第19話 終わりではなく始まりだった【完結】
オフィスビルとマンションに囲まれた四角い空は既に青を失い、その下にある大きな公園は太陽の届かない場所になっていた。さっきまで暖かかった空気はどこへやら、十二月らしい冬の夕暮れが始まり気温がぐっと下がって行く。それでも飲食店街からほど近い公園は賑わっていた。遊歩道には多くの人が行き交い、散らばるベンチはだいたい埋まっている。
そんな公園の一番奥にポツンと空いているベンチを見つけ、達樹は柊平とともに腰を下ろした。
オムライスを食べたカフェから五分ほど歩いてここまで来る道中、柊平があの店を早く出たかったのだときまり悪そうに言っていた。なんでも隣のテーブルにいた女性四人組が話を聞いていたのだそうだ。チラチラと見てはコソコソ、クスクスと繰り返されて耐えきれなくなったらしい。全然気が付かなかった。
「タツキくんの質問の前に、ちょっとだけいい? 見て欲しいものがある」
ベンチに座るなりコートのポケットからスマホを取り出しながら柊平が言うので、達樹は頷いた。先に話を聞いて欲しいと言ったのは彼じゃないかと考えられる程度には平静を取り戻しつつある。
同意を得た柊平がスマホをこちらに差し出した。そこに映るのは一枚の画像らしきもの、写真とも言い難い、例えば書類をスキャンしたような画像だった。覗き込んでみたものの何だか判別できない。
「何ですか」
「離婚届」
「……!」
殊の外重大な書類名を聞かされ息を呑む。わざわざ拡大してもう一度見せてくれた画面には、確かに離婚届という緑の文字と今日の日付、彼の名前が書かれていた。
各務原柊平。夫婦なんだから少し考えれば分かるのに、今ここで文字を見るまで彼の名字が各務原であることに思い至らなかった。彼がついとスクロールすると、今度は各務原奈緒、ミズ各務原の名前が表れる。
「離婚……」
「そう。今頃奈緒さんが役所に出してるんじゃないかな」
彼が結婚していたと知りショックを受けてからまだ数時間で離婚と知らされる。ちょっと心が追いつけない。
「いや、でもさっき指輪を」
結婚指輪を互いに確かめ合って楽しそうに笑っているのを見た。おかげでどうしようもなくなってさまざまな感情をばら撒いてしまったのだ。あれは何だったのかと思って尋ねれば彼は事も無げに答えてくれた。
「指輪どうしようかって話してたんだ。捨てるのも勿体無いよねって。でも大事に持ってるのもなんか変だし。僕に至ってはもう入らないし」
「あ、ああ、そう、でしたか」
「タツキくんと目が合った時絶対勘違いしてるよなって思った」
「してました。……けど」
なるほど、本当に達樹の誤解だったと言うわけだ。
ある意味最悪のタイミングで二人の様子を覗き見てしまったことは分かった。離婚届を見せられた今、話が嘘ではないと信じることも出来ている。でも達樹はまだ腑に落ちない。さっき見たのは本当に離婚に合意したばかりの空気だっただろうか。
「離婚ってもっと、こう、深刻と言うか……いえ、それは俺の勝手なイメージですけど」
ふたりの様子は楽しげで仲が良さそうだった。だからこそ絶望したのだ。
「それについては話すと長くなるけどいい?」
「はい」
断る理由はない。達樹が頷くと柊平は辺りを一瞥した。座ってみて分かったのだがこの公園のベンチは不思議な配置になっていて、微妙にプライバシーが守られるような向きと距離感がそれぞれに与えられている。その上一番近くのベンチにはウトウトする高齢男性とスマホに夢中な女性しかいなかった。女性の耳にはイヤホンが詰まっている。誰もこちらに興味がなさそうだ。
ひと通り確認するように見渡してから、柊平は少しだけこちらに体を傾ける。顔は前を向いたまま、内緒話みたいに少し声を潜めて言った。
「好きで結婚したんじゃないし、嫌いになって別れたわけじゃない」
そこからの話は、達樹にとってかなり衝撃的だった。それぞれに理由があって結婚から距離を置きたかったふたりが、好きでもないのに親の軋轢から逃れるためだけにタッグを組んで結婚するなんて非現実的だと思った。彼の性的指向も明らかになった。それを押し殺してでも結婚する世界が目の前にあるのが信じられなかった。
でもこういうことは、自分が知らないだけでよくある話なのだろうか。そう思ってしまうほど柊平の語り口は淡々としている。
「奈緒さんはあのとおり気さくでいい人だからさ、それなりに楽しく過ごしてたよ。だからまあいいかなーなんて思ってたんだけど」
彼女がフランクフルトに駐在していた三年間で関係が変わったのだと彼は言う。一度も会わずほぼ連絡も取らず、三年ぶりに顔を合わせたらいきなり離婚の話を切り出されたのだそうだ。昨夜フランクフルトから帰国し、一晩で離婚届を用意して今日持ってきた。トータル五年の結婚生活が、ついさっき終わった。
そこまで一気に話してから、柊平はふと達樹の方に顔を向けた。眼鏡の奥で猫みたいな大きなつり目が達樹をとらえ、じっとりと細められる。
「それがどうした、って顔してるね」
「いえ、そんな、そんなことないです。ええと……急に離婚しようって言われてすんなり応じたんですね」
「ああ、うん、書類こそ用意してなかったけど、奈緒さんが言い出さなかったら僕が言うつもりだったからね」
「そうですか」
それがどうした、とは思っていない。いないけれど達樹は柊平の話を聞くことに少しばかりの虚しさを覚えていた。彼が結婚している事実が消えたところで、ひとマス戻るだけだ。昨日の夕方、あんなに激しく非難されたキス。性的指向を知った上であれならば、つまり達樹にはもう何も残らない。
怒られて、嫌がられた。それだけ。
何故ここまで丁寧に説明してくれるのだろうという疑問はあるものの、どうしても気持ちが内を向いてしまって視線が下がる。
「タツキくん、理由を聞いてよ」
けれど柊平に請われてすぐに顔を上げることになった。
「え? 理由って、何の」
「昨日までは結婚とか離婚とか別にどっちでもいいかなって思ってたんだ」
「はい」
「けど昨日決めた。絶対離婚するって」
「はい」
「理由。好きな人にキスされたから」
「……はい?」
「もしかしたらタツキくんも僕のこと好きなのかもしれないって思っちゃったんだもん」
「ちょっと待ってください」
展開がおかしいと思い達樹は言葉を挟んだ。それは自分が記憶しているあの場面と同じ話だろうか? あんなに責められたのに。見知らぬビルのポストの前に、ひとり置き去りにされたのに。タツキくん「も」?
「え、違うの?」
なんと無邪気な顔で聞くのだろう。大きな目にじっと見つめられて急に袋小路に追い込まれたような気分になる。ずるい。そんな聞き方はずるいと思った。
好きだけれども。好きなんだけれども。
「違うも何も、昨日あんなに……」
こちらは完全に嫌われたと思い諦めていて、最後の幕引きのためにここに来たのだ。全てを壊したと思っていたあのキスがこの人の決意を促していたと、誰が想像できただろう。
柊平の眉が下がる。
「昨日は僕が悪かったと思う。ごめんね。タツキくんは男にキスできる人じゃないと思ってたからビックリしちゃって」
「それは……まあ、俺自身も知らなかったので」
達樹は正直に言うことしか出来なかった。多分女性に興味があるんじゃないかぐらいの淡い指向しかなかったのに、人生で最も強く好きだと思った相手は柊平だった。それが全てだ。理屈などないから気の利いた台詞が浮かぶはずもない。
「目の前に好きな人がいて、キスしたいと思ったらいつの間にか……」
俯いてボソボソと答える達樹の膝に、少し節くれだった手がそっと乗る。
「やった! 好きって言ってくれた!」
ハッとして顔を上げた先には満面の笑みがあった。
「キスされた時はビックリしたけど、すごく嬉しかったんだよ。だから僕は身辺をちゃんとしてからタツキくんに好きって言おうと思ってたのに間に合わなかったって言うか、まさか離婚の話をしてる最中に見つかると思ってなかったと言うか……結局タツキくんを怒らせちゃった。ごめん」
滑舌良く一気に話し、柊平がへへ、と笑う。達樹は血が昇った頭ではもう何も考えられなくなってしまったので、また俯いてただ彼の手を見つめていた。耳の奥には己の鼓動がどくどくと響いている。
「でももうそれも済んだから、やっと言える。タツキくんが好き。すごく好き。付き合おうよ。恋人になろうよ。ね?」
終わるつもりが始まるなんてあまりにも急展開が過ぎる。それでも、信じられないけれど、今この場の選択権が自分にあってイエスと答えることが許されている。欲しいものを欲しいと言っていい場面に立たされている。
達樹は俯いたまま、膝の上に乗る暖かい手に手を重ねた。柊平のように言葉を尽くして想いを伝えることが出来るはずもなく、小さく頷きながらその手をきゅっと握りしめるのが精一杯だ。
「……あの、はい」
視界の端に、柊平が空いている方の手で顔を覆うのが見て取れた。
「やば。タツキくんが可愛い」
◇◇
主に達樹が正気を取り戻すのに時間がかかったが、少しずつ緊張が解け始めれば聞きたいことも言いたいことも次々と浮かんでくる。そこからふたりはベンチで長らく話し続けた。
達樹が昨夜記憶の外で何と言ったのか。
何故柊平があの後居酒屋「ポチ」に来たのか。
ミズ各務原と達樹が何故ディナーの約束をしているのか。
ミズ各務原は何故離婚したいと思ったのか。
彼女にも好きな人ができたから、今はその人と一緒に住む部屋を探しているのだと柊平は言った。
ミズ・各務原との離婚について淡々と話す彼の冴えない表情は、ただただすっきり離婚できたと言うわけでもなさそうだという印象を達樹に与えた。さっき初めて結婚と離婚について話した時と同じような口調だ。もしかすると辛いことほど淡々と話すのが彼の癖なのかもしれないなんて勝手な想像を巡らせながら、達樹は黙って話を聞いた。
メグママが達樹に会いたがっていたと聞いた時にはなんというか、許されたという安堵から少しだけ言葉に詰まった。達樹にとって彼女はそれだけ頼もしい存在なのだと改めて思う。もう行かないとまで思った居酒屋「ポチ」に行けるのは本当に嬉しい。いくらかかるのか全然分からないけれど、スナック「メグミ」にも行った方がいいだろうか。そんな達樹の疑問は一瞬で柊平に却下された。
いつの間にか辺りは真っ暗で、話し合う息が時々白くなるほど冷えていた。柊平がひとつくしゃみをしたのが合図になって漸くふたりはベンチを立つ。その頃にはふたりの誕生日を祝う計画が完成していた。なにしろ十二月二十五日生まれの柊平と二十六日生まれの達樹だ。日を跨いで祝おう、どさくさでクリスマスを含めようとあれこれ決めた。達樹は有給休暇を取ることを宣言した。
遊歩道を歩き、公園出口そばにそびえるオフィスビルに入り込んだのは寒くなってきた外の空気を避けるためだった。しかし通り抜けていたエントランスの脇でセンサーライトがパッと灯る。昨日とそっくりな配置のポスト群が現れたのを見た時には何とも言えない空気がふたりの間を流れた。
「えーと、リベンジ?」
少しバツの悪そうな顔で笑う柊平に向かって、達樹は強く頷く。すぐさま手を取られて、ポスト群の隙間にするりと引き込まれた。
リベンジの言葉に違わず今日のキスはあたたかく、長く、深かった。
怒涛の週末も終わりが近付いて、現実が徐々に向こうからやって来る。でも今は、もう少しだけと思いながら達樹は柊平の唇を、舌を、ぬくもりを、そして匂いを存分に受け取った。
だって達樹の概ね初恋が実った瞬間なのだから。実は柊平にとっても同様だったと知るのは、もう少し先のことだ。
10年ぶり2回目、おおむね初恋 たこ @00ctan00
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