第17話 もう無理だった
かろうじて光を捉えられる程度までは目を開けられる。しかしそれ以上どうにも瞼が上がらないと知り達樹はベッドの中で絶望に打ちひしがれた。
やってしまった。
酒を飲んで、記憶を飛ばして、翌日目が開かないのはつまり記憶の外で泣いた証。気をつけていたのにまたやらかした自分に失望しながら、開けられるだけ目を開けて何とか浴室まで辿り着く。シャワーを頭から浴びながら、自分が何をしでかしたかひとつも思い出せない恐ろしさに叫びたくなった。日々の暮らしで泣くことなんてまずない。それを酒の飲み過ぎで、まるでリミッターを外すように涙を流す。一緒に飲んでいる相手からすれば迷惑甚だしい自分の行為が翌日覚えてませんじゃ人として終わっている。
ただ、やらかす予感がなかったと言えば嘘になる。
昨日あのビルの前で神宮寺にばったり会ってこれからスナック「メグミ」に行くと聞いた時、君も行こうよと高いテンションで誘われた時。メグママの顔が浮かんだ。あの圧倒的肝っ玉母さんなら何でも受け止めてくれそうな気がしてきて、ついて行ったのだ。普段困った時に人を頼ろうと言う考えは浮かばないのだけれど、昨日は誰かに受け止めてもらいたいと思う程度には弱っていた。メグママなら商売柄無数の酔っ払いを見て来ているだろうから、きっと何があっても動じないのではないかと勝手な期待があったと思う。迷惑な話だ。
昨夜お洒落な街から地下鉄に乗りながらずっと考えていた。何故あんな、突然柊平にキスをするなどという奇行に走ってしまったのか。
大和とあまりに親しそうだったから嫉妬したのかもしれないとか、目の前で動く唇がとても愛おしく見えたからとか、それらしい理由を考えてはみたもののピンとこない。
あの時目の前にいる好きな人に、ただキスしたいと思っただけだ。突然湧いた衝動を抑えきれなかったというのが一番しっくりきた。つまり自分は節操のない人間なのだろう。
怒りに満ちた目をして去って行った柊平がその後どこに行ったのかは、知る由もない。
怒らせて、嫌われた。それがすべてだ。
家に帰る気にもなれず、なんとなく「ポチ」の入る雑居ビルへ足が向かった。きっともう来ることもないと思うと無性に足を運びたくなるなんて少女漫画みたいだと思いながら、写真に収めSNSに記録として投稿した。
先日交換した柊平のアカウントを見て、彼がほとんどSNSをやっていないことを達樹は知った。フォロワー四人、フォロー二人。投稿は居酒屋「ポチ」で作った料理の写真がいくつか、以上。それさえ半年以上前のものだった。
あんなに勢いよくアカウント交換を迫って来た割には拍子抜けの中身で、騙された感がすごかった。一方であまり見ていなそうなこと、達樹の投稿に反応が付かないことには少しホッとしている。もちろんパリピの投稿は削除済みであるとしても、見られないに越したことはない。
つまり達樹のアカウントは相変わらずリアルの自分を知る人のない場所ということだ。ビルの写真を残しても、誰も何も思わない場所。
そして投稿直後に神宮寺に声を掛けられた。
シャワーを終えてから更に冷水で顔を洗い、鏡を見た達樹は決意した。
もう全部無かったことにしよう。
居酒屋「ポチ」にはもう行かないし柊平やメグママに会わない。出会ってたった二ヶ月やそこらだ、出会う前の暮らしに戻るだけで何ら問題はないはずだ。誰にも迷惑をかけないために、できることと言ったらそれぐらいしかない。
メグママは呆れているだろうし、柊平に至ってはもう会いたくもないと思っているだろう。
本当に、つくづく思う。どうしてもっと上手くやれないのだろうと。迷った時は黙るに限ると決めているのに、いつも大事なところで黙っていられず間違える。そして自分の周りには誰もいなくなる。
胸に何かが突き刺さるような痛みが走った。
◇◇
いつの間にかきちんとケースに収まっていた眼鏡がどう見ても曲がっていたので、身支度を整えた達樹は眼鏡屋に向かった。N駅北側にあるその小さな店で、受け取ったその日に曲がって(あるいは曲げて)しまった眼鏡を見せたら二分で直してくれた。保証書に記載されているとおり一年間は無料で調整できますよ、とニッコリ微笑んだ女性は確か、昨日眼鏡をフィッティングしてくれた人だ。気まずさを隠しきれず、眼鏡を受け取るや否やそれを掛けて挨拶もそこそこに店を出た。
眼鏡屋の鏡で見た限りではだいぶ目の腫れはおさまっていた。眼鏡もかけたし真っ直ぐ前を向いて歩いても見苦しくはないだろう。俯いてやって来た往路とは打って変わって、達樹にはアーケード街をざっと見渡す気力が戻って来ていた。多分軽い二日酔いが抜けたのもあると思われる。ラーメン、カレー、カツ丼、パスタ、回転寿司……いくらでもある飲食店を見回しながら、空腹を満たす場所を物色し始める。
ふと、一軒のカフェに目を止めた。眼鏡を注文した日に柊平と立ち寄った、プリンパフェが美味しかった店。
ここで柊平に髪を触れられて、初めて何かを意識してからまだ一週間しか経っていないのが嘘みたいだ。一生落ちることなどないと思っていた恋に落ちて、舞い上がった一週間が過ぎて、結果として今眼鏡だけが残っている。我ながら滑稽だと思った。
そのままカフェの前を通過しようとした達樹は、ガラス張りの店内に見覚えのある顔があったような気がして足を止める。満席に近い店内を改めて見れば、やはりその人はいた。
明るい色の髪、小さい顔にボストンタイプの眼鏡。シンプルなシャツ。椅子の背もたれに掛けられたボディバッグ。どう見ても柊平だった。確かにここN駅近くに住んでいるらしいことは会話の中から推察できていたけれど、まさか偶然見かけるとは思わずついその横顔を凝視する。
その人は今誰かと向かい合い喋っていた。相手は深い赤のニットに長い黒髪が流れる女性の横顔だ。誰だろう。達樹の鼓動がにわかに速まっていく。
もちろん話の内容は聞こえない。しかし女性が自らの左手を右手で指差しているのが見える。そこに光るのは指輪だった。柊平がおどけたような顔をしたかと思えば、バッグを背もたれから外し中を探る。やがて取り出したのは……指輪だった。その指輪を左手の薬指に着けようとしたが途中で止まってしまった。第二関節に引っかかった指輪ごと手をかざし、そして大笑いした。女性も肩を震わせている。
何を見せられているのか理解するのは簡単だった。彼らは結婚指輪を確かめ合っている。つまり夫婦である。けれどそれを受け止めることが達樹には出来ない。
柊平は結婚していた。彼には妻がいた。
確かに女性に人気があるとは常々感じていた。けれどそれは全て柊平「に」向けられている好意であって彼「から」特定の女性に好意を向けている素振りを見たことはない。妻の存在なんて考えたこともなかった。そもそも「抱かれちゃうかと思った」と彼が匂わせたのではなかったか。
でも、と達樹は煙が出そうな頭で考え直す。あの時男性が男性を好きになることに考えが及ばずにいた自分を恥じ、反省したけれど、だからと言って彼の性的指向が確定したわけでも何でもないのではないか。
つまり全部自分の独りよがりな思い込みだったということだ。これではキスなんかしたら怒られるのは当然じゃないか。嫌な思いをさせてしまった。
全身で己の鼓動を感じながら、とにかくここから立ち去らなければならないと思った。こんなところから人の会話を覗き見ていることを知られたくない。何かしらの可能性を感じて勝手に気持ちを向けた者の間抜けな末路など見せたくない。
でも足が動かなかった。あまりのショックに達樹の全身は硬直してしまっていた。ああ、どうして眼鏡なんか買ってしまったのだろう。見えなければ幸せだったのに。いや、知るのが遅くなればなるほど滑稽だったのかもしれない。頭の中ではどうでもいいことばかり考えながら、根が生えたようにその場に立ち尽くす。
外した指輪をバッグにしまって、再び背もたれに掛けようとした柊平がこちらを向いた。そして、とうとう目が合ってしまっても達樹は動けなかった。彼が血相を変えて立ち上がるのを見ても同じ場所に立ったままだ。こういう時はどうするのがいいのだろう。こんにちは、などと呑気に挨拶することもできそうにないし、勢いよく逃げ出すこともできない。どこまで自分は間抜けなんだ。本当に嫌になる。ほら、彼が店から出て来てしまったじゃないか……。
「たっ、タツキくん! どうしてここに?」
「眼鏡の修理です」
自分の声がどこか遠くから聞こえた気がした。一声出せたことでロック解除されたみたいに体の硬直が取れたけれど時すでに遅し、柊平に腕を掴まれている。今まで聞いたことがないような、上擦った彼の声がなんとなく耳に入って来た。
「あ、そ、そうなんだ。ええと……あれかな、もしかして何か誤解してたりするかな?」
「誤解」
「ああ、うん」
昨日キスした相手に妻がいることは、誤解でも何でもないと思うのだけれど。柊平の言動すべてが癇に触る。達樹はああ、いやだなと思った。これは口が勝手に動くのを止められなくなるパターンだ。
「離してください」
「えっ」
「無理です」
「タツキくん?」
「離してと言ってるんです」
腕を掴む彼の手を振り払う。十年前にもあったシーンだ。付き合っては見たものの気持ちが足りないままで、彼女があれこれ言い募ってくることに耐えられなくなった時。本当に私のこと好きなの? と聞かれたことがあの時はトリガーだった。今日は誤解というキーワードに反応したみたいだ。
心の奥底でもう無理、もう無理、という声が繰り返されている。一方で口からは辛辣な言葉が容赦なく発せられ、相手を何とかして拒絶しようとする。
「誤解してませんので」
「待って」
「待てば何かあるんですか」
「うん、話を聞いてくれる?」
「嫌です。失礼します」
漸く動くようになった足で、柊平に背を向ける。何という言い様だと思う心とこれで良かったんだと思う心がせめぎ合う。でも心の奥底で流れるもう無理が一番強いようだった。だってもう何も受け入れられない。
歩き出そうとしたその時、達樹の脇を誰かが追い越し目の前に飛び出して来た。
「待って、谷野さん! 谷野さんだよね?」
目の前で名前を呼ぶのは、さっきまで柊平と向き合っていた女性だった。長い艶やかな黒髪、深い赤のニット。ぐっと見上げる、大きくて理知的な力強い目。この人をどこかで見たことがあると思った。ものをじっくり思い出すような思考力は達樹の中にあまり残っていなかったけれど、幸い顔写真がポンと脳内に浮かんだのでその名前を反射的に口に出す。
「ミズ・各務原」
ソフィアが尊敬するミズ・カガミハラが、柊平の妻だった。
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