第18話 終われると思った

「そう、ミズ・カガミハラです。初めまして」

 突然飛び出して来た初対面の女性に向かって「ミズ・各務原」などと呼んでしまった。達樹がハッとして言い直そうとした、それより早く彼女は答えてこちらを見上げ、自らをミズ・カガミハラと名乗る。ポータルサイトの写真から想像していたよりもかなり小柄なのだけれど、強さに体躯は関係ないと言わんばかりの迫力だ。

 彼女は達樹の両腕を掴むとぐるりと百八十度向きを変えさせた。呆然と立つ達樹と柊平の間に割って入って首を捻り、背後の柊平に声をかける。

「荷物一式置きっぱなしだから、盗られちゃう前にとりあえずみんなで席に戻ろう!」

「あ、うん」

「谷野さんもね!」

「あ、はい」

 そして今、結婚指輪を確かめ合っていた夫婦とともに達樹まで同じテーブルに着いている。あっという間の出来事だった。達樹を柊平の隣に座らせ、彼女は向かいに腰を下ろす。

 各務原奈緒。写真そのままの、とても目力が強く美しい女性がこの場を仕切っていた。この人が柊平の妻であり、ソフィアが憧れる優秀な先輩社員だなんて世間は狭いものだ。テーブルの脇に大きなスーツケースが置かれているから、フランクフルトでの駐在を終えて今日帰国したばかりなのだろうか。

 目の前には膨大な量の情報があるはずなのに達樹の思考はその辺りで終わってしまった。つい二分ほど前に柊平を拒絶することに大方のエネルギーを使ってしまったせいで、もう頭が働かない。


 しかしこの場を仕切っているのは彼女だった。勝手に憔悴した達樹に構うことなくハキハキと話し続ける。

「急に割り込んでしまってごめんなさい。ポータルサイトで見た顔だってすぐ分かったからつい追いかけちゃった。写真では眼鏡を掛けてなかったと思うけど」

「はい」

「そうよね。それにしても柊平くんがさっきから言ってるタツキくんがまさか谷野さんだったなんて! すごい偶然でびっくりよ。世の中って意外と狭い!」

 さっきから言ってるタツキくん……ぼんやりとした頭の中にその一文が、エコーがかかったみたいに何度も響く。噂を、されていたのだろうか。

柊平が隣で小さく叫んだ。

「奈緒さん!」

「あ、ごめんなさい! え、まだなのね?」

 まだなのね……まだ……。

「えーと、じゃあ私行くね。柊平くん、後で連絡する」

「うん」

 言いながら彼女は席を立った。そして今度は達樹に向けて微笑んだ。

「谷野さん、木曜日のディナー楽しみにしてるね!」

 言われてみればソフィアと三人でディナーに行くのは今度の木曜日だ。達樹が返事をする前に、ミズ・各務原は綺麗に微笑んだかと思えばスーツケースをガラガラと引き店を出て行ってしまった。


 嵐とも言えるひと時が去った後、どれほど沈黙が続いたのだろう。並んで座っていた柊平が席を立ち、向かい側に移動した。ぼうっとしている達樹の前に身を乗り出し、窺うように上目で尋ねる。

「……タツキくん大丈夫? 話してもいいかな」

 達樹はひとつ息を吐いた。

 ミズ各務原に毒気を抜かれてさっきの拒絶モードは解除されている。でもあんな風に感情が溢れることなんて滅多にないので必要以上のエネルギーを消費してしまったらしく頭が働かない。完全にガス欠だ。話されても理解できないかもしれない。

 ふと、テーブルの端に立て掛けられたメニューが視界に入った。とても魅力的な黄色が目に付いて、そう言えば昼食を食べようとしていたのだったと急に空腹を思い出す。食べればいくらか頭が回るかもしれないと気づいた達樹はメニューを指差し、ぼそりと答えた。

「オムライス食べてからでもいいですか」

「あっ、うん」

 柊平は驚いたように達樹を、それからメニューを見て頷き店員を呼んだ。

「すみません、このオムライスにシイタケは入ってますか? ない、よかった、じゃあふたつ下さい」



◇◇



 オムライスは美味しくて、暫し達樹は夢中になって食べた。やがてエネルギーが体内を巡り徐々に頭が働き始める。さっきカフェの前を通りかかってからの出来事が脳内で整理されて行き、何故こんな状況になったのかという至極真っ当な疑問に漸く辿り着いた。

 だって話はシンプルで、柊平はミズ・各務原と夫婦だった、自分の恋は潰えた、以上ではないのか。

 なのにどうして自分はこの人の手を振り払って、どうしてこの人は話を聞いてもらいたがっているのだろう。

 顔を上げると目の前では柊平が難しい顔をしてオムライスをもぐもぐと食べていた。しかし達樹と目が合うなり口の中のものを急いで飲み込んで話し出す。

「あのさ、タツキくんはご飯の上に卵が乗ってるオムライスと、卵で巻かれたオムライスのどっちが好き?」

「え、ええ……? どちらかと言えば巻かれてる方が」

「奇遇だね、僕もだよ。でもね、卵焼いてご飯を包むのすごく難しいんだ。だからついふわとろな卵を乗っけて割って誤魔化しちゃう」

「はあ」

「僕にはこんなに綺麗なオムライスは作れない。でも中のチキンライスは美味しく作れる自信がある」

 話す声も顔も真剣だ。でもあまりに唐突過ぎて達樹には脈絡が分からなかった。料理が好きで得意だとは知っているけれど、今はオムライスについて語るべき時なのだろうか。

 さらに柊平の話は続く。

「じゃあデミグラスソースと、ホワイトソースと、ケチャップ。オムライスにかけるならどれが好き?」

「ケチャップです」

「奇遇だね、僕もだよ。ケチャップはトマトの酸味が効いてる方がオムライスには合うと思ってるんだけどタツキくんは」

「あの、どうしましたか」

 いつになく早口のオムライストークがやっぱり不自然に思えて、達樹はつい遮ってしまった。柊平が言葉を切り眉を下げる。ついでに口まで尖らせながら訴えてきた。

「だってタツキくん、ずっと怒ってる」

「え?」

「取り付く島もないから、オムライスの話なら聞いてくれるんじゃないかと思って」

「別に怒ってないですけど」

「怒ってる。無理ですって言ったし、話聞いてくれないし、黙って食べてるし。奈緒さんいなかったら帰ってたよね」

「……本当だ」

 気が付かなかった。ショックだったり惨めだったり、あるいは頭が働かなかったり。そんな自分は終始内向きで人にどう捉えられるかなどひとつも考えていなかったけれど、言われてみれば確かに怒っている人みたいだ。でも、だからってオムライス? 達樹はじわじわと笑いが込み上げるのを止められなかった。

「それでオムライス……オムライスって、ふっ、ふふっ」

 笑い出したら止まらなくなった。必死に会話のとっかかりを探した結果がオムライスなんて、あまりにも切り口が突飛で可愛過ぎやしないだろうか。少なくとも自分には絶対に思い付かない。勢いに呑まれて真面目に答えていた自分も込みで可笑しくて仕方なかった。

「笑うところ? 酷いよタツキくん、僕は真剣なのに」

「ふ、すみません、でもふはっ、」

「えー」

 不満そうな声が聞こえたけれど、それでも笑いが止まらない。やがて向かい側からも笑う声が聞こえて来た。

「もうタツキくんが笑ったからいいや!」


 この人といるとこんなにも笑いが止まらなくなる。この人が笑うと嬉しくて、一緒にいると笑うことが増えて、楽しくて、優しくて、可愛くて、好きなんだと改めて思い知らされてしまう。

 感情を常にそっと封印し、だいたいこんなものだとやり過ごして来た自分がこの人の前ではちっとも抑えられなくなって真っ直ぐ投げかけてしまう。

 だって受け止めてくれると思ってしまったから。いつも近くで笑ってくれる安心感を知ってしまったから。

 でもそれは独りよがりで一方的な感情だった。彼には妻という特別な存在がきちんといて、振られて崩れていく心は一緒に笑っても決して解れない。それどころかこの先一緒に笑う機会はもうないのだろうと思うと、酒が一滴も入っていないのに泣きたくなって笑いがぐっと詰まる。

「タツキくん?」

「あっ、あれ、すみません」

 たった今まで笑っていたくせに突如涙が溢れコロコロと眼鏡を濡らした。今日はどうしてこんなに感情が振り切れてばかりなのだろうか。いい大人が公衆の面前で泣くとか恥ずかしいにも程がある。

 慌てて眼鏡を外しシャツの袖で目元を拭こうとした、その時だった。

「目擦っちゃダメ!」

 柊平の鋭い声が響いたかと思えば向かい側からがっしりと両手首を掴まれた。びっくりして涙も止まったわけだけれど、同時にその一言が達樹の奥底から記憶を引っぱり出す。聞き覚えのあるフレーズだ。以前にも言われたことが、ないだろうか?

「目擦ると腫れちゃうからだめだよ。って言うか急にどうしたの? 大丈夫?」

「ちょっと待ってください」


 両手の自由を奪われたまま達樹は皿を見つめる。目に溜まっていた涙がひと雫、オムライスの皿にぽたりと落ちた。

 昨日の夜のことは何ひとつ覚えていないと思っていたけれど、一体どうやって帰宅したのか全然分からないと思っていたけれど。目を擦っちゃダメという言葉と共に柊平の匂いが記憶として脳裏に蘇ってきた。昨夜のどこかの場面に、この人がいたような気がする。もしかすると泣き上戸を発動している自分を、この人は見たのかもしれない。

 顔を上げると目の前には少し霞んだ柊平がいて、笑いからの涙に驚いたのか眉間に皺を寄せてこちらを窺っている。その目を見て、せめて最後に聞いてみたいと思った。果たして自分は記憶の外で何を言っていたのか。どれほどにこの人やメグママに迷惑をかけてしまったのか。そうすれば、謝ることができる。思い残すことなくあのビルから、この人から離れられる。

「教えて欲しいことがあります」

 尋ねれば柊平が小さく頷いてから苦笑いした。

「よかった。やっと話せそうだね」

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