第8話 聞けなかった

 十一月も半ばを過ぎるとすっかり日が短くなる。オフィスにチャイムと思しき音が鳴り響く頃には窓の外が宵闇に包まれて、随分遅くまで会社に居残ってしまったような気分にさせられる季節がやって来ていた。


 達樹は慌てて机上を片付け、挨拶もそこそこにオフィスを後にする。山之内とともに訪れたその翌週から、毎週月曜日になると仕事を早々に切り上げて居酒屋「ポチ」に足を運んでいるのだ。

 もちろんひとりで。

 通い続けて早一か月半、つまり今日が六回目。今や「ポチ」は社外で唯一に近いリアルコミュニティとして達樹の中で定着しつつあった。

 気持ちが逸ってエレベーターのボタンを連打してしまうほど楽しみな場所は地下鉄で二駅移動した先にある。七番出口から徒歩二分の雑居ビル一階。重たい扉を押し開ける。

「いらっしゃい、タツキくん」

 今では店長が名前を呼んでにこやかに出迎えてくれるまでになった。カウンターの一番奥が指定席、座りながら隣席の常連客メグママに挨拶をするまでが一連の流れである。

 このビルの四階でスナック「メグミ」を営む美人ママは、早い時間にはまだスナックに来る客もなく暇なのだと言い「ポチ」まで降りてきてはビールを飲んでお喋りを楽しんでいるのだそうだ。いつも隙のない装いで、今日は薄いピンクとオレンジの中間みたいな色の和服で座っていた。多分もっと格好いい色名があるのかもしれないが残念ながら達樹の知識にはこれ以上の表現がない。

「こんばんは」

「こんばんは。タツキは几帳面ねぇ、いつも同じ時間に来るなんて」

「仕事が終わった瞬間に会社を出てるだけです」


 毎週月曜日は残業しないと決めた達樹が知ったのは、案外何とかなるということだった。

 残業が当たり前で、毎日時間を問わず仕事が流れてくる日々に何ら疑問を持たずにこれまでやってきた。引き受ければ引き受けるほど無茶振りが増えていったが、それはある意味必要とされている証なのかもしれないと考え、断る面倒くささと天秤にかけた挙句ずっと引き受け続けてきた。

 でも月曜日だけは何が何でも早く帰ると決めてから不思議なほど月曜日の仕事がスムーズになって、きちんと終業時までに片付くようになった。もちろんその分火曜日に回る仕事も出てくるのだが、少なくとも月曜日の内に終わらせなければならない仕事をより分けることになるし、なにより終業時間後の無茶振りが聞こえない内にその場を去れる。快適だ。週に一回ぐらいこんな日があってもいい。

「よしよし。ちゃんと仕事終えられて偉いわ。シュウちゃーん、タツキが来たわよぉ」

 メグママに頭を撫でられるのにももう慣れた。最初は子ども扱いされて不本意だと思ったが、この圧倒的肝っ玉かあさんが相手では文句を言っても勝てそうにないので受け入れている。撫でられるがままにしていると、厨房から柊平がおしぼりを持って現れた。

「あー、またナデナデされてるし!」

「こんばんは」

「いらっしゃい!」


 一ヶ月半通い続けた達樹が明確に自覚したことがある。柊平に会いたくてここに来ているということ。いらっしゃいと笑ってもらえるのが嬉しいこと。彼が自分に向けて言葉を掛けてくれることがこんなに嬉しいと気づいてしまった。あの日、山之内と訪れた日のほぼパニックだった達樹に寄り添ってくれたことは彼への絶大なる信頼へと繋がっている。もうパリピとかどうでもいい。この人生で感じたことのない高揚感は結果としてたくさん彼に会いたいと言う思いと絶対毎週「ポチ」に行くという決意に繋がっている。

 あとは自分の心に忠実に、月曜日の夜に照準を合わせて仕事をやりくりするだけだ。


「お疲れ様。ハイボール?」

「はい」

「今日は厚揚げを作ってみたんだけど、食べる?」

「いただきます」

「シュウちゃん、アタシにも厚揚げちょうだいよ。どうしてタツキばっかり」

 加えてこの、メグママという圧倒的肝っ玉かあさんも達樹にとっては大事な出会いだった。彼女は達樹が中学生の頃実家で家事をしてくれていた家政婦にどことなく似ているせいか、とても話し易い。

 メグママは山之内のことをよく覚えていた(達樹はあの日カウンター席にいたのがメグママだったことを全く覚えていない)。翌週ひとりでここを訪れたら彼女がカウンターでビールを飲んでいて、あれはガチよ、気がないなら離れなさいといきなり説教し始めた。達樹はただただ驚いて返す言葉も見つからなかったのだが、聞いているうちに山之内との接点が激減したことに漸く思い当たった。

 どこに座ってもよいフリーアドレスのオフィスで山之内はいつも達樹の向かい側に座っていたのに、今は席が離れ会話をすることがほとんどなくなっている。仕事で必要最低限の言葉を交わす程度になり、以前のように気を利かせてサポートしてくれることがなくなった代わりに表情や雰囲気を読み取り干渉されることもなくなった。

 どちらが良かったのかは分からない。でもメグママの言う「ガチ」だったのなら、達樹には応えられない気持ちなのでこれ以上距離を詰めて来られても困る。だから彼女の方から離れて行ったことは職場環境を考えるとむしろありがたかった。


 カウンターには達樹とメグママのみ、あとは奥のテーブルに何人かいるだけだった。結局厚揚げは達樹にしか出てこなかったのでメグママにひと切れお裾分けし、食べながら他愛のない話をする。話すと言ってもメグママ九割に対して達樹一割だけれども、聞かれたことにきちんと答えると喜んで聞いてくれるので、達樹にしてはよく喋っている方だ。暫くすると手が空いたらしい柊平が現れ、達樹と柊平がメグママを挟むように三人並んで座りおしゃべりを続けるのが最近の常となっていた。この時間は一週間の中で最も楽しい。


 今日の話題は達樹の目についてだった。

「シュウちゃんからも言ってやってよ。タツキに眼鏡買いなさいって」

「そう言えばタツキくんって目が悪いんだよね。眼鏡似合いそうだし、いいんじゃない?」

「ほらね。別にそんな高価なのじゃなくてもいいんだから眼鏡ぐらい買いなさい」

「不便は感じてないです」

「時々目つきが悪いのよ。ああ、ちょうどいいわ、シュウちゃんその眼鏡貸して」

「うわっ」

 言うなりメグママが柊平の眼鏡をすっと顔から引き抜いた。そのまま渡された達樹は流れ的にかけてみろと言うことなのだろうと理解し、それならばと掛けてみる。確かボストンタイプと言ったか、丸みを帯びたフレームがほんの少しだけきついのは柊平の方が顔が小さいことを意味しているのだろう。壊さないように気をつけなければ。

「……?」

 似合うかどうか想像が付かない、むしろ違和感しかないだろうと思ったのだが、それ以前に奇妙なことに気が付いた。眼鏡を掛けても視界が何ひとつ変わらないのだ。正確にはほんの少し暗くなった。傍目には分からない程度の色が入っていて、度が入っていない伊達眼鏡。メグママの向こうでこちらをじっと見ている柊平が目を細めたり見開いたりしていないことからも、この眼鏡が視力矯正用でないことは明らかだった。

「あら、これはイマイチだわ。四角いフレームの方が似合いそうね」

「分かる。スクエアでエリート感マシマシ」

「フレームは黒がいいかしら」

「そうだね。細い……いや、結構存在感ある黒でもいけるかな?」

 似合っていないらしい眼鏡を眺めながらふたりが話し続けている声をよそに、達樹はぐるぐると考えていた。伊達眼鏡を掛ける理由は何なのだろう。眼鏡を掛けていない彼がすぐそこにいて、眼鏡なんて掛けない方が良くて、かといって眼鏡が似合わないわけではなくて、でも個人的には眼鏡を掛けていない方が好きで、けれど例えば目が光に弱いなどの事情で眼鏡が必要なのかもしれなくて、もっと深刻な事情があるなら干渉するものでもなくて……。我ながら気持ち悪い堂々巡りだと思うけれど、それでも聞いてみたいと言う誘惑が消えてくれない。

 そう、最近とみに思うのだ。色々な話をしているようでいて、実は柊平と言う人のことを何も知らないと。彼は果たして何が好きで何が嫌いで、何について何を思うのかちっとも話してくれない。なんなら家も苗字も知らない。こちらはすっかりバレているのに。

 店員なのだからゆっくり話し込むことができないのは分かっている。分かっていても知りたいものは知りたい。もっと言えばあれ以来、達樹の部屋を片付けた後に立ち食い寿司を食べた日以来、店の外では会っていない。もっとゆっくり話したり食事をしたりしたいのに、連絡のひとつもくれないことがもどかしかった。

「気に入ったの?」

 メグママに聞かれて我に返る。目の前に彼女の手が伸びてきていて、達樹はと言えば必死に眼鏡を両手で押さえていた。もう品評会は終了し、眼鏡を外せと言われたのかもしれない。堂々巡りのせいで全く気が付かなかった。

「あの、どうして伊達眼鏡なんですか」

 聞いていいことなのかどうか分からなくて悶々としていたはずなのに問いが口を突いて出てしまって、自分の言葉なのに達樹自身びっくりした。その上問われたふたりも一瞬固まったので内心やってしまった、と自分の口を呪う。余計なことを……謝罪すべく再び口を開いたところでメグママが先に沈黙を破った。

「それ、伊達眼鏡なの?」

 言いながら達樹から眼鏡を受け取ると、自らの目を通してレンズを確かめた。

「本当、度が入ってないわ」

「あっ! ちょっとごめん、鍋を火にかけたままだ!」

 柊平が勢いよく席を立つと厨房に駆け込んで行ってしまった。

 そして残されたアンバーのセルフレーム。メグママが、ふっと笑った。

「タツキ、いいことを教えてあげる」

 内緒話の囁き声で言い出すから達樹は思わず体を傾ける。少し掠れた声が耳元で密やかに告げた。

「シュウちゃんって頭が良くて機転が利くのに、アドリブが苦手なのよ」

「はあ」

「答えにくいこと聞かれるとああやって逃げるの。少し待ってなさい、それっぽい答え作って帰ってくるわよ」

 ふっくらとした指で眼鏡をつまみ上げ、眺めながら楽しそうに彼女は話し続ける。

「こんなのファッションですって言えば済む話なのにね。それすら思い浮かばなかったってことはタツキ、アンタが……ええと、こういうのなんて言ったかしら。こないだ神宮寺さんが言ってたんだけど……」

 神宮寺とは「ポチ」に来る常連の一人で達樹も二回ほど会ったことがある。メグママととても仲が良い、おしゃべり好きなおじさんだ。確かゲーム会社のお偉いさんだと言っていた。その神宮寺が何を言ったのか。達樹は黙って続きを待つが、メグママからは何も出てこない。その時。

「クリスタルライト」

 今まで話の輪に入らず黙々と串を刺していた店長がカウンターの中から初めて言葉を挟んできた。

「そうそう、クリスタルライト! タツキの言ったことがクリスタルライトだったって訳よ」

「クリスタル……?」

 何だそれは。

途方に暮れた達樹の声を遮り、ピリピリと電子音が鳴り響く。テーブルの上に伏せてあるスマホが軽快にメグママを呼び出していた。このコールが四階のスナックに客が来たと知らせる電話だということは、達樹も最早よく知るところだ。彼女がこう見えて仕事中だったと思い出す瞬間である。電話に短く応答してからグラスを一気に空け、席を立ちながらメグママはニッコリと微笑んだ。

「じゃ、あとは頑張ってね、タツキ」

「お疲れ様です」

「あざっした!」

 ちょうど厨房から出て来た柊平と店長に見送られ、メグママは後ろ手に手を振りつつ帰って行った。クリスタルライトという謎の単語を残して。


 目の前に置かれた眼鏡を眺めながら考えていると、そこにコト、と小鉢が置かれた。湯気とともに醤油とだしのいい香りが立ち昇る。顔を上げた先で柊平がどうぞと言いながら達樹の隣に腰を下ろし、眼鏡に手を伸ばす。かと言って掛け直すでもなく、手持ち無沙汰に開いたり閉じたりしながら自嘲気味に話し出した。

「僕めちゃくちゃ視力いいんだよね。でもさ、この歳で両目一・五ですって言うと勉強してこなかったなって皆笑うんだよ。酷くない?」

「……それは酷い」

「でしょ? だから眼鏡かけて目が悪いふりしてるって訳」

 聞きながらも達樹の脳内にはメグママの言葉が再生されている。答えにくいことを聞かれると逃げ出す。それっぽい言葉を作って戻って来る。例えば今話してくれたことが嘘で、何かもっと重大な理由が本当はあるということなのかもしれない。だって理由が少々可愛らし過ぎる気がする。

「メグママ何か言ってた?」

 そんな確認の言葉も、もしかしたら思うところがあって様子を伺っているのでは。

 けれどそれを問いただす必要があるのだろうか。この人に関する大切な何かを無理やり掘り返しても良いのだろうか。知りたいからという勝手な理由で嫌な思いをさせたくない。興味と干渉の境目が分からなくて、達樹は結局それ以上の追及を諦めた。迷った時は黙るに限る。

「いえ、特には」

 何故こんなに何もかもがもどかしいのだろう。箸を取りながら達樹は、月曜日だけでは足りないと思っている自分を自覚した。もっとこの人を知るために、もっとたくさんの時間を一緒に過ごしたい。どうにかならないのだろうか。大事な概念が欠けている達樹の夜は淡々と更けていく。


 イカ大根はとても柔らかく、味が染みていた。

「美味しいです」

「ほんと? よかった!」

 隣に座って頬杖を突き、柊平が笑う。

 その笑顔だけでもお腹いっぱいになりそうで、喉元が詰まる思いだった。そして近くで改めて見てもやはり。

「眼鏡がない方がいい」

 ハイボール二杯で酔ったのか、今日はどうやら強く思ったことが口に出てしまうようだ。達樹の言葉に柊平が一瞬目を見張って、それから目を細め、しまいに両手で顔を覆った。

「んー、クリティカルヒット」

「あ、それだ。クリスタルライトじゃなかった」

 柊平も、店長も、何を言っているのか達樹には今ひとつ理解できなかったけれど、どちらもそれ以上の説明がない。暫し二人を代わる代わる眺めていても言葉が続く様子がなかったので、仕方なくイカ大根に戻って行くことにした。

 いつか、何かの拍子に、彼の伊達眼鏡の理由を聞けたらいいと思いながら。

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