第12話 気付いてしまった

 十二月も入社後三回目になれば何が起こるかだいたい想像が付く。山場は第二週、つまり今週は地獄の忙しさになることが確定している。

 月曜日の朝出社するなり大量の甲請書が受信ボックスに溜まっているのを見て、達樹はいよいよ年末が近づいて来たのかとむしろ感慨深い思いになった。

 十二月の内に済ませなければならない事柄も事情も思惑も世界中に転がっていて、誰もが間に合わせたいと強引に自我を押し込んでくる。一方でこちらが処理できる量にも限界があるので、年内に片付けたい案件があるなら十二月の半ばで受付終了すると通達を全社に向けて出す。その受付期限が今週末と言うわけだ。

 新人の時も、二年目も、訳も分からず気づけば深夜まで働いていた。そして今年も同じ事態になるのは間違いない。


 不幸中の幸いと言っていいのかどうか不明ながら、今年は高橋が海外出張に行ったまま帰って来ないので忘年会が企画されず、飲み会の数がだいぶ少ない分体力がゼロにはならなそうではある。

 高橋とは時々チャットで会話をするが、アフリカの僻地で娯楽も何もない日々はかなりフラストレーションが溜まるらしく酒を飲むしかないと嘆いていた。彼にとっては酒が何よりの娯楽ではないかと思うのだが、まあ、きっとこちらで想像するよりずっと閉鎖的で退屈な日々なのだろう。気の毒だ。

 先週のメッセージではしきりに山之内について尋ねてきた。元気かとか今も向かいの席にいるのかとか、飲みに行ったりしているのかとか。高橋はやはり彼女のことを好きなのかもしれない。

 彼女が居酒屋「ポチ」で愚痴っていたことを思い出すが本人に言うのも憚られるし、まあ、色々な意味で面倒だからわざわざ触れず、ただ聞かれたことに淡々と答えた。多分元気なのではないかと思う。向かいの席にはいない。年末に忘年会兼課長の送別会があるから同席する。山之内とふたりで飲みに行くことはもうないだろう、とは言わずに終えた。


 さて仕事だと気持ちを切り替え受信ボックスを改めて眺めていたら、画面の端にチャット受信の通知が現れた。ソフィアからのメッセージは例の、尊敬するミズ・各務原についてである。

 彼女が予定より早くフランクフルトから帰国することになったらしい。かつ年末は忙しくなるため可能ならディナーの約束をもっと早い時期に変更させてほしいと申し出を受けた、とのことだった。

 そう言えば誘われたのに返事を保留したまま忘れていた。確かに以前ソフィアが言ったとおり、年が明けたら仕事でお世話になる人だから会ってもいいのかもしれない。今年は忘年会が少ない分心身ともに多少余裕があるし、何よりソフィアに断る理由を伝えるのは骨が折れる。気兼ねとか場違いとか、彼女にはそう言う概念がないから説明が通らないのだ。

 それらを総合すると「了解、来週以降ならいつでもいい」にまとまったので返信したらすぐにリアクションが付いた。その内日程を知らせてもらえるのだろう。


 さて仕事だ。受信ボックスはそうしている内にもどんどん膨らんでいき絶望的な気分にすらなって来たのだが、もちろん全てが達樹宛ではないし全てを今日捌かなければならないわけでもない。まずは振り分ける必要があると考えながらひとつ、ふたつと中身を見始めたところでまたチャットの通知が現れる。今度は何だと思った達樹の手と心が、差出人を見て一瞬止まった。


 おはよう。もし都合が悪くなければ今日ランチに行かない?


 山之内のメッセージは急なランチの誘いだった。

 もうずいぶん前、居酒屋「ポチ」で彼女との距離感がおかしくなりかけた日のことを思い出す。あれ以来必要最低限の、それも仕事の話しかしていない人からの申し出。用があるに決まっている誘いを受けるべきかどうか、迷いながらそっと顔を上げた。


 以前は必ず達樹の向かいの席を陣取っていた彼女は三つ四つ向こうの並びに座り、今や視界に入らないことが多い。間に座っていた陣内が席を立ったことで山之内の横顔が見えた。画面に向かう彼女がこちらを振り返り始めたので慌てて視線を外し、ノートパソコンに向き直る。

 どうしよう。正直あまり行きたくない。全てが彼女のせいではないとは言え、あの日「ポチ」で自分に何が起こったか思い出すだけで彼女への嫌悪に至りそうになる。

 一方で数メートルしか離れていないこの距離で猛烈に断りにくいのもまた事実だ。まあ酒を飲むわけでもないしランチなら時間制限があるから、いつぞやのようにはならないだろうと肚をくくった。一時間の我慢だ。大丈夫ですと返信するや否や店の案内が届いたが、接待で使うような高級懐石料理屋、全席個室の店と知りますます何の用なのだろうと不安になる。



◇◇



 高級懐石料理屋ともなれば静かで琴の音が流れていたりするのかと思っていたが、行ってみたらそれほどでもなかった。オフィス街のランチタイムよろしくあちらこちらがざわついて、雅なBGMなど全く聞こえてこない。

 それでも個室に入れば引き戸を閉められ、山之内とふたり小さな空間に閉じ込められた。隣の声もあまり響かず、そこそこの密室感が醸し出されて息が詰まりそうな心待ちになる。何を言われるのだろうか。

 メニューを探して視線を動かした達樹の意図はすぐ悟られてしまったようで、山之内が予約時に弁当を頼んだのだと言って微笑んだ。

「大丈夫、シイタケは入ってないって確認済みだから」

「あ、はい、ありがとうございます」

 なんだか怖いと感じたが慌てて打ち消し礼を告げる。


 おしぼりとお茶だけの空間で向かい合い、暫しの沈黙が流れた。用があって呼ばれたと思い込んでいた達樹は彼女が話を切り出すのだろうと待ってみたが、一向に会話が始まらない。もしかしたらただ高級な弁当を食べるだけのために朝から声をかけて来たのだろうかと達樹が思い始めた頃、山之内が突然頭を下げた。

「もうずいぶん時間が経っちゃったけど、あの日は本当にごめんなさい。ちょっと私どうかしていた」

「え」

「私、谷野君の良き理解者になりたくて。谷野君は仕事が出来るのに、ううん、出来るからこそいつも損な立場に追い込まれてばかりで、そんなの理不尽過ぎるから何とかしてあげたいって思ってたのにいつの間にか出過ぎた真似して勢い余って飲み過ぎて……あー、もう! ごめんなさい!」

 脈絡があるようなないようなことを猛烈な速さで捲し立て、両手で顔を覆ってしまった彼女に圧倒されて達樹はただ目を瞠る。


 あの後はメグママに「ガチ」などと言われたりもしたけれど、山之内の方から距離を置いてくれたおかげで気負うことなく過ごせている。人に強い感情を向けられるのがあまり得意ではないから、例えば綾田のように仕事中にも距離を詰められたりしたら敵わないところだったが今のところそれもない。改めて謝罪されるほどのことは全然ないと思った。

「あ、いえ、気にしてないです」

 言ってからずいぶんと冷たい返事をしてしまったと気付いたが、口から出たものは戻らない。それに嘘ではない、事実だった。


 数秒の間をおいて山之内は顔を上げた。肩にかかる黒髪を少し撫で付けるように直してから、改めて達樹を真っ直ぐ見つめる。

「……違うの。今日はね、聞きたいことがあって」

「はい」

「あの日、私たちが行った居酒屋「ポチ」で、串盛り出してくれたお兄さん」

「……はい」

 柊平で間違いない。二ヶ月前の串盛りをよく覚えているものだと妙なところに感心しつつも、彼の話になると知って達樹は内心身構えた。

 例えば彼と仲良くなりたいから紹介してとか、連絡先を知りたいとか、そんなことを頼まれるのだろうか。

 「ポチ」のカウンターでひとり飲んでいる時に、彼が女性客から声を掛けられているのを何度も見たことがある。そう、達樹が勝手に「適度」と修飾語を付けているだけで実際彼はイケメンだ。その上仕事も出来て会話も軽快で、かつ最上級の笑顔を見せてくれる。確か達樹が同期会に参加したときも、あの店員さんかっこいいと誰かが言っていた。

 だからこの人も柊平の存在が忘れられなくなって助力を求めて来たのかもしれないと達樹は思った。とてもあり得る話だ。


 そんなの絶対助けたりしない。知るもんか。

 

 自分でもびっくりするぐらい明快な答えが脳裏に浮かんで、なんと言うか、心が臨戦態勢を取り始めたのが分かる。気をつけないと敵意が剥き出しになりそうな、この感覚は何なのだろうと思いながらも達樹は彼女の言葉を待った。

 山之内はそこでお茶を一口飲んで息を吐く。そるからまるで意を決したかのように身を乗り出し、尋ねた。

「谷野君ってあのお兄さんと、その、付き合ってるの?」

「……は?」

 全く予想外の方向から飛んできた問いの意味を理解するのに、少し時間を要した。自分の思う「付き合ってる」と山之内式「付き合ってる」は果たして同じことを指しているだろうか。もし同じなら付き合っていないけれど、何故そんな問いが生まれたのだろう。唐突にも程がある。

 達樹が口を開きかけたところで引き戸がからからと開き、弁当が運ばれて来た。


 六つに仕切られた箱の中には色の綺麗なおかずや焼物煮物、おこわも詰められている。その他に小さな茶碗蒸しと汁物まで付いたボリュームある弁当セットが目の前に置かれた。美味しそうだが今の達樹はそれどころではない。仲居が去るや否やその認識合わせに走る。

「ええと、付き合ってる、とは……」

「一昨日の土曜日、N駅の北口側のカフェで谷野君とあのお兄さんを見かけたのよね」

「……はい」

 眼鏡を作った後の楽しかったひと時を、誰かに見られることなど考えもしなかった。動揺が達樹の鼓動を一気に速める。

「最初はあのふたり友達だったんだって思いながら見てたんだけど、なんかどんどん雰囲気良くなってくし、谷野君見たことない顔して笑ってるし、しまいに髪とか触ってたりして……もしかしてって思ったの」

 山之内は早口でそこまで言うと、さあ答えなさいと言わんばかりに達樹をじっと見る。一方達樹は俯き、僅かに上擦った声で答えるのが精一杯だった。

「付き合ってません」


 付き合っているかいないかと言われれば付き合っていない。それは事実。

 ただ、今こうして問われるまで達樹の頭の中になかった「恋愛」と言う概念が突然姿を表したことで今更ながら自覚してしまったのだ。

 だってたった今、山之内が柊平に興味を示したら嫌だと思った。髪に触れられて電流が走ったり、踏み込みたいと思ったり、掴まれた手首に神経が集中したり、いや、そんな細かなことばかりじゃない。会いたいから「ポチ」に行き、会いたいから週末に誘った。もっと彼を知りたいと常に思い、いつも笑っていてほしいと願っている。笑ってくれるとつられてしまうし一緒に笑う瞬間心が満たされ凪いでいく。あまりのストレスに声が出なくなったあの瞬間のことだって忘れてはいない。暖かい手、優しい言葉。この数ヶ月で生まれた感情が全部、恋愛という概念の中に綺麗に収まって行く音がする。

 自分は彼を、柊平を好きなのかもしれない。

 どうしてこんなタイミングで自覚してしまったのだろう。顔が熱くてとてもじゃないが上げられない。


 どれほどの時が経ったのか、山之内の声で達樹は我に返った。

「谷野君、食べよ? 茶碗蒸しが冷めちゃう」

 顔を上げれば、彼女が既にモリモリと食事を開始しているのが目に入った。

「結構量があるよね、さっさと食べないと昼休み終わっちゃう。ん、美味しい」

「あの、山之内さん」

「なあに?」

 達樹は何故彼女がわざわざランチに呼び出してまで柊平とのことを尋ねたのか知りたいと思った。付き合っているかどうか知ったところで彼女に何があると言うのだろう。彼女に限って噂話のネタづくりにこんな時間を設けるような人ではないと思うのだけれど。


 しかしながら、返事はすれど顔を上げない彼女を見て達樹は言葉を引っ込めた。彩り良いおかずを箸で摘んでは口に運ぶその顔は伏せられたままだったが、鼻先が赤くなっている。咀嚼を終えた山之内が目を上げることなくまた早口で捲し立て始めた。

「みんな谷野君のことクールとか冷静とか何を考えてるか分からないとか言うの。でも私から見ると本当に表情が豊かっていうか、全部顔に出てるようにしか見えなくて」

「そ、そうなんですか」

「うん、だからもう知りたいことはだいたい分かったから大丈夫。あとは食べるだけ」

 勢いよく話す言葉尻が震えているのを聞き取って、達樹は自分が今彼女を傷つけているのだと知った。自惚れが許されるならメグママの言ったことは本当で、そして自分が山之内でない方向へ心を傾けていることを敏感な彼女に知らしめてしまった。

 申し訳ないような気持ちがないと言えば嘘になる。一方でこの心の内を変えることはできないとも確信している。奇しくも彼女に問われたことで気付いた、柊平への気持ちに偽りも迷いもなかった。彼が、好きだ。

 だからと言って謝るのもおかしいし、わざわざ柊平に対する感情を言葉にするのも余計なことに思える。彼女を喜ばせる言葉をひとつも持たないと結論付け、達樹は何も言わず食事を開始することにした。


 茶碗蒸しには高確率でシイタケが入っているものだけれど、ここには入っていない。それが店の仕様なのか山之内があらかじめ施してくれた配慮なのか確かめることすら憚られた。

 息詰まるランチタイムが過ぎて行く。山之内が途中一度だけ、鼻をすすった。

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