙り込んでいた。

 みんな結花のことがほんの少しだけ心配だった。

 けれど、誰も彼女に連絡を取ろうとはしなかった。

 

 先生でさえ、「あいつ体調不良って言ってたけど、大丈夫かな?」と、特に気にせず軽く流すだけだった。


 そしてある日の朝。

 一番乗りして教室に入った私の視線が、結花の席で止まった。

 なんと、そこには白い菊の花束が置かれていた。


「え?」


 言葉が詰まった。何も言えなくなった。心に喪失感が宿り、全身が小刻みに震えるのがわかった。

 気がついたらその場に膝をついて、自然と涙をこぼしていた。


 何分くらい経ったかわからなかったが、それから続々とクラスメイトたちが登校してきた。


 みんな結花の机の上の白い菊の花を目にするたび、青ざめた表情で息を呑んだ。

 教室の空気が凍りついたように静かになった。

 けれど、それは時間が経つにつれて、ざわつきへと変わった。


「え、これって、もしかして……」

「……なんで? 誰か何か聞いてた?」


 声が交錯する中で、私は机に伏せて悲しみに暮れることしかできなかった。

 頭の中に響いていたのは、あの日の彼女の震えた手と、泣きそうな目。


 それから、私の冷たい言葉。


 結花とは仲が良かったわけではなかったが、それでも少しは気にかけていた。

 弱い私は助けてあげられなかったけど、きっと誰か優しい人が救ってくれるんじゃないかって思い続けていた。


 でも……現実は違った。


 何かが崩れていく感覚があった。

 結花が助けを求めていたあの瞬間、私がほんの一言、心のこもった言葉をかけていたら、何かが変わっていたのではないか——そんな思いが私を蝕んだ。


 周囲のざわめきの中、ふいに誰かがぼそりと呟いた。


「……結花、結局、誰もあの子のこと、本気で考えてなかったんだね」


 その言葉は、教室にいる全員の心を射抜いたようだった。

 みんなが薄々気づいていた過ち。

 その積み重ねが、この結果を招いたのだという事実を。


 私は、結花の席に置かれた花を見つめたまま、動けなかった。

 頭の中で、あのときの彼女の震えた手と涙が繰り返し浮かんでいた。その花は、私たちが気づかなかった、彼女の声にならない叫びのように見えた。


 

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