第13話 壊した
残業漬けの一週間をほうほうのていで終えた達樹の土曜日は、ショートメールの着信音で始まった。ベッドから這い出し、スマホを手繰り寄せる。時刻は十一時を少し過ぎたところだった。
眼鏡屋からのメッセージを一応開く。商品のご準備が出来ました。ご来店をお待ちしております。スマホを向こうへ押しやって、達樹はその手で前髪をつまんだ。
思い出すのは一週間前の土曜日、眼鏡屋の後に行ったカフェでのワンシーン。この前髪に触れて、眼鏡は前髪が下りている方が似合うと言った柊平の顔がどうしても忘れられない。いつものような楽し気な笑顔でもなく、だからと言って全然楽しそうじゃない笑顔でもなく。背筋に電流が走ったような感覚は髪に触れられたせいなのかあの表情のせいなのか。今でも思い出すだけで鼓動が増す。
あの場面を山之内に見られていたのは想定外だったけれど、彼女はあのシーンを見て付き合ってるのではないかと思った、と言っていた。何が判断基準かは知る由もないがそういうことなのだろう。
もう、好きな人と認識してしまった。
十年前に付き合った彼女をどれほど好きだったのだろう。そう考えると概ね初恋みたいなものだった。
眼鏡が今日出来上がることは注文時に聞かされ知っていたので、今日は引き取りついでにボーナスの端っこを使って服を買ってみようと計画していた。せっかく彼が「格好いい」眼鏡を選んでくれたのだから、少しぐらい「格好いい」服装で歩きたい。
しかし格好いい服とは何だ。
スマホを再び手にしたものの、普段服のことを調べもしないので検索ワードが浮かばない。人は急にお洒落になれないのだなと悟ってブラウザを閉じ、今度はメッセージアプリを開いた。
二週連続で誘ったら、鬱陶しいと思われるのだろうか。ベッドの上でゴロゴロ転がりながら迷いに迷う。
そもそも格好いい服を買いたいのは彼と一緒に歩く自分が見苦しいと思ったのが発端であり、その服を買うためにまた彼を呼び出すのは本末転倒にも思えた。いやそんな、服を買いに行く服がないみたいな話をぐるぐる脳内で回していても何も変わらないのだから誘ってしまえと言う自分もいる。
要は柊平を誘いたい。こんなに誰かに会いたいと思うことは本当になかったから自分の気持ちを上手く扱えず冷静さを欠きそうになっているのが分かる。忙し過ぎた今週は居酒屋「ポチ」に行くことも出来なくて、そして店を訪れない限り彼と会うことはおろか言葉を交わすキッカケも見つけられないのだと思い知らされた。何でもいいから理由が欲しい。
その一方で会いたい、誘いたいと思えば思うほど執着してはいけないような気持ちが同じ強さで浮かび躊躇う。分かっている。断られるのが怖いだけだ。
だったら結論はひとつ、迷った時は黙るに限る。
と、結論が出た途端に達樹の手元で突然軽快な音がした。スマホに通知が現れる。
『眼鏡出来た?』
達樹がグズグズ悩む様を見ていたかのようなタイミングで柊平から届いた問い。眼鏡は出来ている。いつもなら、他の人が相手なら、「はい」と答えて終わっているのかもしれないやりとり。無意識に文章を作り始めていた。
『これから眼鏡を取りに行きます。その後眼鏡に合う服を買いたいのでご都合よろしければご一緒いただけますと幸甚です』
どうしても仕事のメールみたいになるのは、五歳上の相手に失礼な馬鹿だと思われたくないと言う謎の矜持が発動してしまうせいである。高橋やソフィア相手にこんな言葉は使わない(そもそも達樹から誘わない)。出来れば柊平のようにカジュアルで優しくて読み手を安心させる言葉を使いたいのだけれど思い浮かばない。そう言えば先週も幸甚を使って笑われたなと思い出し、では他にどんな言葉を使えば強要しているわけではないと伝えられるのだろうと考える。でも妙にドキドキと鼓動が増すばかりでちっともいい言葉がひらめかない。
結局これ以上の文言が浮かばなかったので諦め発信すれば、即座に既読が付き返事が届いた。
『OK、N駅で待ってるよ! あと幸甚いらないから!』
達樹は慌ててベッドから降りた。幸甚が駄目なら何と言えばよかったのだろうと疑問を残しつつも、まずはN駅に向かわなければと気が逸り始める。だって早く会いたい。
◇◇
眼鏡を掛けて歩くのは景色がよく見える反面、常にフレームを視界に入れることでもある。慣れるまで少し時間が掛かりそうだが、すべての景色に明確な輪郭が見えることには素直に感動した。
「で? どういう服買おうとしてるの?」
ご機嫌なクリスマスソングが流れるアーケード街を歩きながら柊平が尋ねた。達樹より少しだけ背が高い柊平は、今日はグレーのゆったりとしたツイード柄コートに足首が少し見える丈のパンツを履いている。ファッションのことを一ミリも知らない達樹から見ると、数ある服からこれを選ぶことが出来るのはもう才能としか思えない。果たして自分は何を選べばいいのだろう。
「ええと……」
「コート? セーター?」
「格好いい服を」
「うん。もう少し詳しく」
首を捻るとすぐそこに柊平のにこやかな顔がある。眼鏡を通すとよりはっきりその顔が見えて、彼の眼鏡の奥にある猫のような大きい目に意外と長い睫毛がかぶさっていることに初めて気が付いた。どこまでも魅力的な外見を持つ人だ。ますます自分との差が激しくて申し訳なくなってくる。
だから言った。
「一緒に歩いててあなたが恥ずかしくならないような服」
目の前でぱちぱち、と大きな目が瞬き睫毛がきれいに上下した。柊平が明らかに驚いている。
「……タツキくん、そんなこと考えてたの?」
「はい。見苦しくてすみません」
「あー、うーんとね、ちょっと待ってね」
そして目を逸らしてしまった。手で口元を覆って何かブツブツと言っているようなのだがよく聞こえない。前方を凝視するその顔が真っ赤になっているのを見て漸く達樹も気が付いた。
この先も一緒に歩くことが前提みたいだと。
図らずも告白みたいなことを言ってしまったのではないかと思うとカッと頭に血が昇ってきた。
「あ、その、……え、いや、」
柊平の方すら見られなくなった達樹はただの文字を口走るばかりで、彼は彼で何かをブツブツと繰り返す。永遠にこのままなのではないかと思われる時がどれほど続いたのか、改めて会話を試みたのは柊平の方だった。大きく肩で息をつくのが達樹の目端に映る。
「僕はタツキくんが見苦しいと思ったことは一度もないよ。今日のコートだっていいと思うし、眼鏡もやっぱり似合ってる」
そしてこちらを向く気配。
「……ただ、もっとオシャレしたいのなら、ひとつ提案がある」
「え?」
思わず振り向いた達樹の視線の先で、柊平が片方だけ口角を上げた。
「この後時間ある?」
「はい」
「じゃあ行こう」
柊平はスマホを取り出し、どこかに電話をし始めた。
◇◇
N駅から三十分ほどかけて到着したのは、達樹には普段縁のないお洒落な街だった。地下鉄の駅からさらに十分近く歩いた坂の上に建つ細長い雑居ビルが目的地である。さらに三階までエレベーターで上がって行く。
柊平が達樹に提案したのは、髪を切ることだった。あの後電話をして予約したサロンは柊平の同級生が経営しているとのことで、道中説明を受けながら達樹はここまで連れてこられた。聞けば柊平自身も時々カットやカラーをしてもらっているのだそうだ。口が悪いヤツだけど気にしないでねと、苦笑いとともに付け加えられた。
ビルの細さから考えるとフロア自体広くないはずだがエレベーターを降りた先には扉が三つもある。右端の扉にはフランス語とおぼしき黒いロゴが掲げられていて、開けるとソファとカット台、シャンプー台がひとつずつ並べられているコンパクトな空間が目に入った。今まで達樹が見た中で最小の美容室。
短いながらも緩くウェーブしたアッシュグレイの髪と、よく似た色の瞳はカラーコンタクトだろうか。背の高い男性が奥から出てきてまずは柊平の肩を叩く。
「おうおう、ようこそ来たじゃん?」
「ようこそ来たよ。時間空けてくれてありがとう」
謎の挨拶を交わしてから今度は達樹に向き直り、名刺を差し出しながら綺麗に笑う。
「いらっしゃいませ。お待ちしてました、タツキくん。本日担当させていただきます、ヤマトと申します。お見知り置きを」
達樹は宇野大和と書かれた名刺を受け取った。名刺にはさっき入口の扉で見たのと同じロゴが付いていて、これが店名に違いないとは思ったが残念ながら読み方が分からない。なんだかお洒落だ。その上想像より遥かに派手な雰囲気の人が現れたことで、だいぶ怖じ気づいてしまっている。こんなみっともないヤツの髪切るの? と思われているかもしれない。
とは言え完全個室で人目を気にせず髪を切れる美容室であることは間違いないし、柊平が一緒にいるし、彼の大学時代からの友人だと言うし、まあ酷いことにはならないのだろう。何より格好を気にする自分のために彼がわざわざ用意してくれた場なのだから大切にしなければ。肚を決め、達樹は頑張って頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「んー……」
大和と名乗った男は既に達樹の頭から爪先までを眺め始めていた。品定めされている! もう逃げも隠れもできないのでただ立ち尽くしていると、また綺麗に笑った。隙のない笑顔だ。
「ではこちらにどうぞ」
カット台に促されると同時に、後ろで柊平がソファに移動する気配がした。個室は他人と顔を合わせなくていいのかもしれないけれど、この狭い部屋に好きな人とその友人と三人で閉じ込められるのは結構な緊張を強いられる。
大和はとにかくよく喋る人だった。
「お固い部署に所属してるのかな?」
「あ、はい、コンプライアンス管理部です」
「お固かった! じゃあ金髪とかしちゃ駄目か」
「駄目!」
「いや柊平には聞いてないから」
「だってタツキくんは黒髪の方がかっこいいよ」
柊平もとにかくよく喋る。ふたりの軽快な会話が徐々に達樹の緊張を解いていった。肩に入っていた力が抜ければあとはいつもの美容室と変わらない。柊平がどこから持ってきたのか紙コップで何か飲みながら、鏡越しに達樹を見守る。この空間がだんだん心地よく思えて来た。
大和が髪を両手で梳きながら話し出す。
「いい髪だね。健康な髪。パーマはかかりにくいかもしれない」
「かけなくていいから」
「会社に行く時もこの髪型?」
「違うよ、バシッとセットしてて」
「過保護な親かよ、柊平。お前には聞いてないって言ってるだろうが」
「だって僕が連れてきたんだから責任ってもんがあるじゃん」
「うざいこと言うな。オレの腕があればお前の責任なんかいらないって」
「うざいって酷い」
「じゃあ黙って見とけ」
達樹は自分がすべき会話なのに全く入れない状況を黙ってやり過ごした。よくあることだ。柊平の言うことに全く異議がないなら尚更だった。
ただ、大和を相手に話す柊平の声色が達樹の知るそれと少し違っていることが気になって仕方がない。なんだろう、かわいいと言うか力の抜けた感じに聞こえるのは気のせいだろうか。もしかして自分と接する時には気を遣って、大人びた声で話してくれているのかもしれない。何故かモヤモヤする。
大和が達樹の生え際の一点に指先を当てた。鏡越しに目を合わせにこやかに話し出す。
「ここに生えグセがあるから、どうしても前髪が分かれちゃうんだよね。だから敢えて分けよう。襟足はスッキリさせて、ここに厚み出して。あのさ」
「はい」
「動画撮ってもいい?」
この人がカットやアレンジの動画を撮ってアップしていると、ここにくる前に柊平が説明してくれた。その時は他人事としてただ聞いていたけれど、いざ自分が撮られると考えたら無理だと思った。この人の動画をまだ見たことはないけれど、きっと顔や、下手すると名前まで出る可能性がある。不特定多数相手にそれは絶対嫌だ。
「駄目に決まってるでしょ」
達樹より早く柊平が返事をした。
「タツキくんを見せものにしないで」
「保護者出た」
「なんと言われようと駄目!」
「ま、でもそうね。柊平の未来のためにやめとこ。どうせ慎吾呼んだってすぐ来ないし」
突然話の内容が達樹には全く理解出来なくなったのだが、とりあえず撮影されずに済みそうな空気だけは感じ取れたので内心ホッとした。あとは柊平と大和のコントみたいに軽快な会話を聞きながら、髪を切られるだけだった。
◇◇
大和は見た目と口調の割には親切丁寧で、カットした後達樹に日々の手入れやセットの仕方を細かく教えてくれた。最後に外していた眼鏡を掛けて鏡を見ると、長さはさほど変わっていないしカラーもパーマも施していないのに全く別の髪型になっている自分が映っていた。デキるビジネスマン風らしい。
最初は何色の髪になってしまうのだろうと不安しかなかった達樹も、この髪型は格好いいかもしれないと思った。自分の身なりが他の誰かによって整えられるのは何だか気持ちが良い。明日からちゃんとこのスタイルを再現できるよう頑張りたいと思う程度には高揚していた。まあ、出来るかどうか分からないけれど。隣を歩く柊平に恥ずかしい思いをさせずに済めばいい。
大和に別れを告げてビルを出ると外はもうとっぷりと日が暮れていて、来る時には気付かなかったイルミネーションがあちらこちらに点灯し青白く冷たく揺らめいていた。気温も下がり、スッキリした首元を通り過ぎる風が殊の外冷たい。
「かっこよくなったね。すっごい似合う」
坂道を下りながらイルミネーションに目をやっている達樹に柊平が言う。達樹は嬉しいと思う反面、彼の声色に一抹の寂しさを覚えた。
大和と言葉を交わしていた時と違う。
仲の良い人にはあんな風に話すと知ってしまうと、それがどんなに優しい言葉でも距離を感じるなんて面倒な心情だと我ながら思った。
だって当たり前のことじゃないか。片や学生時代から仲の良い友人、対してこちらはこの間出会ったばかりの居酒屋店員と客に過ぎない。たまたまふたりで過ごす時間が何度か重なっただけで、そして自分が勝手に好意を抱いてしまっただけで、彼にとってあの友人と自分とでは親しさに雲泥の差があるのは当然だ。比べるまでもない。そんなことを自分に言い聞かせれば聞かせるほど胸の辺りが痛くなる。
「あれ、もしかしてタツキくんはその髪型あんまり気に入らなかったとか」
自分の思考に深く入り過ぎたせいで返事が遅れ、却って柊平に気を遣わせてしまった。達樹は慌てて彼を振り仰ぎ、とんでもないと答えた。
「あの、気に入ってます。今日は紹介してくれてありがとうございました。ええと、その、明日からちゃんと再現出来るのかどうか心配で」
「写真撮っておこう! 毎朝写真見ながらセットしたらいいんじゃないかな。待ってよ、ここじゃ暗いな」
「フラッシュを使えば」
「眼鏡に映っちゃう」
言いながら柊平は辺りを見渡し、それから達樹の腕を掴んで近くのビルへと引っ張っていく。気軽に腕を掴まれることにはなかなか慣れない。コートの上なら脈拍は知られないだろうか。
ビルに入ってみればそれなりに大きなエレベーターホールが広がっていた。右側でセンサーライトがパッと灯り、奥まったスペースにずらりと並ぶポストが照らし出される。人の気配がないのは、土曜日のオフィスビルだからだろうか。
「あっ、ここ明るいね」
柊平によって達樹はポストの前に据えられ、スマホを向けられた。一枚、二枚。右向きで一枚、左向きで一枚。今度は後ろ向きで一枚。オーケー、という声に振り返ればスマホを一生懸命操作する柊平の顔が殊の外近くにあった。
「外の風とか電車のエアコンとかでさ、家に帰るまでに崩れちゃうことってよくあるでしょ。だから絶対今のうちに撮っておいた方がいいと思ったんだ。綺麗に撮れたよ。送るからちょっと待って」
ライトを浴びたまつ毛が伏せて僅かに影を落とす。さらさらと喋るその口がすぐ近くにあって、さっきと違う大人な声色を奏で続ける。こんなに近くにいるのに距離がある。それは寂しい、もっと近づきたい……達樹は思考が麻痺するような、言葉にし難い不思議な感覚に襲われ始めた。
「送ったよ」
そう言って顔を上げた柊平に、気づけば唇を重ねていた。互いの眼鏡がかちゃりと当たり、その音で達樹は我に返る。慌てて離れた勢いで後ろのポストに思い切り背中をぶつけたがそれどころではない。
今、自分は何をした?
目の前で猫みたいな大きな目がさらに大きく見開かれている。
「あ、す、すみません……」
謝ってはみたものの、柔らかい感触が唇に残っていて体の奥がもっと、もっとと言っている。でも空気は凍りつき、言い訳なんかひとつも浮かばず、居た堪れないことこの上ない。耐えきれずこの場を立ち去ろうとしたところでガッと肩を掴まれた。
「どうしてそういうことするの」
そう責める声がついさっきまで聞いていた、大和と話す彼の声色に近い気がして思わず顔を上げた。眉を顰めた柊平がこちらを睨みつけていて、掴んだ肩を強い力で押す。再びポストに背中をぶつけた達樹にもう逃げ場はない。
「ああもう!」
そう言い残して彼は背を向け、ビルを出て行ってしまった。
ひとり残されたポストの前で、達樹は身体がぶるぶると震え始めるのを止められなかった。彼の性的指向を考えて距離感に気をつけていたはずじゃなかったのか。自分が好きだと思った途端に軽率な行動を取るなんて身勝手にも程がある。
彼を傷付けて、そして彼に拒まれた。
せっかく少しずつ仲良くなれていたと思ったのに全部壊してしまった。取り返しのつかないことを、してしまった。
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