第9話 誘おうと思った
達樹が所属するコンプライアンス管理部第一課の面々が会議を終えてぞろぞろと会議室から出てきたのは、十七時半になろうという頃だった。
会社の自社ビル四階には多数の会議室とフリーコミュニケーションスペースが設置されていて、会議や来客対応のために会議室に入ることもできるしカフェのようなフリースペースでミーティングを行うこともできる。コーヒー等の飲み物も多少用意されているので休憩も出来そうだが、完全予約制のためふらりと立ち寄ることは出来ない。
会議は課長の異動に関するものだった。来年一月一日付けで海外駐在が決まったことに伴い課長が交替となることと、後任の課長が決まったこと。十二月の正式発表を前に知らせてくれたと言うわけだ。大々的な組織変更や異動は毎年四月に行われるが、それ以外にも毎月数十人の異動や入退社があるのでこの時期の駐在は特段珍しい話ではない。
普段は朗らかだが怒ると何を言い出すか分からないため密かに敬遠されていた課長。その異動を聞かされ新人の赤城が分かりやすくホッとしていたのをおそらく誰も見逃さなかっただろう。少しあからさま過ぎる反応とも思えたが誰も指摘しなかった。なにしろ誰にとってもあと少しの辛抱なのだから。達樹だって二文字多いと言われたことを忘れていない。柊平がいなかったら今頃声を失っていたかもしれないのだ。
そんな会議が終わり二十一階のオフィスに戻るため皆でエレベーターに向かう道すがら、団体の最後尾を歩いていた達樹は後ろから軽快に声を掛けられた。
「ハイ、タッキー」
達樹をそう呼ぶ人はこの世にひとりしかいない。達樹は振り返って、想定通りのプラチナブロンドがそこにいることを確認し挨拶を返す。
「お疲れ様、ソフィア」
「久しぶり。タカハシがいないとだめね」
ソフィアはアメリカ生まれの女性で、日本人と結婚した翌年ここに入社した達樹の同期である。今や日本語をごく当たり前に話す彼女も入社当時は「つ」の発音が苦手で、タツキと発音できないと言って「タッキー」と呼び始めた。谷野と呼んでくれればいい気もしたがソフィアと呼んで欲しいからと食い下がられ、結果として社内で唯一ファーストネームを呼び合う間柄になってしまった。最初は猛烈に恥ずかしかったが二年半経った今は慣れと諦めで特に感慨はない。
第五営業部で働く彼女の名をチャットやワークフローで見かけてはいたが、顔を見たのは確かに久しぶりだった。居酒屋「ポチ」での同期会、達樹がトイレで寝込んだあの日以来かもしれない。あの直後から高橋はずっと海外出張に出たきりになっていて、そして高橋がいないと飲み会が開かれないという何とも分かりやすい図になっている。
「久しぶり」
達樹はとりあえずおうむ返しみたいに言った。
こういう立ち話が本当に苦手だ。いいお天気ですねなんて誰も言わない。特段聞きたいことや言いたいこともない場合人はいったい何を話すのだろうか。
だからだいたい会話の主導権を相手に渡してしまうという自身の特性を考えると、ソフィアは立ち話の相手として申し分なかった。放っておいても喋り続けるからだ。先にエレベーターに乗り込んでいた課員たちに会釈をして先に行ってもらい、改めて彼女に振り返れば目の前に満面の笑みがあった。
「聞いてほしいの、タッキー。十二月末にミズ・カガミハラがフランクフルトから帰国して、一月から私の上司になるのよ! 嬉しくって!」
ミズ・カガミハラ。それが誰なのか達樹は知らない。ただ思い出すのは同期会でソフィアが尊敬する先輩社員がいると、それはそれは熱く語っていたことだった。憧れだとか大好きだとか、いつか彼女のもとで仕事をしたいとか言っていたような気がする。
「ええと、それはソフィアが尊敬する人のこと?」
「イエス!」
そこからソフィアがひとしきり、ミズ・カガミハラがどれだけ素晴らしい人かをまた語ってくれた。大きな商談をまとめた話や誰にでも好かれるキャラクター、強いリーダーシップとカリスマ性。いくつもの言語を操り相手を説得することがとても上手。ものすごい情熱的な話し振りだ。
乗ったエレベーターを十五階で降りて、高層階行きエレベーターに乗り換えようとボタンを押したあたりでようやくソフィアが満足げにひとつ息を吐く。終わりかと思いきや話はまだ続いた。
「帰国後できるだけ早く話したかったから彼女をディナーに誘ったの。そうしたらね、なんと帰国の翌日に時間を作ってくれたのよ! 私って本当に幸せ者だわ」
「よかったね」
「タッキーも来る?」
「え?」
「十二月二十六日。だいぶ先だけど今から楽しみで仕方ない。いかが?」
「その、他にも誰か来るの?」
「来ないわよ。彼女とふたりでディナーの予定だけど、タッキーも一緒に来たら楽しそうと思っただけ。一月からはあなたも仕事で彼女にたくさん関わるでしょう? 会っておいて損はないと思う」
ソフィアは『みんな友達!』という感覚を持つ人なだけに、気軽にどこにでも誘って来る。けれど今回はどう考えても自分が行くには場違いかつ苦手なシチュエーションに思えた。誘われるうちが花だとは言え、行かなければならないだろうか。
即答を聞けなかったソフィアがどうしてという表情で達樹を暫し見つめた後、ハッと目を見開いた。
「十二月二十六日はタッキーの誕生日ね! 私うっかりしてた!」
「えっ、よく覚えてたね」
脳裏をよぎらないわけではなかった自分の誕生日も、特別な日という感覚はほぼないのでどちらでもよかった。それよりもその素晴らしきミズ・カガミハラとの時間を邪魔する方がずっと重要な問題だ。達樹はひとまずこの場を収めることに決め、定型文を口にする。
「予定を確認して、連絡する」
「オーケー」
彼女はそれ以上深入りすることなく、十八階で手を振りながらエレベーターを降りて行った。
揺れるプラチナブロンドが立ち去った後ひとり残された箱の中で、達樹はなんとなく会社用スマホを取り出し社内ポータルサイトにアクセスする。カガミハラ、フランクフルト……検索で表れたのは黒髪がつややかで目力の強い女性の顔写真と、各務原というあまり見かけない苗字だった。どちらも一度見たら忘れそうにないことを考えると、やはり知らない人みたいだ。
ポンと柔らかな音がしてエレベーターが上昇を止めた瞬間、ふと気がついた。
スマホが近い。
いつからこんなにスマホを顔に近づけて見るようになったのだろう。もしかすると自分で思っているより目が悪くなっているのかもしれないと初めて自覚した瞬間だった。
昨日の夜「ポチ」で交わされた会話を思い出す。眼鏡ぐらい買った方がいいと言ったメグママの言葉、試しに掛けた眼鏡、伊達眼鏡を掛ける理由、嘘か本当か、答えにくい何があるのか……。知りたい気持ちが蘇る。柊平が何を思い、何のために伊達眼鏡を掛けているのか。ない方がいいとつい言ってしまった時の、クリティカルヒットとは何だったのか。
「あれっ?」
二十一階で開いた扉を抜けながら達樹は唐突に声を上げていた。
例えば眼鏡を作りたいから一緒に来て選んで欲しいと言ったら彼が、柊平が週末の時間を空けてくれたりするのだろうか。
彼ともっと話をしたい、店の外でも会いたいと思っていたけれど、ならば自分から誘えばいいのではないかと初めて気がついた。連絡のひとつもくれないと思うばかりで、自分から連絡することに何故今まで思い至らなかったのだろう。目が覚める思いだった。
エレベーターホールで立ち止まり、今度は私用のスマホを取り出し柊平に宛ててメッセージを書き始める。次の土曜日か日曜日、どちらでもいいのでもし……そこまで打って手を止め、スマホをポケットにねじ込んだ。全身が汗をかくレベルで熱くなり、スマホを持つ手が震えてこれ以上文字を打つことが困難になったからだ。
長らく人に申し出ることがなかったから忘れていたけれど、誘うとはこんなに恐ろしいことだっただろうか。
滅多に望みはしなかったけれど、強請って顔をしかめられた時の絶望感というか自責の念みたいなものは案外記憶が薄れていないのだと改めて思い知らされる。達樹は帰宅後改めて文面作りに再挑戦しようと決め、残りの仕事を片付けるためにオフィスへと戻っていった。
ねじ込んだポケットの中で書きかけのメッセージが発信されてしまっていることにも気づかずに。
秋の長い夜はまだ、始まったばかりである。
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