第6話 暖かかった
達樹にとって居酒屋「ポチ」のカウンター席は奥のテーブル席に続く通路に過ぎなかった。長いテーブルがあり、酒の瓶が並び、白髪のおじさんが串を焼いている。その程度の記憶が精一杯だ。
ところが実際に座ってみれば奥のテーブル席とは見える景色も、温度も、照明の色も、音も匂いも違う特別な空間だった。店長と思われるおじさんの背後にはその人と犬が戯れる写真が何枚も飾られていて、もしかしたらあの犬の名前が「ポチ」なのかもしれないと言う想像を掻き立てる。カウンターのテーブルは大きな木の幹を縦に割ったままの、一枚板と言うのだったか、完全な四角形ではない重厚なものだ。料理だっていつも大皿で出されていたから、小さく四角い器にこじんまりと盛られたつまみを見るととても特別感があって美味しそうだ。
仕事で打ちのめされてさえいなければもっとこの空間を堪能できたのに……やはり出直したかったと後悔しても遅いのだけれど。
到底寄り道する気になれなくて帰ろうとしていた達樹が、それでも今居酒屋「ポチ」にいるのには理由がある。
「だから谷野君が落ち込むことなんて全然ないのよ」
隣には山之内が座っていた。何故彼女は達樹の予定を聞き出し、一緒に居酒屋「ポチ」に行くと言い出したのだろうか。理由もわからないまま断る暇すら与えられずこうしてふたりで訪れている。
達樹が一杯目のハイボールをまだ空けていないのに、彼女はもう四杯目の焼酎ロックを空けようというところだった。定期的に課の飲み会があるから山之内の酒の強さも、酒が入ると饒舌になることも知っていたが、それにしても今宵はピッチが速い。
「陣内君を通すと赤城君も一緒に怒られるけど、谷野君に渡せば谷野君がひとりで課長に怒られてくれるって知ってたのよ。本当に小賢しいんだからあの新人」
山之内は滔々と赤城のずるさ、陣内の物足りなさ、課長の気性を語った。滑らかに話すその傍らでいつの間にかグラスが空く技術は単純にすごい。
達樹はハイボールをちびちびと飲み煮物やだし巻きを食べながら、黙って話を聞いていた。
内心ぐったりしていた。彼らのことを今更改めて語られても心の疲労が増すだけだから聞きたくない。ただ自分が上手く回せなかったせいで歯車が狂ってしまっただけだ。もう勘弁してほしい。
しかし今日残業してまで助けてくれたのは他でもない、彼女なのだ。おそらく慰めてくれているのだと思うと蔑ろにするわけにもいかなかった。これ以上彼女にも店にも迷惑をかけないために達樹に出来るのは話を聞き、飲み過ぎないよう気をつけることぐらいだろう。二文字多いと課長に言われたことは殊の外達樹にダメージを与えたようで、もう本当に言葉を発する気力がなくなっている。あとどの位この時間は続くのだろうか。
「谷野君の同期の人、高橋君だったっけ」
話は仕事の外にも及んでいく。高橋は現在アフリカの僻地へ長期出張中である。そう言えばあの男が何かと山之内を飲み会に誘うのには理由があるのだろうかと、急に気になった。毎度わざわざコンプライアンス管理部まで足を運んでは誘うのに一度も応じてもらえていない様を目の当たりにするにつけ、もし高橋が山之内を好きなのだとしたら切ない話だなと思ったところで彼女がバッサリ言い放つ。
「申し訳ないけどあれだけ断ってもどうして誘い続けるのか理解に苦しむのよね」
つまり迷惑と言うことだ。高橋が気の毒だと思う反面、何故それをここで言うのかと問いたくなった。高橋に伝わることを期待されているとしたら、なんとめんどくさい話だろうか。
彼女を無碍に出来ないとは思っているが、ところどころに吐き出される不用意な毒が更なる疲労とストレスになって達樹の心を埋め尽くしていく。そんなことが聞きたくて「ポチ」に来たんじゃない。げんなりして、すぐに思い直す。ムカつくとか嫌だとか安易に考えないようにしなければ。それでも黒い感情はじわじわと達樹を侵食し、抑えようとすればするほど心が煮詰まっていく。
目の前の現実から逃げるような心持ちで、チラリと奥の方を一瞥する。カウンター席には達樹たち以外に二人の客が座っているが奥には誰もいない。月曜日は空いていると言った柊平の言葉は嘘ではなかったようだ。
それなのに肝心の柊平がさっきから全然姿を見せてくれない。正確には店に入った瞬間に歓迎を受けたのだが、それきり彼は奥の厨房にこもったままだ。
達樹の脳裏にはさっき初めて見た、柊平の『全然楽しそうじゃない』笑顔が焼き付いている。いらっしゃい! と言った後に見せたのは、こちらも楽しくなってしまうあの笑顔ではなかった。どうしたのだろうと思ったのが最後、それきり酒も料理も店長からカウンター越しに渡され彼がこちらに来ることはない。これは『避けられている』のではないかと思い始めると、そうとしか考えられなくなった。何かしでかしてしまっただろうか。それとも山之内が一緒にいるから、恋人と一緒なら邪魔しないという心遣いでもされているのだろうか。だとしたら誤解甚だしいのだが誤解だと告げる術もない。
「聞いてる?」
山之内の声に意識を引き戻された。思えば課という単位で酒の席を共にしたことはあるが、ふたりきりで飲むのは初めてだ。饒舌が百パーセント自分に向けられるのがここまでしんどいとは思わなかった。ひとつひとつ、目の前の会話を受け流すしかないのだろう。
「彼女はいるの?」
「……」
いつそんな話になっていたのだろう。もちろん彼女なんかいない。
いませんと一言答えようとして達樹は、声が出ないことに気が付いた。ぱくぱくと口を動かしても喉をただ息が抜けていくだけで声にならない。何が起きたのかよく分からなくて喉元を押さえてみたけれど状況は変わらない。もう一度「いません」に挑戦するもやはり声は出なかった。
「あー、動揺してる。本当はいるんでしょ?」
その動揺じゃない。ぐいと近付かれて上目遣いをされても、ちょっと離れてほしいと言うための声が出ない。こんなことは初めてでどうしたらいいのかわからず冷や汗が出てくる。いくら力を入れても声にならず、普段どうやって声を出しているのか最早思い出せない。ひとまず体は普通に動くので思い切り首を振ってみた。
「いないんだぁ。へえ、じゃあ募集はしてる?」
立派なカウンターテーブルに身を乗り出し、肩が触れるほどに近づいて来るその姿は漫画やドラマで見たことがあるシーンを彷彿とさせた。テーブルに女性の胸が乗っかって谷間がクローズアップされ、男がゴクリと生唾を呑み込むシーンだ。そう言えばこういうシーンでは女性の目が潤んでいたりする。
彼女が自分に迫って来るとは思えないが知識を集めるととても様子が似ていて、リアルでこんなシーンに出会ったのは初めてだなと少し驚いた。が、残念ながら達樹の心には響かない。彼女はあくまでも、会社生活におけるお母さんみたいな存在でしかないのだから。好みかと聞かれたら申し訳ないが答えはノーだ。
今はそれどころではなかった。風邪を引いているわけでもないのに声が急に出なくなったのは何故なのだろうか。そしてさっきから何も言わない自分に、この人は違和感を覚えないのだろうか。いつも達樹自身ですら気付かないような表情の変化まで読み取るくせに。
「募集してないの?」
首を振る。こんな自分にも高校生の頃に彼女がいたことがあったけれど、とても短い付き合いの末に酷く傷付けてしまった記憶はそう簡単に風化されるものでもなく、何かの折にこうして頭をもたげてくる。私の言いたいこと当てて? 前髪切ったんだけど? 今日で私たち付き合って何日か分かる? 言葉を浴びるたびに気持ちの足りないまま応じてしまった自分を責めても遅かった。だんだん追い詰められ、つい発した言葉が引き金となりとても醜い別れ方をしてしまったのが高校二年の春。多少あった女の子への興味はそこで潰えた。
「ねえ、そしたらさ、募集しない?」
たびたび意識を逸らしてしまう達樹を、山之内は何度でも引き戻す。さらに距離を詰め、達樹が若干のけぞるほど迫ってきた。さすがに近過ぎる。見上げてくる大きな丸い目をただ見下ろしながら、募集なんかしないと言い返す声が出せずにただ眉間に力を入れる。漫画のような展開なんてひとつも望んでいない。ああもう、今日はどうして何もかもが予定と違うのだろう! 四面楚歌、八方塞がり、誰にも何も聞いてもらえない。何より急に声が出なくなったことが恐ろしくて仕方なかった。行き場のない感情を爆発させないために、人を傷つけないために声を取り上げられたのだろうか。必死に喋ろうと力を入れても息が抜けていくばかりで、山之内の言葉を遮ることすらできない。このまま二度と話せなくなったらどうしよう。
頭がおかしくなりそうだと思ったその時。
「お待たせしましたー! 串盛りでーす!」
ものすごく元気な声が後ろから響き、動画に広告が挟まれた時のように空気が切り替わった。離れた二人の間を突っ切ってどんと四角い皿がテーブルに置かれる。振り返るとそこには柊平が立っていて、こちらが驚いていることなどお構いなしでハキハキと串の説明を始めた。
「左からもも、せせり、ねぎま、ぼんじり、うずら、ししとうです!」
そしてまた、全然楽しそうじゃない笑顔を見せた。その表情がまるで帰れと言っているようで胸の奥が痛くなる。
ただ、あまりに近づき過ぎていた山之内との距離がリセットされたのはありがたかった。姿勢を直した彼女はお手洗いに行ってくると言い残して席を立つ。カツカツと響くヒールの音が遠ざかるのを聞きながら、漫画みたいな場面がどうやら終わったようだと少しホッとした。
しかし一方で背後の柊平から圧を感じていよいよパニックに陥りそうになる。聞かれてもいないのにあの人は恋人ではありませんと言う必要があるのだろうか。でもこのまま黙っていたらまた彼は厨房に戻ってしまう。違う、それ以前に何か言おうにも声が出ないのだ。まったく今日はすべてがおかしい。この人と話せるかもしれないと楽しみにしていたのに、これでは話せない。声を返して欲しい! ああでも二文字多いんだった! 喋るなということなのか?
感情が振り切れそうな達樹の前で、テーブルに柊平の手がタンと置かれた。手指が少し節くれだっているのは水仕事のやり過ぎなんだと一昨日言っていた、その手をただ見つめていると頭上から囁くような声が落ちてくる。
「タツキくんってさ、すっごい良い声してるよね」
急な話題に驚いて振り返り見上げると、思ったより近くにその端正な顔がある。柊平が言葉を継いだ。
「自覚ないと思うけどイケボだよ。僕ならひと文字でも多く聞きたいって思っちゃうな」
聞かれていた。姿を見せなかったのに、今日達樹に何が起こったかをこの人は厨房で聞いていたのだ。二文字ぐらい多いという課長の暴言に衝撃を受けたと知って、わざわざ励ましに来てくれたということで合っているだろうか。嬉しいのに、ありがとうと言うために口を開けても声が出ない。一体自分に何が起こっているのだろうか。
「……」
縋るような目で見上げてしまったのかもしれない。柊平が達樹の目を覗き込み、怪訝な顔で名を呼ぶ。
「タツキくん?」
答えたくて口を開けても声が出て来ない。柊平は何かを察してくれたのか、山之内が座っていた席に腰を下ろし達樹の肩を抱いて顔を寄せた。
「どうしたの? はい、息吸って。吐いて。うん、何文字だって喋っていいと思うよ」
内緒話みたいに囁く声は何だかとても安心できる響きを持って達樹の心に届く。
「今日はイヤなこといっぱいあったんだね。なのに「ポチ」まで来てくれてありがとう。吸って、吐いて」
頷いて、言われる通りに呼吸を繰り返す。
「串焼き美味しいから食べてね」
肩にある手が暖かい。あんなに近づいた山之内にはなかった温度が、吐息が心を落ち着けてくれる。そして至近距離で優しい言葉を掛け続けながら、彼がついにニコリと笑った。
「おつかれさま」
今日どうしても見たかった笑顔だ。猫のような大きな目が細められた途端、何か大きな空気の塊みたいなものが達樹の中で込み上げ喉を震わせた。
「あ……! あ、こ、声が」
声が出た! 良かった! あまりの安堵に泣きそうになったけれど、この後山之内が戻ってくることを思うとあまり隙を見せたくはなかった。なんとか堪え、やっと出るようになった声をまずは目の前の彼に届ける。
「あの、ありがとう、ございます。声が急に、出なくなって、こわ……いえ、」」
言おうと思うことが言える安堵でつい、弱音まで吐いてしまいそうになる。聞こえたかどうか定かではないか彼はへへと困ったように笑った。
「声かぁ。僕過呼吸かと思っちゃった。対処合ってたのかな」
「でも、声が出ました」
「そうだよね。うん、良かった……もう平気そう?」
頷けば彼は満面の笑みを見せてくれた。席を立ち、最後に達樹の背中を軽く叩く。
「おつかれさま。今度はひとりでおいでね」
そっと言い残し席を離れていった。
達樹は一気にグラスを空けて大きく息を吐く。おかわりを頼むべく振り向いたが既に柊平の姿は厨房に消えていたので、ならばとカウンターの向こうにいる店長にそのグラスを掲げる。
「ハイボール下さい」
ああ、良かった、声がちゃんと出せている。喋れるって素晴らしい。はいよと答える店長の声を聞きながら、今度は肉を串から外し始めた。うまく言葉にできない感情がぶわっと浮かんできて、何かしていないと今度こそ泣いてしまいそうだった。
肩にはまだ彼の温度が残っている。
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