第5話 グリューネローゼ

 午後に降り始めた冷たい雨は、日暮れと共に白い花びらへと変わった。

 月明りの中、黒騎士は雪をりながら町の中を進んで行く。外には誰も出ていない。日付の変わる頃だからなのか。あるいは本能的な危険を感じているのか。

 闇は人を恐れさせる。なにが潜んでいるか分からないからだ。ただそれだけで意味もなく怖がる。ときにそれは誤解を生むが、悪い方に働くとは限らない。

 酒場のスウィングドアを押した。

 緑色の服が見えた。乱雑に床に落ちている。白いエプロンの上には、淡い色の下着が乗っていた。視線を上げると、グリューネローゼがテーブルの上に横たわっていた。

 昨夜ゆうべ店で暴れていた若者たちが取り囲んで、下品な笑い声をあげている。しかし黒騎士の姿を認めると、凍りついたように動かなくなった。涙ぐんでいたグリューネローゼの目に希望の光が浮かんだ。

「騒がしいな」

 黒騎士の声は、いつもどおり静かだ。

「見逃してくれよ」

 ブラウが拝むように言った。

「なにをだ」

「あんたには分からないかもしれないが、俺たちみたいな、なんの取り柄もないゴロツキは、若い女にはまともに相手をしてもらえないんだ。だから……」

「だから力ずくで欲望を満たしてもいい、ということにはならない」

「それはそうなんだが」ロッソは眉を寄せて首を振った。「野暮やぼなことを言わないでくれないか。もう我慢できないんだ」

「黒騎士さん、助けて」

 グリューネローゼの悲痛な声が店内に響いた。黒騎士は目を合わせない。

「俺には君を助ける理由がない」

 へ、へへへ、と若者たちは笑い始めた。

「物分かりが良くて助かるぜ、旦那だんな。でも、本当にいいのか」

 ロッソが上目づかいに尋ねた。

「好きにしろ」

 グリューネローゼの顔が歪む。黒騎士は階段の方へと歩き始めた。その足が止まった。

「おまえたちこそ、本当にいいのか」

「どういう、ことですか」

 ブラウが眉を寄せてたずねたが、黒騎士は答えずに階段を上った。

「おやすみ、旦那」

 ロッソが声をかけ、ジャッロは猿のように笑った。

 黒騎士は四階にある小さな部屋に入った。簡易な宿になっている。

 ベッドに腰かけて、七つ折りスマートフォンで音楽の再生を始める。子供の頃に流行はやっていたジャズを聴きながら夜をやりすごすのが、いつもの習慣だった。

 メロウにむせび泣くテナーサックスに対抗するかのように、階下から女の声が聞こえてくる。

 そういえば、今朝のパンは旨かったな。

 黒騎士はベッドで横になり、目を閉じた。微睡まどろみ始める。だが、眠りは訪れない。

 そしてまた、朝がくる。


 酒場に下りると、窓から差す朝日を浴びて若者たちがテーブルに伏せて眠っていた。服を着ていない。

 ブラウが寝言をらした。

 ……もう、勘弁かんべんしてくれ。

「おはようございます」

 ほがらかな声が響いた。グリューネローゼは頬を紅潮こうちょうさせている。昨日より肌艶が良いように見えた。

かえち、か」

「ええ。まったく、情けない人たちです」

「朝食をくれ。それとパンだ」

「納豆と梅干しはどうしますか」

「もらおう」

 朝食が運ばれてきた。それとは別に、バスケットに山盛りのパンが乗せられている。

「こんなに頼んでないぞ」

「いるだけ食べて下さい」

「なんのつもりだ」

「お礼ですよ」

「俺はなにもしていない」

「そう、あなたはなにもしなかった」

 グリューネローゼは目を伏せて頬を染めた。

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