第10話② 泣いて叫んで嘆いても
「何回言ったら分かるんだよお前は!」
街が影に埋まって寝静まった深夜、男の怒号が響き渡る。
次いで、女児の悲鳴に近い鳴き声が鋭く夜闇を切り裂いた。
それは小学校の中学年になった頃だろうか、宿題の問題を間違えたと言うだけで、側頭部への平手打ちを受け、壁に投げ飛ばされ、食事を与えてもらえなかった。
もっとも、今に始まった事ではないが。
言葉を話せるようになった頃から、些細なことで殴る蹴るの暴行を加えられ、日常では無視が当たり前、安息など一時もなかった。
事件は突然に、そんな日常の延長線上で起こった。
家族3人が無言で食卓に並んで、部屋には箸やスプーンが食器を叩く音だけが響いていた。
娘は、食事を口に運ぶたびに気まずさと恐怖を噛み締めていた。
「食うの遅ぇよ。」
父親が、木の板に釘を打ち付けるように、攻撃的な口調で言う。
それで、焦った。
急いで完食しなければならない、と脳を支配された少女は、必要以上に忙しなく食器を移動させていたため、ガラスのコップを床に落としてしまった。
ガラスが叩き割れる音の数瞬後、父親が激怒した。
「テメェ何やってんだよ!」
少女を椅子から引き摺り下ろして浴室に連れて行くと、頭から熱湯を浴びせた。
ごめんなさい、と泣き叫ぶ娘の声など意に返さず、数分間に渡り、滝のように浴びせ続けた。
その後、母親がガラス片を素手で掃除させ、少女の手は削がれて血に塗れた。
両親の態度は数日経っても軟化せず、学校にも行かせることなく、1週間もの間、十分な食事を与えなかった。
それ以前から少量の食事しか与えられていなかった少女には、もう限界だった。
最期には、涙も出なかった。
恐怖と不安しか感じていなかった少女の人生の最期に抱いた新しい感情は、恨みだった–
『それで、気付いたら家の前にいた。』
白濁した瞳の少女は、淡々と説明を終えた。
「それで、俺に親を殺して欲しいと。」
『そう』
「少し時間をくれ。」
『なんで?』
「調べる時間が欲しいんだよ。」
『…殺してくれるなら、何でもいい。』
少女はしばらくの沈黙の後、平坦な口調で言った。
【じゃあ、そう言うことだから、今日のところは帰ってくれよな】
猫童は冷たく言い放つと少女の背中を押して、玄関から押し出した。
玄関から仕事机まで素早く飛んでくると、猫童が司に問いかける。
【なぁ、これ請けるのか?
金にもならねえ、地縛霊の依頼だぞ?】
「あの子が言っていたことが本当なら、許しちゃおけない。
金を受け取らなかったのは、前にもあったし、俺のルールに『依頼人が人間であること』は入ってないからな。」
猫童の否定的な態度とは裏腹に、司は乗り気であった。
【
「そんなに彼女達を見下しているなら、何で連れて来た?」
司の問いに、猫童は一瞬返す言葉が思いつかなかった。
【それは…お前のせいだ。】
「なに?」
【お前のせいなんだよ!
俺の価値観が変わっちまったんだよ!】
猫童が珍しく声を荒げた。
「何で怒ってんだよ。」
司は呆れ半分、不思議半分だった。
【分からん。
モヤモヤする。】
猫童もまた、思考を整理しきれずにいた。
数十年前までは、殺せと言われれば殺し、生かすという選択肢などなかった。
はっきり言って、楽な仕事だ。
何も考えず、作業のように、言われた通りに仕事をこなすだけ。
でも司は違う。
殺しという仕事を毛嫌いしつつも、仕事人としての確固たる流儀を確立している。
あの地縛霊の時も、司ならどうするか、と考えたことを思い出した。
最初は、「変な奴」だった司が、自身の価値基準になりつつある。
何やら葛藤している猫童を見かねて、司が徐に立ち上がった。
「お前が、色々悩んでいるのは分かったよ。」
猫童に近付くと、頭をポンポンと叩いて、「でも、いつも我が儘に付き合ってもらって感謝してるよ。」
と照れ隠しで笑って見せた。
被っているキャップがより深く沈み込んで、猫童の表情はよく見えないが、やや口角が上がっているようにも見えた。
猫童は、自分の使命を思い出した。
主人に従い、仕事をこなす。
今までも、これからも。
今の主人を信じるだけだ。
司は、信じられる。
だからこそ、「我が儘」にも付き合って来たのではないか。
猫童は大きく息を吐き出した。
【仕事だな。】
それまで着ていた服を脱ぐと、いつものほつれた和服に着替えた。
〜〜
まずは猫童の案内の元、少女が執着し続ける自宅に向かった。
「本当にここか?」
【間違い無いよ。】
その家は、雨戸が締め切られて緑のツタが壁をよじ登り、庭には司の身長ほどあろうかという植物達が、のびのびと生い茂っていた。
「空き家だな。」
念の為、猫童が家の中を見て回ったが、もちろん人の気配は無かった。
『やってくれるの?』
突如、背後からあの平坦な声がした。
【今調査中なんだよ。
ちょっと待ってろって。】
相変わらず無表情のままでこちらを見つめてくる少女に、司は問いかける。
「ここが君の家なの?」
『そう』
「お母さん達はどこに行ったのかな?」
『分からない』
司は頭をぼりぼり掻くと、一旦アパートへ戻った。
それから司は、少女の年齢や発言を元に、ネットで情報収集を開始した。
小学生が虐待されて亡くなったという痛ましい事件なだけあって、それらしい記事をいくつか発見することができた。
その中で、少女の供述と合致するものが一つだけあった。
記事によれば、その夫婦はいわゆる「できちゃった婚」であり、若いうちに結婚したことから経済的に不安定で、我が子を愛することができなかったと言う。
倒れている少女を発見した母親からの通報で事件が発覚し、両親共に逮捕されて、現在も服役中であることが判明した。
少女の亡骸からは、大きな火傷の跡があり、胃の中は空っぽだった。
父親は13年、母親は9年。
人を、ひいては幼い我が子を殺しておいて、10年ぽっちの懲役とは、短すぎではなかろうか。
検察は殺意があったと主張したが、極少量ながらも食事や水を与えていたことなどから、このような判決になったと言う。
司は、パソコンの前で腕を組む。
「『君の親は罪を償って刑務所にいる』って言っても、あの子は納得しないだろうな。」
【だろうな。
そんな社会のシステムさえ、理解してるか怪しいからな。】
「行くか。」
司達は少女の待つ一軒家へと向かった。
〜〜
司の説明を聞き終えた少女の表情は、相変わらず虚無であった。
「つまり、君のお母さん達はとても厳しい場所で、君を殺した罪と向き合っているんだ。
それでも、殺して欲しいかい?」
『10年経ったら、人を殺したことが、なくなるの?』
少女の素朴な疑問だった。
司は言葉を選ぶ。
「日本のルールでは、そうだ。
ただ、本名も世間に知られているから、仕事に就いたり、人付き合いはかなり難しくなるだろうね。」
『でも、私のことは許されるんでしょ?』
一瞬息を呑んだが、司は答える。
「いや、許されないよ。
自分の子供を殺した人間のことなんて、誰も許さないよ。一生ね。
俺も許さない。」
『私も許さない。
どんな風にしろ、あの人たちがこの世界で生きていることを、許せない。
私がどれだけ泣いて叫んでも、あの人たちは聞いてくれなかった。
あの人たちにも泣いて叫んで死んで欲しい。』
沈黙が2人を包んだ。
少女の濁った瞳は、司を捉えて離さない。
「…分かった。」
司が呟く。
『何が?』
「殺してやるよ。
君の親を。」
『…ありがとう。』
感情が一切込められていない声で、少女が感謝を伝える。
【お前の未練は両親の生だ。
2人が死ねば、勝手に成仏するよ。】
猫童がひょっこり顔を出して説明した。
「らいしから、もう少しの間、ここで待っていてくれ。」
『分かった』
佇む少女を残して、司達はアパートへ戻った。
椅子が軋むほど勢いよく腰掛けると、司はタバコに手を伸ばす。
『10年経ったら、人を殺したことが、なくなるの?』
少女の言葉が反響し続けていた。
無くなっていいはずがない。
【お前が除霊してやればよかったんじゃないか?】
司の思考を遮って猫童が話しかけて来た。
「あれ、やられる方は結構苦しいらしいじゃないか。
生まれてからずっと苦しんできた子には、出来ないよ。」
司の答えは、猫童の予想と一致していた。
【お前ならそう言うと思ったよ】
猫童から笑みが溢れる。
「何笑ってんだ。」
【いや、こっちのことだ。
気にすんな。
まったく、人間らしい人間だなお前は】
「当たり前だろ。
何言ってんだ。」
噛み合わない会話を終えると、2人は仕事の打ち合わせを始めた。
〜〜
翌日、猫童は父親が収監されている刑務所にいた。
今の時代、ネットを叩けば何でも出てくる。
猫童は宙を漂いながら、少女の霊気と同じ男を探し回った。
【いたぞ】
1人の男に目をつけた。
「結構かかったな。」
【うるせえ、人が多いんだよ】
既に夜になっていた。
「泣いて叫ばせてやれ。」
【あいよ】
猫童は寝ている男に近づくと、男の頭部に手を突っ込んだ。
その途端、男は飛び起き、叫び声を上げながら部屋中をのたうちまわった。
「いでぇぇ!ああああぁ!!」
同室の囚人達に抑えられるも、全て跳ね除けて、暴れ回る。
叫び声を聞いた看守たちが部屋の前に駆けつける。
「助けてくれぇぇ!!」
男は、鉄格子に頭を激しく打ち付けて叫んだ。
看守たちが部屋に入り、男を取り押さえようとした途端、男は突然大人しくなり、重力に身を任せて倒れ込んだ。
【男の方は終わり。】
「断末魔だったな。
悪いが、そのまま母親も頼む。」
【あいよ】
〜〜
今度は母親が収監されている女性刑務所に赴いた。
先ほどに比べれば人数が少なく、母親を見つけるのは難しく無かった。
こちらも消灯時間を過ぎ、囚人たちは寝息を立てている。
猫童は、仰向けに寝ている母親の腹に触れた。
またもや、断末魔が響き渡る。
「ああぁ!!産まれる!」
母親は、身に覚えがあるその苦痛に、反射的にそう叫んだ。
猫童は、出産の痛みを追体験させたのだ。
「痛い!ごめんなさい!ごめんなさい!」
布団を引きちぎらんとする強さで握りしめて苦痛に身を歪める母親の声を聞きつけ、女性看守たちがすぐさま駆けつける。
こちらも同様、看守が部屋に立ち入ると大人しくなり、そのまま動くことはなかった。
【終わったぜ。
誰に謝ってたんだこいつ。】
「さあな。」
仕事を終えた猫童は、しばらくして、アパートへ戻って来た。
〜〜
【不運なやつだったな、あいつも】
「そうだな。」
司はタバコを吸いながら、少女を思う。
「産んで欲しいと頼んだわけでもなく、気付いたら親がいて、そいつらに面倒見てもらわないといけない。
子に親を選ぶ権利はないが、親には産む権利がある。
なんか、不平等だよな。」
湿っぽい空気に向かって、煙を吐き出す。
「何で、愛してやれなかったんだろう。」
ぽつりと呟いた司はタバコを灰皿で押しつぶすと、むくっと立ち上がり、玄関に向かった。
どこに向かうのか、猫童には予想がついた。
向かったのは、あの空き家だった。
どこを見渡しても少女の姿はない。
司は家の前に、コンビニで買ったお菓子や
ジュースを手向けた。
「悪いね、こんなもので。」
しばらく家を見つめていた司の横顔を、猫童が見つめる。
その視線に気付いた司が、猫童に問いかけた。
「そういえば、例のモヤモヤは解消されたのか?」
今度は猫童が家を見つめる。
【ちょっと、昔を思い出してただけだ。
昔は昔、今は今だ。
お前は俺の主人だからな。】
司にはよく分からなかったが、猫童の中では完結しているようだった。
「そうか、じゃあ、これからもよろしくな。」
歩き出しながら、猫童の頭をぽんぽんと叩いて車へ向かう。
【おい、それやめろ。】
「叩きやすい位置にあるんでね。
牛乳飲んで、身長伸ばしたらどうだ?」
【てめぇっ、言いやがったな。】
穏やかに寝静まる街を、軽自動車のやかましいエンジン音が通り過ぎていった。
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