第15話 回収

「デスヨネ……」

 地下鉄の駅へ入る階段を降りながら柊平は低く呟き項垂れた。達樹にメッセージを送っても既読が付かず、電話をかけても出てくれない。

 当たり前と言えば当たり前だ。

 たまたま慎吾に会って話せたおかげで気持ちが落ち着いたのはいいけれど、冷静になればなるほど自らの言動に対する後悔や羞恥がじわじわと自分を締め付ける。


 達樹から急にキスされて、どうしようもなく嬉しかったのに彼を責めてしまった。だってまさか、向こうからキスして来るなんて思わないじゃないか。彼が男を好きになることはないから進展は望めないと思っていたし、それでも時々だだ漏れしてしまう自分の気持ちを嫌がられては困ると必死で抑えて来ていたのに。

 咄嗟に責めて、突き放して、逃げ出して。手放しで喜んで受け入れることが出来ないのは自分の問題なのに、これではまるで八つ当たりだ。嘘や隠し事に塗れていると整合性ばかり気にして咄嗟の時にブレてしまうなんて、言い訳にもならない。


 慎吾の言葉を思い出す。就職も、恋愛も、結婚も我慢して来た。我慢しているつもりは全くなかったけれど、言われてみれば当たり前の日常だと思っていたことに緩く首を絞められているのかもしれない。誰にだって逃れられないものはあるだろうけれど、自分は明らかに縄の中に自ら足を突っ込んでいた、かもしれない。兄に負けじと頑張って別になりたくもない国家公務員になり、あたかも女性を好きになったかのような顔で奈緒と結婚して男性との恋愛を封印した。それで喜んだのは親だけだ。柊平自身が得たのは親が刹那に喜ぶ姿、そんなものが嬉しい年頃はとうに過ぎている。

 残されたのはがんじがらめの息苦しさだけ、酸欠みたいな二十代だった。

 それでいざ好きな人が現れても何も出来ず、キスまでしてくれたのに応えないで逃げ出すなんて最低だ。抜群に卑怯だ。とんでもなく馬鹿だ。

 このまま終わるなんて絶対に嫌だ。


 地下鉄の改札を抜け、ホームへと階段を降りる。達樹のマンションへ向かうつもりで列車を待っていたが、果たして彼は帰宅するのだろうかと疑問を抱く。友人のところに行ったりどこかへ飲みに行ったりしているかもしれない。道中確かめずに来たけれど、あのオフィスビルにまだ立ち尽くしていた可能性もある。

 達樹の行動範囲やパターンなんて全く知らないことに気が付き柊平は途方に暮れた。なんと拙い繋がりなのだろう。ますます大切なチャンスを不意にした自分に腹が立つ。

 その時、握りしめていたスマホが震えた。

 達樹からついに電話が!

 慌てて今来た道を戻り階段を駆け上がる。地下鉄の轟音は煩くて通話の声が聞こえなくなるから、急いで改札まで引き返した。そこで漸くスマホを見て、達樹でない名前が出ていることを知る。

 柊平は眉間に力を入れて、ひとつ息を吐いてから通話ボタンに触れた。まさかのタイミングで掛けてきたなと思いながら。

『柊平くん、ただいま。さっき成田に着いたよ』

 戸籍上の妻である奈緒が、ドイツから帰国した。


 三年ぶりの声を耳にして水を浴びせられたようにすっと柊平の頭が冷える。彼女の声も話し方も変わっていないのに、三年前とは全く違う人みたいに思えた。この感覚は何なのだろう。

 戸惑う一方で、頭が冷えた分言葉だけはすらすらと口から流れ出していく。

「お帰りなさい。前もって言ってくれれば迎えに行ったのに」

『そうやって気を使わせてしまうから内緒にしてたのよ。それでね』

 列車が到着したらしく、階段を上がって来る人の姿がちらほら視界に入った。邪魔にならないよう端に移動しながら柊平は話の続きを待つ。奈緒の後ろでは空港にいるとわかるアナウンスが大きく響いている。電話越しでは内容が聞き取れないほどエコーの掛かったアナウンスがひとしきり終わった後、奈緒の落ち着いた声が戻ってきた。

『実はドイツにいる間に家の鍵を失くしちゃったみたいで。柊平くん、今外にいるのよね?』

 柊平は言葉に詰まった。鍵がなくても自分がいれば家に入れるし、家に帰れば合鍵がある。つまり自分も帰宅し彼女を迎えてあげればいいだけの話だ。

 でも今はなんとかして達樹と話したくて、地下鉄に乗ってまずは彼のマンションまで行こうと考えている。そこに彼がいるとは限らず、いても会ってくれるかわからない。つまりすぐに帰宅どころかどれほどの長丁場になるか見通しが立たない状況だ。達樹と連絡が取れないまま明日を迎えるのはなんとなく致命的な事態を招きそうな予感がしていた。彼が失望し、離れていってしまう前に掴まえなくては。

 そこでもうひとりの自分が問う。掴まえたところで何を言うつもり? さっきはごめん、僕も君が好きなんだ。そう伝えるにはあまりに自分に制約が多過ぎて、言うだけ達樹に迷惑がかかってしまうことは明白だ。彼をもっと傷付けてしまうに違いない。一体どうしたらいいのだろう。

 奈緒がもしもし、と言った。だいぶ間が開いてしまったらしい。

『柊平くん、聞こえてる?』

「あ、うん。僕もこれから帰るところだから大丈夫。帰っておいでよ」

 咄嗟に選んだ答えが喉を震わす。全身から何かが剥がれ落ちるような痛みを感じて柊平は顔を顰めた。こういうところだと、結局自分に現状を打破する力はないんだと思わずにはいられない。どうしていつも少しずつ不本意な言葉を混ぜ込んでしまうのだろう。泣きたい気分だ。


 ところが電話の向こうから返ってきた言葉は思っていたのと少し違っていた。

『違う違う、言葉足らずでごめんなさい。ホテル取っちゃったから今日は成田に泊まろうと思ってる。それで明日お昼頃に帰るからN駅で待ち合わせない?』

 N駅とは、柊平と奈緒が暮らすマンションの最寄駅である。

「えっ、ホテル? 待ち合わせって? じゃあ明日N駅に迎えに行けばいいってこと?」

『うん。じゃあとりあえず明日ね。また連絡する』

 電話が切れた。

 なにしろ一度も顔を合わせることのないまま三年が過ぎている。この三年間に何を思い、何をしていたのかひとつも聞かせてくれなかった彼女が何故わざわざホテルを取ったのか、その行動原理など知る由もない。もっと言えば別に知りたいとも思わない。

 五年前に結婚した頃は、互いの親という強敵に向かって共闘しているような結束感があった。同じ屋根の下で暮らし、適度な距離を取りつつ必要に応じて夫婦の顔をして出掛けていく。盛大な悪戯をしているみたいだった。

 それがほぼ音信不通の三年をそれぞれで過ごしてしまうとここまで変わるものかと思い知る。柊平にとって奈緒は、びっくりするほど他人になっていた。

 だから電話を終えて最初に思ったのは『ひとまず明日の昼まで時間が出来た』という安堵だった。達樹と連絡を取りたい。何を言えばいいのかはその時にならないとわからないけれど、少なくとも彼をほったらかしにしていないことは知って欲しい。

 スマホをポケットに突っ込み再び階段を降りながら、やはり離婚しようと強く思った。例え奈緒の人生を傷つけるかもしれなくても。

 だってこのままでは達樹を失う。振られたのならまだしも、愛情表現を蹴っ飛ばして自ら離れたなんて後悔してもしきれない。


 地下鉄に乗って三駅、さらに別の地下鉄に乗り換える。東京の地下鉄は本当に同じ駅と名乗っていいのかと言いたくなるほど乗り換えが遠くて、果てしなく長いエスカレーターを上がってさらに通路を何分も歩かなければ別路線に辿り着けない。気持ちは逸るが流石に長過ぎるエスカレーターを駆け上がることは諦めて、立ち止まりスマホを確認した。

 相変わらず達樹の既読は付いていない。あくまでも無視する姿勢なのだろうか。それとももうブロックされてしまったのか。


 メッセージアプリを閉じた後柊平は、ふと達樹のSNSにアクセスした。

 アカウントを教えてもらったその晩にほぼ全部辿った結果、達樹は食べることがかなり好きなようだと知るに至った。メッセージアプリにアイコンとして使われていたプリンも確かに投稿されていた。シイタケちゃんはシイタケ以外の好き嫌いがないようで、写真は肉や魚やスイーツ、和洋中エスニックにスナック菓子までなんでもござれだ。柊平が作った「ポチ」のつまみもあった。時々ちょっと遠い土地まで美味しいものを食べに行っているような記述もある。

 そして、まあ、知ってはいたが自炊の痕跡はない。


 今見たところで気休めにもならないと知りつつ開いた柊平は、そこにひとつ新しい投稿が増えていることに気が付いた。今日の十八時二十二分。一時間半ほど前、となると柊平とあのビルで別れた後だ。特にコメントもないその写真を見ると同時に柊平は声を上げていた。

「ポチじゃん」

 闇に沈んでしまいそうな雑居ビルの写真には居酒屋「ポチ」の入口扉が映っていて、本日休業と書かれた札がぼんやり見える。待って、どうして。柊平はエスカレーターを上り切った後、達樹の家とは反対方向のホームに向かった。もちろん「ポチ」に向かうためだ。

 彼が本日休業の「ポチ」を投稿した理由は分からない。もうここにはいないかもしれないし、そもそもこの写真が今日撮られたものかどうかも確かめられない。それでも何かのサインみたいに思えてきて、行かなければと気持ちが逸る。

 どんな気持ちを込めて「ポチ」を衆目に晒しているのか勝手に思いを馳せてみるも判然としない。どんなに辛くても、例え抱えきれなくてもひとりで抱えようとする人なのだからこちらから察して見つけてあげなくてはならないと言うのに。

 ああ、いや、違うなと柊平は列車に乗り込みながら自嘲した。さっきのキスを何だったと思ってるんだ。肝心なところでいつも受け止めきれず子どもみたいに狼狽えているくせに、察してあげるとは何様のつもりだろう。理屈はいい、まずは彼の顔を見たい。



◇◇



 七番出口を出て徒歩二分。小さな雑居ビル一階の居酒屋「ポチ」はお休みで、さっき見た写真のとおり本日休業の札が下がっている。

 平日は賑わうオフィス街も土曜の夜は実に閑散としていた。洒落たイルミネーションがあるわけでもなく、華やかな人々が歩いているわけでもない。大きな通りを車が時々通過するだけの、とても静かな夜がここにはあった。もちろん達樹の姿はどこにも見当たらない。

 とりあえず来てみたものの柊平はただ辺りを見渡すことしかできなかった。達樹が何かのサインを投稿したとはずいぶんとおめでたい幻想だったようだ。


 居酒屋「ポチ」の扉は少し奥まっていて、手前右にはエレベーター、左には非常階段に続く鉄扉がある。ギイと言う音に驚いて柊平が振り返ると、視線の先でその鉄扉がゆっくり開き始めていた。

 このビルには各階に一軒ずつ店が入っているが、確か土日は全ての店が休んでいるはずだ。こんな時間に非常階段を使っているのは誰だろうか、清掃でも入っているのかと訝しんで眺める柊平の前に、扉を抜けて見覚えのある男性が姿を現した。

「神宮寺さん?」

 居酒屋「ポチ」によく来てくれる、ゲーム制作会社の副社長。年の頃は五十手前、酒が好きで、訳知り顔で、ご機嫌なおじさん。神宮寺が鉄扉を開けて出てきたのだ。

 こちらの声が聞こえたのかどうかは分からないがおじさんはふと柊平の姿に目を止め、おおと叫びながら近づいてきた。

「シュウちゃん! シュウちゃんじゃないか!」

 そもそも声が大きい時点で確定なのだけれど、顔を見てもやはり相当酔っていることがよくわかる。「ポチ」で何度も見たことのある、楽しい酔っぱらいが満面の笑みで柊平の肩を力強く叩いた。

「やあやあ!」

「神宮寺さん、こんばんは! 今日はここで何してるの?」

「昔の仲間と忘年会だよ」

 その言葉を待っていたかのように、開いた鉄扉から次々と人が現れては集まってくる。エレベーターからも人が降りてきて、柊平はあっという間に十数人のおじさんに囲まれてしまった。

「お、おお、すごいね神宮寺さん、たくさんいる」

「そうなんだよ! これだけ集まるのは久しぶりでさあ、だからメグママに無理言って今日「メグミ」開けてもらったと言うわけ。な、みんな!」

 そうだそうだ! 良いお年を! わっはっは! 謎の大声と謎の大笑いが広がるのは気の置けない仲間の集まりだからなのだろう。メグママがわざわざ土曜日にスナック「メグミ」を開けてやろうと思うぐらい羽振りの良い宴会をしたに違いなく、誰も彼もが大変楽しそうだ。

 わははと笑っていた神宮寺が、思い出したとばかりにまた柊平の肩を叩いた。なかなか痛い。

「そうか、そうか、シュウちゃんそのために来たのか! あー、そうか」

「よく分かんないけどそうだよー」

 酔っぱらいと適当に会話する術なら心得ている。適宜笑顔を振りまきながら意味不明な発言をやり過ごそうとしたのだけれど。

「いやー、俺さっきここで拾ったんだよねえ。メグママに怒られたから置いてきちゃったけど」

「うん?」

「回収に来たんだろ?」

「何を?」

 神宮寺は柊平の顔を見ながらそれはそれは楽しそうに大声で答えた。

「タツキくんだよ!」

「……えっ」

「上にいるよ! あとは頼んだからねー」

 言いながら神宮寺はふらふらと歩き出した。柊平を囲んでいたおじさんの輪も崩れ始め、皆口々に何か言い合いながらその後に続く。笑ったり叫んだりしながら団体は大通りへと消えていった。タクシーでも呼んであるのかもしれない。


 神宮寺ご一行を見送った柊平は、踵を返す。スナック「メグミ」に達樹がいると言うことで合っているだろうか。ちょっとシチュエーションがおかしいし真偽のほども怪しいけれど、会える可能性だけで既に息が上がる思いだ。ビルに飛び込み重たい鉄扉を引き開けて、薄暗い階段を一気に駆け上がる。

 四階のスナック「メグミ」を目指して。

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