第一章 大魔法使いの最愛⑩

 突きぬけるような清涼感のある空気が、体中に染み渡る。

 体がいつもよりも軽く感じる。ここ数日溜まっていた心の淀みまで取り除いてくれているようだ――。


 終年ぶりに感じるその感覚に、思わず涙が出てくる。

 名残惜しく思いながらも、レベッカは礼拝室から出た。


「どうでしたか?」

「とても体が軽くて、最高の気分です!」


 礼拝室の外で待っていたテオドールが、レベッカの返答にまるで自分のことのように嬉しそうな笑顔を見せる。

 すっかりなくなっていたと思っていた神聖力が、どうして戻ってきたのかはわからない。それでもこんなに体が軽いのは実に五年ぶりのことだった。


「それでは戻りましょうか」

「はい」


 テオドールが差し出してくれた手を握り、レベッカたちは応接室に戻った。


 大魔法使いである彼の最愛だと言われた当初は、とてもじゃないけれど信じられなかった。神聖力検査で、部屋の中に満ちる光を目にしていなければ、いまも信じられなかったかもしれない。


(私、本当に神聖力が戻ったんだ)


 ミサンガが自然に切れたら、願いが叶うらしい。

 本当にその通りになったんだとレベッカが幸せな笑みをこぼしていると、背後から突然名前を呼ばれた。


「レベッカ!」


 覚えのある声に緊張して振り返る。そこにはアンリエッタが立っていた。走ってきたのだろうか、額にめずらしく汗が滲んでいる。一緒にいるメイドもどこか疲れた顔をしている。


「……アンリエッタ様」

「そこでなにをしているの?」

「えっと、あの……実は」


 返答に迷っていると、レベッカを庇うようにテオドールが一歩だけ前に出た。


「すみません、お嬢さん。レベッカさんとはこれから大事な話がありますので、お引き取り願えますか?」


 テオドールの愛想に良い笑みは、レベッカに向けるモノとはどこか違っていた。なぜか貼り付けた仮面のように見える。

 繋いでいる手を見たアンリエッタが、眉を顰める。 


「レベッカ、もしかして――。最近おかしいとは思っていたの。用がないはずの本殿を出入りしていたり、王宮魔法使いの方と一緒にいるんだもの。……やっぱり、見つかったのね」


 どこか口惜しそうな顔をしながらも、目の奥の光は消えていない。


「大魔法使いのテオドール様とお見受けします。わたくし、アンリエッタ・シーウェルと申します。――お伝えしたいことがあります」

「おや、よく僕のことがわかりましたね」

「以前に一度だけ、お会いしたことがありますわ」

「ああ、そういえば《最愛》を探している時に……」

「あの時はご縁に恵まれずに、残念でした」

「そうですか。……ところで、伝えたいこととはなんですか?」


 テオドールの言葉に、アンリエッタは水晶のような水色の瞳を閉じた。

 その頬を涙が伝っていく。

 突然の涙にレベッカは狼狽えたが、テオドールの表情は変わらなかった。


「お伝えしたいことというのは彼女――レベッカのことです。わたくしは彼女とは親友でした。レベッカは平民で神聖力も少ないのですが、それでもわたくしたちはとても仲のいい親友だったのです。それなのに――。レベッカは、人の物を盗む泥棒だったのです」


 アンリエッタの訴えに、テオドールの顔から笑みが消える。どこか困ったような顔を向けてくるテオドールに、レベッカは首を振った。違うのだと訴えるように。

 テオドールはわかっているとばかりに温かい笑みを浮かべると、アンリエッタに向き直って応接室に入るように促す。


「詳しい話は中でお聞かせください」

「もちろんですわ」


 嬉しそうにはにかんだアンリエッタが、先に応接室に入って行く。

 テオドールに手を惹かれたレベッカも続いて中に入ると、アンリエッタはまだ涙を流していた。しくしく涙をこぼすアンリエッタに、ベンジャミンが困ったようにハンカチを渡している。


 向かい合うソファーに腰かけると、アンリエッタはその水晶のような水色の瞳でにらみつけてきた。


「レベッカは、ひどい人なのですわ」

「それはどういう意味でしょうか?」


 アンリエッタの言葉に、テオドールが首を傾げる。


「わたくしの亡きおばあ様からもらった大切なミサンガを、先日何者かに盗まれたのです。そのミサンガがレベッカの部屋から出てきたのです。それなのに、彼女はやっていないと嘘ばかりついているのですわ」


 実際にレベッカは、そのミサンガを盗んでいない。どうして部屋にあったのかはわからないけれど、自身が潔白なのはレベッカが一番よく知っていた。


「彼女は神聖力が極端に少なくて、それでも少しでも力になってあげたくて、身分は違いますが仲良くしてあげていたのに。――レベッカは、そんなわたくしの気持ちを踏みにじったのですわ」



    ◇



 しくしくと涙を流しながら訴える水色の瞳を見て、テオドールは内心うんざりしていた。


 十八歳という若さで《大魔法使い》になってから――いや、その前から、自分に向けられる好意とは違う視線。自分の能力だけを求める両親や、魔塔の魔法使いたち。テオドールの才能をを妬んだり、ちょっかいを掛けてくる人々。それから国を裏切った師匠や行方不明になっている弟子。

 そんな人たちと付き合うために得たのが、人を不愉快にしないための処世術である、仮面のような笑顔だった。


 だいたいの人はテオドールの笑顔に安心してくれたり、何を言われても嫌な顔をしないことに侮って相手にする価値もないと判断してくれる。とても都合の良い笑み。


 その都合のいい笑顔を向けられているアンリエッタという少女は、まるでテオドールが味方になってくれるだろうと侮って、振舞っている。それがとても不愉快だった。


「レベッカみたいな卑しい人間が、大魔法使い様の最愛になんて相応しくありません。どうか、考え直してください」


 考え直すもなにも《最愛》は唯一無二の存在だ。たとえ《最愛》となる聖女が卑しい性格をしていたとしても、その代わりになれる者は一人もいない。

 だけどその点、レベッカは違う。彼女は卑しい人間では断じてない。

 獣化していた短い間だったけれど、彼女と過ごしてきたテオドールはそれをよく理解していた。

 アンリエッタという少女も長い間レベッカと一緒にいたというのに、彼女にはわからなかったのだろう。


 すうっと目を細める。獣化している時からもしかしたら本能的に感じていたのかもしれない。

 アンリエッタという少女の神聖力。それは、少し歪な色をしている。


「そうですか。あなたの話は分かりました。レベッカさんの部屋からほんとうにミサンガが出てきたのであれば、疑うのも無理はないでしょう」

「ええ、本当ですわ。わたくしはレベッカを信用していたのに……。レベッカは、それを裏切ったのです」


 またしくしく涙をこぼすアンリエッタ。その見え透いた演技に、不安を感じているレベッカがすがるような瞳で見てくるので、安心させる意味も込めて微笑む。なぜだかわからないけれど、彼女に向ける笑みは仮面ではなく心の底から湧き上がってくるから不思議だ。


 だが、いまのところレベッカの無罪を晴らしてあげる、明確な証拠はない。

 彼女がやっていないのは傍にいたテオドールが一番よくわかっているのに。それが少しもどかしい。

 きっとアンリエッタは、メイドに頼んでさもいま引き出しからミサンガが出てきたように見せかけたのだろう。おそらくミサンガを服の袖に隠していたとか、簡単なトリックだ。

 もしそこにテオドールがいれば、彼女の罪は簡単に晴らせたかもしれない。だけど、あのとき居たのは獣化したテオで、その時の記憶はあまりない。泣いている彼女にビスケットを勧めたのは覚えているのだけれど。


 でも、真実を明らかにする方法は他にもある。

 真犯人の自白だ。

 アンリエッタとそのメイドに自白を強要する方法はある。だけど、それをレベッカが受け入れてくれるかわからない。下手したら嫌われる可能性があるから安易に使えない。


(嫌われるのは、嫌ですね……)


「どうして、アンリエッタ様……」


 微かに聞こえる、最愛の囁き。

 なぜかテオドールの胸が締め付けられる思いがする。


 なぜアンリエッタが、レベッカに盗人の汚名を着せたのか。

 テオドールは何となく、それを理解していた。

 

 おそらく、レベッカが欠陥のある《聖女》であると、周囲――それも彼女の《最愛》になるかもしれない魔法使いに知らしめよとしていたのだろう。

 そうする理由も、もう察しはついている。

 アンリエッタが、さっきからずっと隠すように握っている右手首。


 いくら隠そうとしていたとしても、大魔法使いにとっては一目瞭然だった。


「シーウェル嬢。すこし、手を見せていただけませんか?」

「手、ですか?」


 そう恐るおそる差し出してきたのは、左手だった。


「両手を見せていただけませんか?」

「なぜですか?」

「僕は、罪を告発する準備があります」


 テオドールの言葉に、隣にいるレベッカが息を飲んだのが伝わってくる。

 だけどテオドールの言葉に嘘偽りはない。

 たしかに、彼女・・の罪を告発することができる。

 それは人間に戻ってから、ずっと考えていたことだった。


「わかりましたわ」


 自分の都合のいいように言葉を解釈したアンリエッタが両手を出してくる。

 その手に触れた瞬間、彼女の右手首から若草色の紐みたいなものが切れて、床に落ちた。


「おや、ちょどタイミングよく、ミサンガが切れたみたいですね。……あれ、でもこのミサンガ、どこかで見た記憶が……」


 手を伸ばして拾おうとすると、それよりも早くアンリエッタが反応した。

 だがその時にはもうすでに遅かった。

 アンリエッタが拾うよりも早く、ミサンガが風に乗って宙に舞う。

 それを空中で受け取り、テオドールは仮面の笑顔のまま言った。


「ああ、ただのミサンガだと思いましたが、違いますね。……これは、《魔道具》だ。それも――」


 笑顔を向けられたアンリエッタの顔は、青ざめている。


「人の神聖力を奪えるもののようですね」

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