第5話 予定が狂った

 色々あった土日も終わり新しい一週間が始まった月曜日。昼休みが終わって間もないオフィスは午前中より明らかに人口密度が下がって静かだった。これが珍しい空気感ではないと言うことは、この会社には午後イチに予定を入れたい人が多いのかもしれない。

 オフィスはフリーアドレスのためどこに座って仕事をしても良いのだが、毎日出社している達樹は余程のことがない限り決まった席を陣取っている。窓際の目立たない場所。上司から最も離れた席。後ろを誰も通らず画面を覗かれない向き。午後の仕事を始めるべくいつもの席に着いて、誰がどこへ行ったかをスケジューラーで調べようとしてやめた。案外手間のかかるその行為が面倒になったからだ。

 

 いざ午後の仕事を始めようとした達樹の視界に、こちらへ向かってくる人影が入り込んできた。

 達樹の所属するコンプライアンス管理部第一課には課長を含めて八人のメンバーがいる。やって来たのはその中で唯一達樹より後に入社した後輩、新入社員の赤城だった。ノートパソコンを抱えて近づいてくると空席から椅子をコロコロと達樹の隣まで引き寄せ、腰を下ろす。画面を開きながらぐいと顔を寄せて来た。柑橘系の香りが鼻先を掠める。

「谷野さん、この申請書の内容確認してもらえませんか?」

 周囲に聞かれたくないのが丸わかりのヒソヒソ声だったにも関わらず、赤城の申し出は残念ながら向かいの席で仕事をしている山之内の耳に届いてしまった。すかさず反論が飛んでくる。

「赤城君、陣内さんがメンターなんだから陣内さんに確認してもらうべきじゃない?」


 山之内はこの課の事務職である。正確な年齢は知らないが達樹が入社した時には既にいて、かといってうんと年上と言う感じでもない。彼女は社内の細かな事情をよく知っていて、入社したばかりの頃から色々戸惑う達樹を影で相当助けてくれたある意味お母さんみたいな存在とも言える。もちろんそんなこと口に出したら大問題になるから言わないけれど。

 高橋がやたらと飲み会に誘うが未だかつて乗ってきたことがない、なかなかお堅い人でもある。


 さて山之内の言うことはもっともで、新入社員赤城には陣内という課員がメンターとして任命されているから原則あらゆるワークフローが陣内を通ることになっている。陣内は達樹より一年先輩で、真面目で優しくいつもニコニコしている印象の良い男である。赤城には常に穏やかに丁寧に仕事を教えているので周囲も安心して任せているし、実際仕事は緩やかながら問題なく回っている。

 しかし赤城は山之内の指摘を聞いてもなおコソコソと達樹に言い募った。

「そうなんですけど、谷野さんに見てもらった方が課長に後から怒られないっていうか」

 度胸のある新人だなと達樹はのんきなことを思った。つまりメンターである陣内に確認してもらった何かで課長に怒られたから、先輩の能力を疑い他の人を頼ろうと言うのか。本当は赤城自身がきちんとしていれば誰を通っても同じ結果になると思うのだけれど、まあまだ配属数か月の新入社員だから仕方ない。再び周囲をぐるりと見渡しても陣内の姿はなく、課長の姿もないことを考えると会議に出ているのだろうと思われる。なるほど、いない隙に聞きに来たということか。

「……とりあえず見せて」

「お願いします」

 断るのも面倒なので渋々引き受ける。申請書に急ぎを表す言葉がないのを見て取った達樹は、後で陣内に目を通してもらう時間的余裕があるのなら問題ないと思い、内心ホッとしながら確認を開始した。

 営業第五部から来た新規案件概要書と取引申請。新しいプロジェクトが始まる前にはそれはそれは念入りな審査があらゆる面から行われる。印刷すれば十数枚にもなろうかという申請書と添付書類を慎重に見比べて、大体の部分は間違いないと確かめることはできたのだが。

「ここに『仲介代理店起用予定』って書いてあるけど」

 画面を指差しながら、達樹は自分の気が付いたことを赤城に淡々と伝えた。

「ええと、代理店の詳細ってこれで合ってるのかな。説明資料が添付されていない」

「合ってます」

「……ああ、そう」

 キッパリと言い切る赤城に達樹は気圧された。

 達樹自身、新入社員の頃は何がなんだか分からないまま仕事をしていたと記憶している。三年目ともなれば引っかかる単語、チェックが必要な事柄が判別できるようになってくるけれど、あの頃は本当に周囲の言うことをただただ言われたとおりにやっているだけだった。だから新人の知らないことがあれば責めることなくきちんと教えてあげたいと考えている。

 しかし赤城は達樹と違って仕事に自信があるような口調が多いし、その上教えてくれる人々を評価する有様だ。あまり深入りしたくないのが正直なところなのであとは陣内に委ねることにして引き下がる。ひとまずそれ以外に達樹が違和感を覚える記載が見つからなかったので、メンターの確認を必ず取るよう念押ししてこの話は終了した。


 そそくさと席に戻る赤城を一瞥し達樹が自分の仕事に戻ろうとしたところで、向かいの席から声が掛かる。

「谷野君、何かあったの?」

 さっきの赤城に負けないぐらいの密やかな声で山之内が尋ねる。達樹は目を瞬かせた。

「何か、とは」

「ちょっとゴキゲンな顔してる」

 自分の表情については、評判が良くないことしか知らない。果たして今どんな顔をしているのか、ゴキゲンなんて言われてもさっぱりわからなかった。

 ただ、心当たりはある。土日の多くをダラダラと過ごす達樹にとっては怒涛とも言える週末を経て、心が凪いでいた。例えば楽しそうなあの笑顔、例えば綺麗に片付いた部屋、立ち食い寿司屋でカワハギの肝乗せを二人で分け合って食べたら美味しくて結局もう一度注文したこと、部屋掃除のお礼に寿司代を払おうとした達樹を止めてその分居酒屋「ポチ」にお金を落としてくれないかと柊平が言ったこと、だから今日は残業せずに退社しひとりで店に行くつもりであること。月曜日は店がすいてるからゆっくりお喋りできるかもよと言った柊平のいたずらっぽい目につられて早速今日訪れる単純な思考。金曜の終業時に感じていた、体がバキバキと音を立てそうな疲労とストレスがすっかり消えているのは事実だ。まさか顔に出ているとは思わなかった。

 とは言え事情をあえて話す必要もないので達樹は返事を濁す。

「いえ、別に何もないですけど」

 画面に視線を落としつつそう答えると、向かいで山之内がクスリと笑う。

「そっか」

 何もかも見透かされているかのような『そっか』に居心地が悪くなった達樹は、わざと背を丸めて画面に顔を突っ込むように仕事へと戻っていった。



◇◇



 十七時半にどこからともなくチャイムのような音が聞こえ、終業が社内に伝えられる。達樹は我ながら褒めてやりたい気分になるほどきっちり仕事を終えることが出来た。普段の月曜日はなんとなく残業してしまっていることが多いのだが、今日は違う。この後の予定を見据えて明日に回せる仕事に手を付けなかったし、今日中に終えるべき仕事は優先して終えたし、なんなら何度も見直して差し戻されないよう慎重に仕上げた。自分で思っていた以上に居酒屋「ポチ」を訪れることが楽しみだと気づいて頬が緩みかけ、向かいにいる山之内の視線を感じて俯く。達樹の配属以来だいたい向かい側に座っている彼女に何か思ったことはなかったのだが、今初めて、明日は離れた席に座ろうと思った。

 そそくさとメーラーを閉じてパソコンの画面にシャットダウンの文字を呼び起こした、その瞬間のことだった。

「谷野!」

 課長の鋭い声が耳を刺す。この課にいれば誰もが知っている、怒った課長の発する声色だ。今日の仕事は完璧だったと自負していたおかげで、達樹は驚き過ぎて体が揺れてしまった。何故今自分が呼ばれたのだろうか。

「は、はい」

 分からないけれど、呼ばれたなら行かなくてはならない。シャットダウン寸前だったパソコンを放置し立ち上がる。鬼の形相で手招きする課長の前へ行くと、今度はその手でこちらへ来いというジェスチャーをされる。回り込んで課長と並び、課長の画面を覗き込んだ。あまり目がよくないのでだいぶ腰をかがめなくてはならない。

「代理店の説明がないのはマズいよな? コンプライアンス上何の根拠もないまま承認できないのは知ってんだろ?」

「え、あ、はい」

「赤城は君が確認してくれたと言ってたんだが? あんまりいい加減なことしてもらっちゃ困るんだよねえ」

 覚えのないデータだと思ったが、赤城と聞いてすぐに思い出した。これは昼休み直後に新人赤城が持ってきた、例の取引申請書だ……もしかしてメンターである陣内に確認を依頼せず、直接課長に提出したのだろうか。後でメンターが確認してくれるだろうと思い懸念点をスルーしたが、まさかそのまま回付されてしまったのだろうか。

「ええと、はい」

 面食らった達樹の曖昧な返事が、課長の怒りに油を注ぐ。タンタンと課長が指差すたびに画面が震えるその様子が、まるで怒られ縮こまる自分のようだ。課長の剣幕は人を簡単に萎縮させる。

「分かってんのか?」

「あの、はい」

「君の返事はいつも二文字ぐらい多いんだよ!」

「え、なっ、」

「ほら、それだよ」

 言われたことを理解するのにほんの少し時間がかかった。自分の口癖など意識したことがなかったけれど、言われてみれば確かに二文字ぐらい多いと気づいて別方面の衝撃を受けた。数秒間頭が真っ白になったが、今はそれよりも目の前の現実を解決しなければならないのだと一生懸命意識を取り戻す。

 たとえメンターが後から見てくれると思っていても、さっきあの場面でもっと話を詰めておかなければならなかったということだ。今ここで「陣内さんが後で見てくれると思ってました」と言えば大爆発が起こる。これ以上責められたら完全に心が折れそうだと思い、今すべきことを達樹は全力で考えた。そして口癖に細心の注意を払いながらゆっくりと喋る。こめかみが痛い。

「……説明資料をすぐに第五営業部から取り寄せます」

 達樹の対応策を聞いた課長はそれ以上何も言わず、画面の右上にあるバツをクリックした。そして立ち上がり、うん、とかなんとか言ったきり達樹に背を向けオフィスを出て行った。喫煙所に向かったものと思われる。


 漸く解放された達樹は細く息を吐きながらひとまず辺りを見回す。赤城も陣内もいなかった。思えば午後ずっと陣内を見かけていない。スケジューラーを見ておけば陣内が戻らない可能性、ひいては赤城が勝手に回付してしまう可能性を考えられたのに。後悔してもすべては後の祭りだ。


 居酒屋「ポチ」に向かう意気込みはすっかり影を潜め、確定した残業を前に達樹はとぼとぼと自席に戻る。そこにはすべてを聞いていたであろう山之内が閉じたノートパソコンとともにこちらをじっと見ていた。達樹と目が合うと再びパソコンを開き電源を入れながら口元だけでそっと微笑んだ。

「代理店なら説明資料がないわけないよね。探してみようよ。どの案件?」

「……」

 さっき二文字ぐらい多いなんて言われたせいか言葉が出てこない達樹は、ただ頷くと自身もパソコンを再起動した。第五営業部に聞くより共有フォルダ内を探すことは、終業後の常識として誰もがとる行動である。帰ってしまっているかもしれない担当者を探すより断然速い。

 とは言え結局くだんの資料が見つかるまでに小一時間を要した。山之内のおかげで資料のありかに初めから当たりを付けられたので、これでもだいぶ時間を節約できているはずだ。それを添付し、コメントを付けて再回付する。赤城と陣内、それから第五営業部にもコピーを落とし、これで一応今日の仕事は終わった。

 達樹は山之内に頭を下げた。

「色々すみません。ありがとうございました」

「なんかどれもこれも、谷野君ひとつも悪くなくない?」

 しょげて憔悴している達樹と対照的に、山之内はぷりぷりと怒っていた。前髪の下で丸い目が心なしかつり上がっているように見えて、それはそれで結構恐い。

「赤城君が陣内君を通さなかったのも、陣内君が赤城君を放置するのも。あとさっきの課長!」

 気付けば周囲には誰もいなくて、二人きりになったオフィスで山之内が凛とした声を響かせ話し続ける。

「録音してなくてごめんね。あれってパワハラじゃない?」

「いえ、まあ、……じゃなくて、事実なんで」

 達樹は自分が喋るたびに二文字ぐらい多いことをとうとう自覚し、もう喋ること自体放棄したい気持ちに駆られた。とは言え山之内が厚意で残業を手伝ってくれた上に達樹をかばってくれているのだから無碍にも出来ない。なんだか、ひどく疲れてきた。


 パソコンを閉じ、席を立つ。山之内が何か言っていたような気がしたが、疲れ過ぎた達樹の脳には何も響かなくなっていた。ほんの一瞬居酒屋「ポチ」のことを思い出したが、すぐにそれは封印され心の奥深くへ沈んでいく。こんな状態で訪れたらまた倒れるかもしれないのだから。せっかく少し仲良くなった柊平にまた迷惑を掛けてしまうことは避けたかった。


 避けたかったのに。


「谷野君!」

 山之内の声が達樹の動きを止める。

「何か予定があったんじゃない?」

 この人はどこまでお見通しなのだろうか。

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