第7話 不覚

「ありがとうございましたー」


 女性を伴って達樹が店のドアを抜けた。重たいドアがカランカランとベルを鳴らしながらゆっくりと閉じていく様を、柊平は立ち尽くしてじっと見つめる。透けて見えるわけでもないのに遠のく気配を感じようとするかの如く、じっと。


 静寂。

 そして背後から歓声が上がった。

「シュウちゃん! よくやった!」

 振り返ればカウンターに座る二人の客が大仰に拍手をしていた。常連の神宮寺とメグミがそれはそれは楽しそうな顔でこちらを見ている。柊平は頭を掻きながらえへへと笑った。

「危なかったわ! シイタケちゃんったら、あの女の子に食われるところだったわよ」

「ほんとほんと。シュウちゃんがいつまでも拗ねて引っ込んでるから、ヒヤヒヤしながら見てたよ」

「メグママ、シイタケちゃんは禁止。こないだ言った途端に吐かれたんだから」

「ははは、嫌いな食べ物で呼ばれたら誰でも気分悪くなるよね」

「っていうかなんで神宮寺さんも知ってるの?」

「いやあ、天の啓示だったかなあ?」

「わあ、天にまでバレてる!」

 笑い声がこだまする。


 メグママと呼ばれた女性はこのビルの四階でスナック「メグミ」を営む美人ママである。月曜日の早い時間は客足もないそうで、一階まで下りてきて居酒屋「ポチ」でビールを飲みながら店員や他の常連客と談笑している。柊平より年上であることは間違いないが、実際の年齢は誰も知らない。いわゆるママのイメージそのままにいつもとても綺麗に着飾っていて、今日は浅黄の和服を着て髪をまとめ上げている。

 実は先週の木曜日、閉店が遅れ帰る術をなくした柊平は店長とともに四階のスナック「メグミ」で朝まで過ごしていたのだった。酒を飲んだら寝てしまうと思いウーロン茶で朝までお喋りに付き合ってもらったその時に、柊平は確かにシイタケちゃんの話をした。不器用を絵に描いたような大人しい男性客が気になるとか、髪型がサラリーマンし過ぎてるけど顔はいいとか、思うままに言葉にした。シイタケをどうしても食べられないっぽくて嫌がる様子が可愛いから、シイタケちゃんと心の中で呼んでいることも話した。まさかその後地下鉄で出会った彼に倒れ込み助けられるとは知る由もなく、また来たらいいなあなんて大人たちに話したのをよく覚えている。どうやらその話があっという間に共有され、酒の肴にされたようだ。

 とは言え神宮寺と呼ばれた男性は「ポチ」でメグママに会えばそのまま「メグミ」にも行くありがたい客なのだから、まあ彼相手ならばたまには口が滑るのも仕方ないことかもしれない。

 老若男女さまざまな層の客がやって来る「ポチ」だが、早くから付いた常連はメグママの紹介が多く比較的年齢層が高めだ。店長も含めてみな子供のように可愛がってくれるので柊平は適宜甘えて楽しく過ごしている。

 居酒屋「ポチ」でアルバイトをしていると、いい人たちに囲まれて料理の腕も上げられて、賄いも食べられるし人間観察を楽しめる。その上給料までもらえるなんて、本当にいいことずくめでやめられない。強いてデメリットを言うなら、三十にもなってアルバイトなんてと眉を顰める親がうるさいぐらいだ。


 達樹たちのいた場所を片付けながら、柊平は大人げなかった自分を恥じた。

 来て欲しいと頼んだのは自分だが、まさか女性を連れて来るとは思わなかったから動揺して厨房に引っ込んでしまった。女性の声が聞き取りやすいのをいいことに盗み聞きした情報を頼りに類推すると、達樹の先輩と思しきあの女性が無理やり付いてきたのはほぼ間違いない。私は味方よアピールが大層強かったからきっと職場で日々達樹に思いを募らせているのだろう。隅に置けない男だ。

 ただ、達樹以外の登場人物が徹底的に貶められるのが気になった。しまいに高橋の悪口まで言うのは少しやり過ぎだ。多分「ポチ」常連の高橋を、達樹の同期の彼を指しているのだろうと思われる。まあ、この店全体を敵に回したようなものだ。


 達樹はそんな話が積み重なってキャパオーバーを迎えたと思われる。うるさい! 黙れ! などと叫べるタイプでないのは一目瞭然だが、一時的とは言え声が出なくなるほど静かに煮詰まっていたとはあまりにも気の毒だ。最初の「ハイボール下さい」まではその声が聞こえていたのを思うとあの女性にとどめを刺されたのはほぼ間違いない。

 今日一日会社で何があったかすべてを知る由もないけれど、聞こえてきた内容だけでも余程辛かったのであろうことは推察できた。もっと早く助けてあげられたはずなのにいつまでも厨房に隠れていた自分が情けないし申し訳ない。もう大丈夫だろうか。


「けどシュウちゃん、うかうかしてらんないわよ」

 あれこれ考えながら手を動かす柊平にメグママが声を掛ける。顔を上げるとその向こうで微笑む神宮寺の髭面も見えた。

「今日はたまたま不発だったけど、あの子顔いいし真面目そうだし、女の子が放っておかないと思うの」

「そうかもね」

「あら、反応薄いわね」


 先週の木曜日にスナック「メグミ」で話した時はまだ、柊平にとっての達樹はあまり感情を表に出さない分かりにくさを抱えた子に過ぎなかった。確かに顔は好みだけどそれだけで、密かにシイタケちゃんと名づけて来る度観察する程度の存在でしかなかった。


 しかしその後の数日で状況が著しく変化したことをメグママは知らない。彼が酔っ払って倒れたことも、その後何を言って何をしたかも、翌日からどれほどの時間をふたりで過ごしたかも知らない。よく見ていると案外表情が変わることも、笑うとどうしようもなくかわいいことも、真面目な顔して言うことが天然なところも、ビックリするほど素直で無防備なところも。

 二日あまりで更新された情報が強過ぎて処理が追いつかないままさっき女性とともに現れた彼を見た時の衝撃は、メグママには測れないだろう。

その上あの顔だ。声が出ないと訴える目が、助けを求めるあの顔が目に焼き付いて離れない。絶対放って置けないという庇護心を爆発的に掻き立てられて、危うく抱き締めてしまうところだった。


 ああ、まずいな、と柊平は思う。長らくコントロール出来ていた感情がこんなにも引っ張られている。何かを口に出したら終わるのは自明の理、つまりそれだけ達樹に惹かれているということだ。こんな気持ちになると分かっていたらメグママに話したりしなかったのに。この先いじられたり揶揄われたりする度にどんどん心のタガが外れていきかねない。

「おやおや」

 神宮寺が口を挟んだ。店長より少し若いぐらいのこの人は、豊かな髭を顎に蓄えたにこやかなおじさんである。

「着実に口説いてるんだろう? おじさんの目は誤魔化せないよ」

 大人気ゲーム制作会社の副社長はなんでもお見通し感がすごいのだがだいたい合っているから困る。何かを口に出したら終わるだなんてもっともらしいことを考えてはみたが、実はとっくにアプローチしているじゃないか。なんだかんだと理由を付けて彼のプライベートにガンガン乗り込んでいるのだから。

 そうして達樹が男性を好きにならないことを確かめたはずなのに、不覚にも後には引けないところへ、超えてはならない一線へ自らの足で確実に近付いている。これ以上迂闊な言動をとれば誰も幸せにならない未来にを迎えてしまう。

 もう男性に恋をしない人生を選び終えた今、変更は効かないことをよく肝に銘じなければ。


「やあ、どうなんだろうね!」 

 とても適当な言葉を返し、柊平は皿を抱えて厨房に逃げる。この常連たちと話すのはとても楽しくて心地よいが、今はあまり煽られたくないような気がしてひとまずこの場を終わらせることにした。

 しかし下げてきた皿を食洗機に突っ込んだところで、ふと手が止まる。ついさっきの自分を思い出してガクリと項垂れた。

「あー……待て待て、全然ダメじゃん」

 達樹にありがとうと泣きそうな顔で言われた時、自分は彼に何と言った?


 今度はひとりでおいでね。


 もしかしたらもう引き返せないところまで来ているのかもしれない。

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