安部公房についての一考察

@kurebayashi-mikumo

それを安部公房という

安部公房、彼は前世紀後半期文学を代表する文豪の一人である。ノーベル文学賞受賞者の川端康成を筆頭に、谷崎潤一郎、石川淳、大江健三郎、三島由紀夫の戦後を代表する文学者たちであるがカテゴリーで分けると、名前通り戦後派と分類される。第一、第二とさらに細かく分類することも出来るが割愛。


敗戦という衝撃から始まり高度経済成長期にて漸く落ち着きを取り戻すかのように、戦後文学の盛況さは光彩陸離であった。


安部公房は近代と現代の境目に位置する高度経済成長期に旗を挙げ、たちまちその時代の勇躍者となった。


彼の思想からして現代の我々にもある一種の共通点を持ち得ているかもしれない。その一つに早期の共産主義に対する疑心的態度を表明したことである。東欧周遊で見識した社会主義——共産主義のシステム欠陥による現実世界の矛盾を指摘し、それを批判すら出来ない当時の共産主義或いはスターリン体制への拒絶へと繋がっていく。当初は共産党員であったが後に除名されると共産主義と保守主義のどちらにも依らぬある一種の中道主義的思想が芽生えるに至ったかもしれない。別に彼は共産主義自体を否定しているのでなく、既存のマルクス主義構成テクストに疑問を呈しただけである。


また、SF的観念からするとインターネットが及ぼす社会変革について予告したのは、彼の著書がその傍証であろう。特筆事項として、予測のやや強いイントネーションとしての予告を使ったのは、比喩を用いる直接的表現から隠喩の間接的表現までの複数の事象からして、人間のアイデンティティー構築が困難になっていくのでは無いかという危惧が殆どの描写であるからだ。予測ではインターネットの存在の出現なのか不明瞭であるし、確定にしても現実と作中での差異がパラドックスを生じる一因となる為、中庸ネガティブに言えば曖昧、微妙なニュアンスでの語彙表現に予告を使った。


インターネット世界における自分と他者の境界壁が融解し、統合された集合意識が漂流するといった予告が果たして的中したかどうかは分からない。だが、それがニヒリズムに陥るのではないかと言えばそうでも無いし、無力感を撒き散らすだけなのかと言えば反論するには力足らずといった身動きの取れない論争と化しているのは否定できない。

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