第10話① 猫、お使いへ出る。
冷蔵庫の中が空しかったその日、自分が買い出しに行く、と食い下がる猫童に根負けした司は、人間と話さないことを条件として、外出を許した。
しかし、外出するとなると、気になるのはその古ぼけた和服と、頭の上の2つの耳である。
司の服を着ようとしても、小学生か中学生程度の身長しかない猫童には、サイズが合わない。
頭の耳は、帽子を被れば何とかなるだろうか。
【よし、まずは俺が外に出るための服を買ってきてくれ】
すっかりその気になって、形代に乗り移ってしまった猫童を止める術はない。
「そのついでに買い出しもして来たいんだが。」
分かってはいるが、あまりに不合理すぎるため、司は抵抗を試みる。
【ダメだ!服だけ買って来てくれ!
久しぶりに自分の足で歩かせてくれ!】
理解不能なほどの熱量に押し負けた司は、諦めて猫童のために服を買いに行くことにした。
司は、白いTシャツに黒いズボンといった、無難なのかセンスがないのか、とにかく最も安い服を買って部屋に戻った。
【いいな!これ!どこから見ても普通の人間だな!】
上半身が映る洗面所の鏡の前で、猫童は腕を伸ばしてみたり、反転してみたり、未だかつてない自分の姿に興奮を隠せない様子だった。
「あとはこれだな。」
司は、振り返った猫童の頭に、キャップを深く被せた。
その勢いで、猫童の顔が上下する。
【これは窮屈だ。】
先ほどとは一変して不満を漏らすが、我慢してもらわなければならない。
「よし、これでいい。
いいか?約束は守れよ?
『人と話すな』だ。
お前の声は、何て言うかな、見た目に合ってないから不自然だ。
目立つのだけは、勘弁してくれよ。」
【過保護かお前は。
俺に任せとけ】
念を押した司の言葉は、ひらりと躱されてしまった。
猫童は司からメモを受け取ると、意気揚々と玄関を抜けた。
〜〜
玄関を開けば、雲ひとつない青空が、くらっとするほどの光を放って出迎えてくれた。
猫童はアパートを出ると、司に言われた通りスーパーへ向かう。
はずが無い。
猫童の本当の目的は、久しく踏んでいない現世の地面を踏み締める事だ。
荷物が増えてしまっては、散歩にならない。
まずは多くの人が行き交う大通りに向かった。
この街は今日も平和だ。
猫童は、まず、そう思う。
次に、猫童が思う「人間」と言う生き物に対して構築された持論を展開する。
何の接点も無い老若男女が、他人を気にする様子もなく、ただ単に自分の為の人生を歩んでいる。
電話をしながら歩くスーツの男、杖をついて歩く腰の曲がった老婆、すれ違う車。
ここにいる人間達は、自分の人生には、自分と数少ない友人だけしか存在しないと勘違いしがちであるが、それは大いなる間違いである。
あのスーツも、あの曲がった腰も、あの車の運転手も、自分の人生を生きることに必死になりすぎて、自分こそがその物語の主人公である事を忘れてしまっている。
忘れる、と言うよりも、知らない、と言った方が近いかもしれない。
猫童はそんな人間達を見るのが好きだった。
そう長くは無い人生に、必死に食らいついて、今日も仕事だの、明日は2週間ぶりの休日だの、くだらない会話に時間を浪費する人間達が滑稽に思えた。
面倒だと言いながらも仕事に行き、帰って寝て、たまに付き合いの飲み会に赴く。
なぜ人間は、そんな苦痛に身を委ねるのか。
スーツのまま電車に乗り、いつも降りる駅を乗り過ごしてしばらく待てば、そこはもう新天地だ。
アクセルを踏み込んで高速に乗れば、まだ見ぬ景色に飛び込める。
でもそんな事をする人間はまず存在しないだろう。
社会を構築する部品としての使命を果たし、曲がって使えなくなれば、代わりの人間がその役割を担う事になる。
それに満足しているのか、割り切っているのか、それが楽しいのか、果たして自分の行動一つで、人生の色が一瞬で変化する事を知らないのか。
現状に不満を抱きつつも、毎日同じ事を繰り返す人間が不思議だった。
どれだけ考えても、種族の違う猫童には到底理解はできない。
しかし、司との出会いで、そんな人間の実直さや滑稽さ、儚さの魅力に気づき始めているのもまた、事実であった。
【幸運な奴らだな】
すれ違う人々を見て、猫童はふと呟く。
この街は今日も平和だ。
平和に見える、と言っておこう。
家の中に存在するはずなのに、姿を見せることがないゴキブリのように、ここを歩く人々と交わらない場所では、今日も悪意が赤黒く社会に巻き付いている。
交わらないと言っても、誤差のようなものだ。
今この瞬間にも、ここでは無いどこかで人が傷つき、盗みが入り、事故で人が死んでいる。
何の間違いも無い、事実である。
それがたまたま、「自分が選ばれなかっただけ」とも知らないで、人間は明日を待ち望む。
誰も、自分が今日死ぬ、と考えて生活してはいないだろう。
それもまた、大いなる間違いである。
悪意を持つ人間がどこにいるのかなど、誰にもわからない。
たまたま入ったコンビニで、強盗に遭うかもしれない。
車を運転していたら、信号無視の車に激突されるかもしれない。
道の対面から歩いてくるその人間は、今どうしても人を殺したくて仕方がない人間かもしれない。
そんな事を考えて生活している人間は、どれだけいるのだろうか。
一般的な人間からすれば、脅迫的に思えるかも知れないが、完全に否定する事が出来るだろうか。
明日は自分の番かもしれない。
そんなことも考えず、明日を迎えることが当然だと思っている。
そんな楽観的な人間達が、愚かにも感じられる。
【まあ、残りの人生楽しんでくれよな】
大通りを離れて、人のいない山道を登り始める。
人間の手が加わっていない緑の匂いを存分に吸収して、社会の煙臭い匂いと置換する。
体中の黒ずんだ組織が、清々しい緑に塗り替えられるような気がして、とても気分が良い。
どれほど歩いただろうか、街を一望できる高度まで辿り着いた。
【んー、いい眺め】
手頃な岩に腰掛けると、街を眺める。
この視界の中だけでも、どれだけの人間が存在するのだろうか。
その全てが主人公。
狭いが、濃い景色だった。
【人間ってどんな気持ちなんだ?】
いつものように司に問いかけてみたが、この山には、自分1人しかいない。
それで思い出した。
買い出しに行かねば。
人間という生き物について考えるあまり、完全に思考から排除されてしまっていた。
【そろそろ行くか…】
愚かで面白い人間と、鮮やかな自然を十分に満喫した後、長い道のりをかけてスーパーへ向かう事にした。
〜〜
【ちょっと歩きすぎたな。遠い。】
楽しかった寄り道に、少しばかり後悔を感じながら歩みを進める。
住宅街を通り過ぎようとした時であった。
『あの、すみません。』
少女の声だった。
【あ?何やお前は】
平然と返事をしたが、これは司との約束を破った訳ではない。
その少女は、すでに人間ではなかった。
【俺は忙しい、早く行かないと卵が無くなるかもしれない。】
いつもなら面白がって話を聞く所ではあったが、買い出しの任を達成できなかったとなれば、2度と外に出してもらえないのでは無いかという懸念があった猫童は、その少女の相手をする気はなかった。
『あなた、私を助ける力がありそうだから。』
濁った瞳が張り付いた無表情を崩す事なく、無気力な口調で少女が言う。
【助けるだ?
地縛霊様が何のつもりだ。】
猫童は威圧的に、ドスを効かせる。
『あの世に行かせて。』
相変わらず、一定の音程を保つ少女の声。
【何で俺がそんな事しなきゃならねぇんだ。
自分の事は自分で解決しな。】
『出来たらやってる。
私じゃ無理なの。
人を殺す程の力は無い。』
人形のように、一切表情を変える事なく、少女が言う。
【人を殺す?
お前みたいなガキが、誰を殺したいんだ?】
「両親」
少女が短く発した単語に、猫童は噛み付く。
【へっ!親殺しは大罪だぜ。
また人間に産まれたいなら、辞めときな。】
立ち去ろうとした猫童だったが、次の少女の言葉に、思わず足を止めた。
『親は私を殺したのに?』
その一言で、猫童の頭の中には自然と司の顔が思い浮かんだ。
もし、この女が人間なら、アイツはどうするのか–
【殺された?
何で。】
『殴られたり、蹴られたりして、ご飯ももらえなかった。
勝手に産んで、勝手に殺された。
何歳まで生きてたのかも覚えてない。
ただ、死んで欲しい。』
少女の口調は変わらないが、口数は増えた。
『私はこの世に居たくない。
早くあの世に行きたい。
地獄より、この世界の方が、嫌い。』
地縛霊、この世に未練を残したがために、それが太い鎖のように絡みついて、昇ろうとする魂が引き戻されてしまい、成仏できずにいる霊体。
【……着いて来い】
そう言って歩き出す猫童を、初めてキョトンとした表情を表して、少女が見つめる。
【置いてくぞ。早くしろ。
お前の願いを叶えられる奴がいる。】
歩き続ける猫童の背を、少女が追いかけて来た。
猫童はため息をつく。
【お前のせいで、俺は変わっちまったよ】
悪態をつきながら、司を思う。
猫童が外出して数時間、夕焼けと少女の霊を背に、アパートへ戻る
〜〜
【帰ったぞー】
玄関を開けながら言う。
ベットで横になっていた司は、首をもたげた。
「おい、誰連れて来てんだ。買い出しはどうした。」
【あー何か、話聞いて欲しそうな奴がいたんで。
仕事取って来てやったぜ。】
「仕事?」
ベッドから起き上がると、司は少女に近づく。
「君は、誰だ?」
猫童よりも低い身長に顔の高さを合わせて、司が問う。
『名前は忘れた。
この人が、私の願いを叶えてくれる人?』
司からの質問にはそっけなく、猫童に顔を向けながら少女が答える。
【まあ、話だけなら聞いてくれるだろうな。】
司は、全く予想していなかった展開に追いつくために、少女に質問する。
「で、なんだ?
俺に何をして欲しい?」
少女の濁った視線と司の真剣な視線が交差する
『私を殺した親を殺して欲しい。』
抑揚のない声ではあるが、キッパリと返答する少女。
司は、タバコを手に取った。
「そうか…
普段は人間相手の仕事をしてるんだが…
まあ、話してみろ。」
司は仕事机にもたれ掛かると、咥えたタバコに着火した。
司は、少女の短くも壮絶な人生の全てを、受け止める覚悟を決めた。
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