第10話 歪み
居酒屋「ポチ」には毎週火曜日だけ店長の甥っ子が手伝いにやって来る。つまり火曜日は柊平の出番がなく、アルバイトは休みだ。土日は店自体が休みなので都合週四日勤務ということになる。
そんな火曜日の夜に企画された飲み会に先立って、柊平を含めた三人が既に居酒屋を訪れていた。大学時代のゼミ仲間が久しぶりに集うのは十八時からだが、三人は仕事が休みのため暇だからと先に飲み始めることにしたのだった。
集まっているのは柊平と、SEをしている慎吾、美容師の大和。かつて国際政治学のゼミに所属していたのだが全くその面影がない三人は数ヶ月ぶりの再会にまず近況報告をし合っていた。
「大和は動画見てるから全然久しぶりって感じしないな」
「へえ、見てるんだ」
「そりゃあね。相変わらず口が上手いなあって思いながら笑って見てる」
「バカ言うなよ。お客様を気分良くさせるために努力してんだっての」
「でもさ、動画って誰でも作れるもんなの?」
大学を出てから専門学校に行って美容師になった大和は、最近カットやヘアアレンジ等仕事の一部を短い動画にして定期的にアップしている。それを取り上げ柊平が尋ねると大和は親指で隣の男、慎吾を指しながらニヤリと笑った。
「だいたいコイツに作ってもらってる」
「えっ、慎吾仕事忙しいってさっき言ってたよね?」
「動画は難しくないよ。大丈夫」
何ということはない、と言う顔で慎吾がおっとりと答えると隣から腕が伸びてその肩を抱き寄せる。なんとも嬉しそうに笑いながら大和が実はと打ち明けた。
「こないだから一緒に住んでるんだよ、オレら」
「そうなんだ! おおー、ついに!」
学生時代から、タイプが違うのに妙に仲の良いふたりだとは思っていた。実際に付き合い始めたのは大学を卒業して暫く経った後で、やはりこんな風に飲みながら実はと打ち明けてくれたことをよく覚えている。とうとう同じ屋根の下で暮らすことになったとは実におめでたい。
「そりゃおめでとうだね」
「ありがとう。祝って祝って。奢ってくれてもいいよ」
お調子者の大和がいい感じに茶化すのでその後は軽口の応酬となっていったが、その間も柊平は学生時代のことを思い出していた。肩を引き寄せる手、距離感、視線の合わせ方、交わされる言葉のテンポ。全部今思えばあの頃からお互い好きだったのだろうと遡って推測できるくらい、このふたりの雰囲気は昔から変わっていなくて自然だった。柊平には少し眩しくて、羨ましい光景だ。自分には叶わなかった光景。
「で? 柊平はどんなん? 我らの奈緒さんは元気なの?」
大和が尋ねると隣で慎吾も興味津々と言う目を向けてくる。柊平はなんだかバツの悪いような心持ちを隠すことも出来ず、頭を掻きながら答えた。
「もうすぐ単身赴任が終わって帰って来るよ。ってか我らの奈緒さんって」
「だって我らの奈緒さんだったじゃん? 美人だしみんなに優しかったし成績超良かったし、オレらみんなが尊敬する憧れの先輩だったからなあ。まさかお前に持ってかれるとは思わなかったけど」
「持ってかれるとかやめようよ」
「いーや、お前は持ってったんだからな。それも結構雑に」
頬杖をついて睨みつける大和の眼光はなかなかに鋭く、にこやかに髪を切る動画の主とは別人のようだ。
「好きで結婚したんなら別に文句ないんだけどさ。違うじゃん」
「大和、止めな。柊平も奈緒さんも色々あって」
「その色々が歪み過ぎてる」
慎吾の制止を振り切って大和が喋り続ける。
これは説教の予感がする、と形勢不利を感じ取り柊平はいったん仕切り直すべく席を立ちかけた。
「ちょっとトイレ」
「ダーメ。逃げるな。まったく」
すぐさまテーブル越しに手首を掴まれ、大和に止められた。掴まれた手の力が強過ぎたことで観念し、再び着席する。もう動かないと分かった大和は手を離すと今度は眼鏡を取り上げた。流石に不快感を覚えて柊平の声が低くなる。
「何すんだよ」
「何に怯えてるのか知らんけど、ちゃんとオレらの目を見て話そうぜ」
柊平は口をつぐんだ。完全に図星だった。
知られたくないこと、知られたらまずいことが常に沢山あるような気がして一枚噛ませたくなり眼鏡を買ったのはいつのことだったか。結界を張ったような安心感が眼鏡にはあって、取り上げられると人の視線や言葉がダイレクトに差し込んでくる分攻撃性を感じてしまう。暴かれたくないことを晒さなくてはならないような、強迫観念にとらわれる。
恐らくその理由に勘づいているに違いないとは言え、大和のやりようはデリカシーがなくて腹立たしい。ただ、そもそも気の置けない間柄だし言い争ったところで勝てる気がしないしで早々に諦めた。はあとため息を吐く柊平に、慎吾がのんびりとした口調で問いかける。
「まだ、ダメだと思ってる?」
「うーん……」
「大和とオレのこと見て、気持ち悪いとかいけないこととか思ってる?」
「そんなことない、全然ないよ! むしろめでたい」
「じゃあ柊平だって無理しなくていいと思うんだ」
「でももう遅いよね」
柊平は自分のグラスを見下ろして、立ち昇る炭酸が上っては消える様を眺めつつ答えた。そう、もう遅い。自分の選択はもう成されて約束は成立して戸籍もあって、人ひとりの人生を既に預かっている。今は上手くやれているしこれからも上手くやっていかなければならないのだから、簡単な気持ちで壊すわけにはいかない。
◇◇
話は十年ほど遡る。
柊平は自分が男性しか好きになれないことを自覚していて、そしてそれを理解する相手と交際を始めた。大学二年の秋。けれど幸せな時は一瞬で、両親に見つかり咎められたことをきっかけに柊平の方から離れていったのがその僅か一ヶ月後。以来柊平は女性を好きになれるよう努めてみたが、そんなことは不可能だ。ちょっと笑いかければ女性の気を引くことは出来るけれど、いつだって全く望まない結果に成り果てる。
お堅い家庭に育ち、政府関連企業に入った兄の背中を追うように勉強を続け、柊平は大学を卒業後国家公務員になった。いわゆるキャリアだ。両親は人生安泰みたいなことを言って喜んでいたのも束の間、次は奥さん子どもと言い始めた。無理だと思った。
そんな時、ゼミの卒業生が一堂に会するパーティが開催されて参加した。久しぶりに会った先輩とたまたま話していた時に転期が訪れる。
彼女は、来島奈緒という先輩は大手商社に就職していたが、仕事が面白くて結婚や出産に興味を持てないと悩んでいた。キャリアを積むには不要な概念だとまで言い放ち、それでも周囲の圧に耐えかねていると自嘲気味に話す姿が痛々しかった。美しく聡明できっと仕事も出来るのであろう、何もかもを持っている先輩が悩んでいる。重ねては失礼かもしれないとは思いつつ柊平は自分の不遇を重ね、そして思いついた策を先輩に告げた。あの時の先輩の嬉しそうな、暗闇に一筋の光を見つけたような顔は今でも忘れられない。柊平は持ちかけたのだ。
そういうことなら僕と結婚しません? と。
もともと大学でも一年間をゼミで時を共にしていて、食事に行ったりレポートについて教わったりして接する機会の多い人だった。柊平の恋愛事情も当時話した。だからこそ彼女も自身の葛藤を赤裸々に話してくれたのだろう。きっとふたりでなら、例え恋愛感情がなくても上手く割り切った結婚生活をやっていけるような気がした。子を成せないことなら結果論で押し切れる。
そして本当に結婚した。柊平二十五歳、奈緒二十七歳の秋のことである。結婚式を終えて両家の両親が心の底から喜んでいるのを見たふたりは、ミッションコンプリート! とハイタッチをしたのだった。
◇◇
あれから五年の時が過ぎた。
「遅くない。手遅れになる前に解消した方がいいとオレは思うけどね」
大和の言うことももっともなのかもしれなかった。
共同生活者として柊平と奈緒の相性は決して悪くなく、初めの二年ほどは楽しいハウスシェアみたいな感覚で暮らしていた。しかし空気はやがて淀み始め、逃げるように奈緒がドイツに駐在してからは互いに会うどころか連絡すらせず見事に音信不通の三年間が過ぎていった。それはそれで互いに干渉しない暮らしだと割り切れるのかもしれないけれど、ならば果たしてこの結婚に意味があるのだろうか。疑問に思うのは確かだった。
大和がさらに追い詰める。
「なんか結婚退職みたいな感じで外務省辞めてさ、それなのに奈緒さんの海外駐在に付いていかなかった時点でお察しじゃない?」
「別に結婚退職じゃないよ。兄さんが両親の希望を全部果たしてくれたから、もう僕はいいかなって思っただけでさ」
「だったら結婚のことももうよくないか? お兄さん結婚したよね?」
「オレもそう思うよ」
「うーん……」
もともと三人でつるむことが多く色々話していた中で、大和と慎吾にはうっかり実情を知られてしまったのだが固く口止めしている。自身だけならともかく奈緒の人生に影響があってはならないからだ。
大和も慎吾も話をきちんと聞いてくれて、なんだかんだ言いながらも秘密を守ってくれているのはとてもありがたいし心強い。だからこそ自分の決断には自分できちんと責任を取るべきだ。と思う。どう、なんだろう。本当はもう。
浮かんでは消える何かを隠すように、グラスを傾け一気に煽る。今まで上手くやって来られたのだからこれからも大丈夫。大丈夫、大丈夫……。
「柊平は辛くないの?」
「大丈夫」
「好きな人とか出来たりしない?」
慎吾の一言で全ての思考が吹き飛んでいく。
代わりに浮かぶのは達樹の顔だった。
眼鏡がない方がいいと言いながら真っ直ぐ見てきたあの切れ長の目が、眼鏡というフィルターを外した柊平を容赦なく刺したのは昨夜のことだ。飾ることを知らないあの目が、常に何かを隠そうとしている自分を抉る。
確か最初は、常連高橋が連れてくる大人しいお客、観察しがいのある不器用な子、シイタケが大嫌いなシイタケちゃんだったはずだ。
たった二ヶ月足らずで解像度が上がり印象も全く変わってしまった。確かに大人しくて不器用だけれどその分発信は真っ直ぐで人の心を結構惹きつけている。自身もそうして惹きつけられたひとりであることは間違いない。
ただし本人に自覚がない分その対人スキルは無防備で危うい。シイタケ以外は何ひとつ断らない。たくさんの仕事を引き受けてしまう、好きでもない人に誘われ付いて行き迫られてしまう、頭を撫でられても抵抗しない、家に乗り込まれても受け入れる。乗り込んだ身としては偉そうなことを言えないのだがそれでも危なっかしくて仕方ない。ひとりで何もかも抱え込んで人知れずストレスが溢れてしまう彼の傍にいて、かいがいしく手を焼いてあげたい。
ただ、だからこそ、誘えない。誘ったら必ず応じてしまう彼に、中途半端な状態の自分がこれ以上声を掛けるのは失礼な気がした。
なにより達樹が男性を好きになることは多分ない。友達にはなれそうだけれどそれ以上を望んではいけない相手なのだ。ジレンマがすごい。
「おーい、しゅーへーくーん」
「ん?」
顔を上げると大和も慎吾も呆れたような苦笑いを浮かべていた。
「やー、悩んでるねぇ。好きな人いるってことで合ってる?」
「あっ、あれ?」
「あれじゃないから。ホントお前って嘘つけないよなあ」
「柊平がなんかかわいい」
「かわいいとかやめて! 僕もう三十!」
苦笑はいつしか爆笑へと変わっていった。ふたりは妙に楽しそうで、散々笑うと互いに顔を見合わせ、そしてグラスを柊平に向けて掲げた。
「はい、じゃあ十年ぶりの恋に乾杯」
「乾杯」
「いやいやいや、だから待って待って」
勝手に進めないで欲しい、奈緒さんはどうなる、言い返そうとしたその時テーブルに置いた柊平のスマホが光った。視線を落とし通知を見た瞬間息が止まる。慌てて受信メッセージを開くと、そこにはまごうことなき達樹からの文章が置かれていた。
次の土曜日か日曜日、どちらでもいいのでもし──。
初めて達樹発で届いた連絡は不完全で、まるでダイイングメッセージのようだった。でもこれはどう見ても。
「誘われた」
思わず口に出してしまうほど驚いた。誘ったら絶対に応じてしまう彼を案じていたけれど、まさか誘われるとは想定していなくてどうしていいか分からずただ顔が熱くなる。
一体何に誘おうとしてくれているのだろう、何でもいい、どこだって行こうじゃないか。
メッセージの続きが来るのか、待たずに返事をすべきか。浮かれて悩む柊平の前にすっと眼鏡が差し出された。顔を上げると大和がひとつ目配せをして柊平の肩越しに視線を移し、手を挙げている。どうやら他の面々が現れたらしい。
背後に近づいて来るよく知った声を聞きながら、柊平は眼鏡を掛け呼吸を整える。達樹の誘いが気になって仕方ないが、今から数時間は奈緒の夫を演じなければならなかった。
振り返り、きちんと笑う。
「久しぶり!」
歪んでいるってこういうことかと、認めざるを得なかった。
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