第16話 決意
スナック「メグミ」は居酒屋「ポチ」と同じビルなのに全く店内の作りが違っている。火を使う厨房がない分お客のためのスペースが広い。
入口脇の、おそらく荷物置き場と思われるソファを通り過ぎると「ポチ」では厨房に当たる場所にカウンター席がある。L字型のカウンターには四席しかなく、残ったスペースにあるのはベルベットのソファで囲んだテーブル席だ。カウンターとテーブルの間にあるちょっとした隙間にはカラオケのモニターが置かれている。いかにも小さなスナックという風情なのだと、確か以前「ポチ」の店長が言っていた。他のスナックを知らない柊平がふうんと聞いていたのはいつのことだったか。
久しぶりに入った店内は明るかった。営業中は最低限に落としている照明が全点灯になっていて、少し白けた祭りの後という風情を感じさせる。
カウンターの中にはメグママともうひとり、カオリという女性がいた。いつも「ポチ」で飲んでいるメグママにお客が来たと電話で知らせている人だ。チーママと言ったら違うと反論されたので、どういう立場なのかはよく分からない。とにかくそのふたりは一生懸命洗い物をしているようで、ざばざばと水音が響いている。
柊平は恐る恐る声をかけてみた。
「こんばんは……」
「あら、シュウちゃんじゃない。タツキを迎えに来たのね」
メグママが顔を上げ、いきなり答え合わせをしてくれた。つまりここに達樹がいるということなのだけれど、どこにいるのだろう。店内をぐるりと見渡し、一歩、二歩と進んだところで漸くカウンターの一番奥に突っ伏している人影を見つけた。気を遣ったのかそこだけ照明が消されていて、すぐには目が行かなかった。
ド派手な柄のタオルを敷いた上に伏せている達樹は、寝ているのかダウンしているのか。その横には今日手にしたばかりの眼鏡が置かれている。柊平はメグママに尋ねた。
「神宮寺さんに下で会って、タツキくん拾ったって聞いたから来たんだけどそうなの?」
「そう、神宮寺さんが連れてきたのよ。最初は訳も分からずおじさんの同窓会に巻き込まれてたけど、あんまりお酒勧められ過ぎてかわいそうになったからカウンターに避難させたの」
「で、こうなったと」
「カオリちゃんが水割り薄ーくしてくれてたけど、まあそこそこ飲んだからねぇ」
喋りながらメグママがカウンター越しにグラスを差し出した。炭酸が立ち昇る淡い琥珀を受け取って早速ひと口いただくと、炭酸が喉を転がり、ウイスキーが体内をダイレクトに焼くのが分かる。そこで柊平は初めて空腹を自覚した。思えば昼から何も食べていないし、大和のサロンでお茶を紙コップ一杯飲んだきり水分すら取っていない。
「メグママ、なんか食べたい」
「お寿司がちょっとあるわよ」
スナック「メグミ」は普段料理をがっつり出す店ではないので、今日のように大きな宴会をするとなるとケータリングで食べ物を調達する。神宮寺ご一行のために出前を取ったと思われる折詰がひとつ出てきた。開ければ握り六貫と海苔巻き。実にちょうどいい。ピクリとも動かない達樹の隣に腰を下ろし、早速白身をひとつ頬張った。咀嚼して飲み込むと、これも胃に落ちて行くのが分かる。赤身も、海老も胃に落とす。ハイボールをひと口。ふう、と大きく息をついたのは漸く人心地が付いたからかもしれない。
やっと、達樹を見つけた。自分から逃げ出しておいて見つけたも何もないのだけれど、逸れていた軌道へ戻って来た気分になったのは事実だ。
手を拭きながらメグママがカウンターから出て来た。今日は和服でなく黒いタイトなドレスに身を包み、ピカピカのハイヒールを履いている。下ろした髪が豪勢に巻かれていた。
「あー疲れた。タツキが起きるまでちょっと付き合いなさい、シュウちゃん」
達樹の下にあるのと同じ柄のド派手なタオルで手を拭き終わるとひょいと投げ、代わりにビールの入ったグラスをカオリから受け取って柊平の隣に腰を下ろす。柊平とグラスを合わせてから一気に半分以上空けた。
あたかもひと仕事終えてやっと一杯に辿り着いたみたいな飲みっぷりだが、スナックのママたるものお客と差しつ差されつ既に結構飲んだはずだ。でもきっと仕事終わりのビールは格別なのだろう、嬉しそうな顔ではああと大きく息を吐いた。
「お疲れ様。土曜日なのに大変だったね」
「まあね。でも神宮寺さんはいいお客さんだからねぇ。ありったけの酒開けてくれてこちらもごちそうさまって感じよ。で、本当にタツキを迎えに来たの?」
「いやあ、迎えに来たっていうか……」
この状況は何なのだろうと考えてみるも、もはや柊平自身にも良く分からなかった。確か眼鏡を取りに行って大和のサロンに行って達樹がお洒落に変身して終わるはずだった。完全に自分が主導権を握っていた。キスひとつで形勢が逆転してからこっち、いったい何を求めて何をしているのかと聞かれても説明できなくて、柊平の返事はフェードアウトしてしまう。
明確な答えが出て来ないと分かったメグママがまあいいわと話を引き取った。
「神宮寺さんに連れられて入って来た時、タツキ何て言ったと思う? 真顔で『メグママに会いたかったです』って。ほんとこの子可愛いわね」
「えっ、ちょっと羨ましい」
「でしょ。伊達に「ポチ」で手懐けてないわよ。ふふふっ」
それから柊平に出したはずの折詰からイカの握りをつまんで口に放り込む。頷きながら食べ終え、それからふと表情を改めた。
「まあ、アタシが家政婦さんに似てるらしいってだけの話なんだけど」
「……家政婦さん? タツキくんの家には家政婦さんがいるの?」
「あら、アンタ知らないのね。余計なこと言っちゃったわ」
「誰にも言わないから教えて。家政婦さんってことは実家がお金持ちなのかな」
「まあ、お金には困ってなかったんでしょうね」
メグママが話してくれたのは、達樹の育った家庭環境だった。母親が仕事に邁進し家事をする暇がなく、家のことは市役所勤務の父親がしていたのだそうだ。その父親が病死したのが達樹が中学に上がる直前のことで、以降は母親が家政婦を雇い家事をしてもらっていた。
「お父さんが亡くなって、お母さんはますます仕事漬けになったそうよ。平日はほぼ顔を合わせないし、土日は仕事で出てると思えば接待とやらで家に知らない人たくさん連れて来たりして、家政婦さん大活躍してたって」
「おー、バリキャリお母さんだね」
「ね。でもその家政婦さんも三年ぐらいで辞めてしまって、あとは何? 家事代行サービス? その時空いてるスタッフが家事しにくるみたいな」
「そうなんだ」
「いつだったかタツキ言ってたわよ。いつも家に知らない人が急にいるって」
「あー……」
柊平は酔った達樹を送り部屋まで乗り込んだあの晩を思い出しながら、曖昧に相槌を打つ。どうりで簡単に部屋に入れてくれたわけだ。あの警戒心のなさは正直危ないと思ったけれど、そもそも警戒のしようもない暮らしをしていたせいなのかと漸く合点がいった。
知らない人が悪意なく出入りする環境を、達樹はどう受け止めて暮らしていたのだろう。自分なら不安で家に居たくなくなりそうだ。
それにしても達樹がメグママにそこまで話していたことに柊平は驚いた。決して口数が多くなく押し出しが強くもなく、SNSでも特段の主張をしていないのに。自分は達樹に結構色々なことを聞いたつもりでいたが全くそんなことはなかったようだ。
「タツキくんはよっぽどメグママに心許してるんだね。そんなに込み入ったことまで話してるなんてさ」
「ヤキモチありがとう。何でも話してもらえる秘訣知りたい?」
「あるの? 知りたい、教えて」
「まずは自分のことを正直に話すのよ」
言ってメグママはちょっと悪い笑みを見せた。柊平がグッと詰まる顔を見て、今度は楽しそうにケラケラと笑い始める。完全にしてやられた。後ろめたさに塗れた柊平の何もかも、まではいかないけれどそこそこ知っているが故の顔だ。
ひとしきり笑ってからメグママはふと表情を改めた。
「冗談はさておき、メグママに会いたかったですの時点で変だと思ったのよ。そりゃあアタシはタツキの信頼を得てるけど、神宮寺さんに拾われて急遽来たくせに会いたかったも何もないでしょ? 何かあったのか訊いたところで何も言わないし。それでボロボロに酔っ払って泣いてシュウちゃんが息切らして来たらアタシだって邪推するってもんよ。タツキに何したの」
さすがは歴戦のママ、若造の様子など簡単にお見通しらしい。なんだか兄弟喧嘩を収める母親みたいだ。
「あー、うん、ごめんなさい」
何したというか、されたというか。いずれにせよ自分が悪かったと思っている分反射的に謝ってしまったが、柊平が気にしたのは実はそこではなかった。
「っていうかやっぱりそうなんだ」
「そうなんだって、何が」
「タツキくんってさ」
柊平は言いながらあの晩、「ポチ」のトイレで達樹が倒れた晩のことを思い出していた。シイタケちゃんの悲劇の後、バックヤードで閉店まで寝ていた彼を起こしに行った時……。
しかし確かめる言葉を柊平が発する前に、じっと寝ていた達樹がもぞもぞと動き出すのが目端に映った。
「あっ、起きた、かも?」
「あら」
ふたりがじっと見守る中で達樹がのっそりと頭を上げる。少しの間ぼうっと前方を見ていたが、気配を感じたのかコマ送りみたいな速度でこちらを向いた。大和に整えてもらった前髪は潰れ、額は手の跡で赤くなり、そして目が酷く腫れている。お世辞にも格好いいとは言えないその顔を見て柊平は眉を下げた。時すでに遅し。
「あー、タツキくん。って、あっ、わっ、」
一切の表情が削ぎ落とされた顔で柊平を見ていた達樹が僅かに眉をひそめたかと思えば、その目から涙がぼろっとひと粒零れた。ひとたび零れればもう止まることを知らず、大粒の涙が次から次へと現れては頬を伝って落ちて行く。柊平は咄嗟に達樹の頭を抱き寄せた。
「目を擦っちゃダメだよ、もっと腫れるから、ね? カオリさんおしぼり!」
あの日と同じ光景。一度では自信が持てなかったがこの様子を見れば今はもう明らかだ。
「メグママ、タツキくんって泣き上戸なんだよ」
自らの肩に押し付けた彼の顔は見えなくなったけれど、シャツの肩にポタポタと水分が落ちているのが分かる。それでも後頭部に手を当てて柊平は達樹をひとまず自分に固定した。変に手で目を擦ったりさせないために。
「なんだ、泣き上戸だったのね」
若干の安堵を含んだ声でそう言うと、メグママがおしぼりを達樹の目元にそうっと当てた。それから達樹が泣き疲れて寝ていたのだと話してくれた。神宮寺たちの相手で目を離している間にカウンターでひとり泣き出していて、そこから何を言っても止まらなかったのだそうだ。
「まさか泣き上戸だったなんて。でもアタシ、こんなに静かな泣き上戸初めて見たわよ。だいたい世の不条理だのどうせオレなんかだの言いながら泣くもんだと思ってた。ほーら、タツキ、泣かないの」
子どもをあやすようにそう言うメグママには、この声が聞こえていないらしい。ならば聞かなくていい。この声は、自分だけが知っていればいい。柊平は話を逸らす。
「僕小さい頃泣き虫だったんだけどね、泣くとまず母親が「目を擦っちゃダメ!」って叫ぶの。それがすっごい怖くてさ、泣きが加速するじゃん? そうすると母親にこんなふうにされてたから、多分身に染み付いちゃったんだと思う」
「シュウちゃんのお母さん面白いわね。まずそこなの?」
「だよね。今じゃ笑い種だけどあの当時は目を擦るイコール重罪って思ってたな」
「アンタ小さい頃絶対可愛かったでしょうからね、きっとその目が腫れたら大変って思われてたんじゃない?」
「どうなんだろねー」
適当に笑いながらも耳に届く達樹の声に心が痛くなっている。
初めてボロ泣きする達樹に遭遇したあの晩は、柊平のこの癖のおかげで何とか目の腫れを翌日に持ち越させずに済んだのだった。
あの時達樹は柊平の肩でしきりに涙と共に「めんどくさい」の言葉を零していた。何が面倒なのか尋ねても答えずただめんどくさいを繰り返し、結局その真意を語ることはなかった。
そして今、メグママには聞こえないらしい達樹の声が柊平の心を切り刻む。ずっと、繰り返し、ごめんなさいと言っている。もうやめてくれと思った。自惚れが許されるなら、あのキスをしきりに謝罪しているようにしか聞こえない。ずるい。こちらの声を一切聞かずにただ一方的に泣いて謝るなんて身勝手にも程がある。明日になれば記憶の外へと全て放り出されてしまうのに。謝らなければならないのはこちらの方なのに。
彼をこんなに思い詰めさせて放っておくことなど出来るはずもない。絶対に彼をここに置いて行っては駄目だ。
「タツキくん、帰ろう。送ってくよ」
柊平の言葉に応じのろのろと立ち上がる達樹に肩を貸しながら、スナック「メグミ」を後にする。メグママがおしぼりに保冷剤を包んで持たせてくれた。
「ごちそうさまでしたー」
「気をつけてね。タツキが正気になったらまた「ポチ」に来るようちゃんと言うのよ? アタシが会いたがってるって」
「はーい」
適当に返事をしてエレベーターに乗り込みながら、今日はそれを伝えられないなと柊平は思う。今日は勝手に上がり込まない。全ては明日奈緒と離婚の話を済ませてから……それから改めて、今度はこちらからたくさん仕掛けてやる。たっぷりそばにいて、急に知らない人がいるなんてもう思わせない。
「タツキくん、明日まで待ってね」
柊平はエレベーターの中で精一杯甘ったるく囁いてから、泣き濡れる塩辛い頬に唇を押し当てた。
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